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05_役に立つ学問とは何か? 役に立つ教育とは何か?

日本学術会議「問題」と人文学

 本稿を書きあぐねていた2020年10月1日に、総理大臣菅義偉が、日本学術会議の会員候補のうち6名を任命しなかったことが官房長官記者会見で明らかにされた。日本学術会議とは日本の国立アカデミーで、学術と科学研究の振興、学術の国際交流、学問的な知見による政策提言を行う機関である。210名の会員と2000名の連携会員で構成されている。会員は登録学術団体(学会)の推薦によっている。総理大臣による「任命」は実質的なものではなく「形式的任命」であることは、1983年の中曽根康弘首相の国会答弁で確認されていた。

 任命されなかった6名が安全保障法関連や特定秘密保護法などについて政府の方針に批判的な発言をしてきた法学者、政治学者、歴史学者などだったこともあり、この任命拒否は学問の政治権力からの自由を侵害するものであるとして大きな問題となったことは周知の通りだ。また、6名が除外されたプロセスについても、首相と政府の説明は二転三転しているものの、適法ではなかった可能性が高い。

 ただしここでは学問の自由や会員任命手続きの適切性を問題としたいわけではない。現在も進行中の、日本学術会議をめぐる議論の中で、気になる傾向があることを問題としたいのだ。それは、分かりやすい言葉で言えば、「人文学叩き」である。

 取り急ぎ前もって付言しておくが、ここにはひどい論点のすり替えがある。問題は学問分野に関わらない学問の自由であるし、また日本学術会議がどのような組織であるかに拘わらず、今回のような形で満足な説明もなく会員の任命を拒否することは、権力による学問への恣意的な介入一般を正当化してしまうものであり、看過できない。それがなぜか一部では、人文系の学問への批判に議論が向かっているのだ。

 おそらくそれは、今回任命拒否されたのが人文社会系の学者であり、また一部の政治家が、日本学術会議を権威主義的で非効率的な組織であることを人びとに印象づけるために、まさにそういう性格(権威主義・非効率)を持っているとされる(そしてそういった政治家には批判的な)人文社会系の学問と学者をスケープゴートにしたためだろう。ただ問題はそれにとどまらない。私の感覚が確かならば、大学組織に所属するかしないかは関係なく、当の人文社会系の学問にたずさわる人たちの間にも、日本学術会議の権威主義と非効率についてのどす黒い感情が渦巻いているようなのだ。それが言い過ぎなら少なくとも、「自分たちのことを、役にも立たないくせにえらそうにしていると感じる民衆の感情を、学者たちは全然理解できていない」という、ポピュリズムを記述しているのかそれに迎合しているのか曖昧な指摘が多くなされているのは確かである。

 ここでは日本学術会議が本当に権威主義的なのか、非効率なのかという問題は問わない。問題は、一部のポピュリスト政治家たちが、人文学は人びとの反権威主義の感情に訴えるための格好の案山子になり得ると考えているらしいという事実、また人文社会学の内部にもそれに親和的な感情が一部存在するという事実である。

 この問題について、本稿では直接の解決を探し求めるということはしない。ここにわき上がった反人文学的な感情には歴史がある。その歴史はさまざまなスパン(数十年単位、または数百年単位)がある。その歴史をふり返ったとき、私たちに必要なのは「文化」の意味を深く問いなおすことだと分かるだろう。

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「役に立つ」とは何か

 さて、日本学術会議のことは一旦忘れて、ここで持ち上がっているおなじみの話題について一般的に考えてみよう。つまり、「学問が役に立つ/立たない」という問題である。正直に言えば、この話題には私はうんざりしている。学問、とりわけ人文系の学問が「役に立つ」のかという話題になると、早晩その論争は、信念同士のぶつかりあい(もしくはすれ違い)になる。役に立たないと主張する側は、多くの場合は自分が大学の教養課程で受けた教育の経験に照らし合わせてそれが自分にとっては役に立っていないという信念を確認するためにそのような主張をする。私の分野(英語関連)で典型的なのは、「大学の一年生をつかまえてシェイクスピアを原文で読ませるような英語の授業」という主張だ。これは、大学内部の事情に疎い外部者だけではなく、教養の担当ではない大学教員さえもいまだに口にする偏見である。大昔には、大学によっては確かにあったのかもしれない。だが、現在そんな英語の授業をする人はいない。

 一方で擁護する側の反応はいくつかのパターンに分かれる。一つは「無用の用」の主張による擁護。人文学は確かになくてもいい余剰のようなものかもしれない。しかし社会というものは常にそのような「無用」を必要としている。そのような無用を許容する余裕を失った社会は機能不全に陥った社会である。そのような主張だ。

 それとは対照的なのが、人文学はちゃんと「役に立つ」のだという主張である。その場合に「役に立つ」というのは、多くの場合大学卒業後の職業において必要なスキルを、人文学は、または学問一般は提供しているのだ、つまり実利的なのだという意味であることが多い。学問は問題を発見し、それに関する調査をし、問題の解決を探究するものである。それはまさに、ビジネスの上で必要なスキルではないか? もしくは、とりわけ人文系は言語を駆使する学問であり、そこで得られたコミュニケーション力はその後の人生(職業)において役立つのである、など。

 もう一つ忘れてはならない反応は、人文学の対象は(例えば古典的な文学作品は)それ自体に価値があるのであって、現代社会において役立つかどうかとは関係なく、伝えていかなければならないのである、というものだろう。これは現在、一番のマイノリティだろうか。

 これら三種類の主張はいずれも現在において力を持ち得ないように思える。最後の、人文学の対象には擁護するまでもなく内在的な価値があるのだ、という主張の無力さは言うまでもない。「無用の用」の主張は、内在的価値の主張のほぼ裏返しと言える。現在最も可能性のありそうな、「人文学は実利的なのだ」という主張も、何かが間違っていると感じられる。というのも、「実利」の中身がなんであれ、その主張は、それがなぜ人文学でなければならないのかを説明はしないように思えるからだ。上記のようなスキルは、人文学というよりは学問そのものの手続きに必要とされるのだから。

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「文系お取りつぶし」通知

 私がこの話題にうんざりするというのは、ほぼ全ての議論が前節で述べたような問題構成の中を循環して、その外側に出ることがないからである。外側に出るための基本的な手続きは、問題を歴史的に見ていくことだろう。それは日本学術会議をめぐる議論を歴史化することでもある。

 もっとも短いスパンでこの問題を歴史化するならば、まず挙げられるべき年は2015年である。この年号は本連載でも何度も登場するが、この年に起きたいくつかのことは、中期的な大学のありかたを決定的に変えた。2004年の国立大学法人化に続く画期の年である。2015年というと学校教育法と国立大学法人法が改正され、学長の「ガバナンス」が強化された年である。だが、本稿にとって重要なのは、この年の6月8日に出された「文科相通知」(「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」)である。(注1)この通知は、国立大学法人の第二期中期計画の期間が終了し、第三期中期計画の方向性を示すものとして出された。その中には、次のような一文があった。

 特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、一八歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学等としての役割を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むように努めることとする。

 この一文は、「文系お取りつぶし」としてとらえられ、さまざまな反応を引き起こした。この要請をめぐるさまざまな状況は、現在の日本学術会議問題に直結している。この要請が出された時期は、国会で「安全保障関連法案」が審議されていた時期だった。それに対して反対運動も起こる中、6月11日には「安全保障関連法に反対する学者の会」が立ち上げられた。この会に名を連ねた学者の大部分は人文社会系の専門家たちであった。それもあって、この通知を安全保障関連法に反対する人文社会系学者への弾圧と取る向きもあった。それと、冒頭に述べた日本学術会議の会員任命拒否との連続性は明白である。

 また、「文系お取りつぶし通知」直後の6月16日には文科相が国立大学の入学式・卒業式における国旗掲揚・国歌斉唱を要請した。このことは、日本学術会議問題のさなか、10月13日に、17日に予定されている中曽根康弘元首相の合同葬の際に黙祷などの弔意を表明するようにという要請の通知が国立大学などに出されたことと平行関係にある。

 そしてなんと言っても、この通知に最初の、もっとも大きな反撃ののろしを上げたのはほかならぬ日本学術会議であり、その幹事会による2015年7月23日の声明「これからの大学のあり方─特に教員養成・人文社会系のあり方─に関する議論に寄せて」であった。この声明は先ほど引用した「通知」の一文を引用し、それに徹底批判を行ったのである。自民党政権にとって、日本学術会議と人文社会系の学者はのどに刺さった小骨のようなものであり、それを抜かんとして政府は着々とその歩みを進めてきたことがよく分かる。

 そのように政治的な思惑も絡まりあった「通知」から日本学術会議問題にいたる議論は、やはり「役に立つ/立たない」という枠組みで行われてきた。2015年の通知は突然に出されたものではない。例えば2014年5月6日には、当時の安倍晋三総理大臣がOECD閣僚理事会において、「私は、教育改革を進めています。学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています」と述べている(http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0506kichokoen.html)。この発言の背後に、「役に立たない」ものとしての学術研究と「役に立つ」ものとしての職業教育という二分法が存在することは言うまでもない。

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人文学と新自由主義

 2015年の「文系お取りつぶし通知」は、国家主義や権威主義の一環としてとらえられるべきなのだろうか。私は、そのようにだけ見ては一連の政府の動きの本質を見誤ると考えている。ここに現れている国家主義・権威主義は、別の目的のための手段と考えるべきなのだ。

 その別の目的を一言で述べるならば、それは本連載でもくり返し強調し検討してきた新自由主義でありその下での緊縮財政である。

 新自由主義は「小さな政府」の原理として説明されるのが定石である。だが、それは、1980年代以降、新自由主義が権威主義的な「強い国家」を伴ってきたという経験的事実との矛盾を説明しない。これについてヒントを与えてくれるのは、フランスの哲学者ミシェル・フーコーである。フーコーは講義録『生政治の誕生』においてドイツのオルド自由主義に新自由主義の系譜を辿りつつ、新自由主義的な統治性を論じ、結論として次のように述べている。

競争経済と国家とのあいだの関係はもはや、異なる領域を互いに境界画定し合うような関係ではありえません。自由にしておくべき市場の作用もなければ、国家が介入を始めることになる領域もありません。というの、まさしく市場は、というよりもむしろ市場の本質そのものとしての純粋競争は、それが産出されることによって初めて、そしてそれが能動的な統治性によって産出されることに初めて、出現可能となるからです。(『ミシェル・フーコー講義集成8 生政治の誕生』慎改康之訳、筑摩書房、2008年、149頁)

ここでフーコーの統治性の概念に深入りすることはできないが、当面、新自由主義とは純然たる、アナーキズム的な市場の自由の理論ではなく、国家による統治と一体のものとしてしか生じ得ない「自由市場」の理論なのだということを確認しておきたい。

 実際、新自由主義下における国家は、自由市場を実現するために、市場から手を引くどころか積極的に市場に介入してきた。そのまさに一例が、本連載の第一回・第二回で論じた英語入試外注化の試みである。新自由主義的な国家は、それまで競争がなかったところに、競争の必要の有無は関係なく、人為的に競争を生み出す。その際の論理は、市場の競争に任せた方が当該の業務はより効率的かつより良く行われるというものだ。だが、これまで行われてきたセンター試験の英語試験を超えるようなクオリティ(純粋な英語試験としてのクオリティだけではなく、50万人という膨大な数の受験者の力を公平に測定する仕組みとしてのクオリティ)のものを、民間試験は提供できない。そのことを、民間試験の導入の当面の頓挫は物語っている。そのような矛盾があるゆえにこそ、権威主義的な国家は介入を行うのだ。

 先に触れた2015年国立大学法人法の改正、とりわけ学長による「ガバナンス強化」はこの文脈で考えるべきだろう。ガバナンス強化とは要するに現場、学長などの大学執行部、そしてその上に文部科学省という権力構造を強化し、要するに上意下達の体制を強めることにほかならない。だが、それは単なる国家主義・権威主義ではない。新自由主義的な市場と競争(念のために確認しておくが、それは公平な競争などではまったくない)を人為的に作り出すための国家主義なのだ。

 このことは、ここのところ日本学術会議と同時に問題になっている、国立大学の学長(総長)選考プロセス問題にも当てはまる。最近、東京大学と筑波大学において、非常に不透明な形で総長・学長選考への教職員の「意向投票」を無効化したり、学長の任期を現学長の権限で延ばそうとするなどの動きが表面化している(東京大学について詳しくは「2020東京大学総長選考を考える 」を、筑波大学については「筑波大学の学長選挙を考える会 」を参照)。それに呼応するように10月13日の閣議後会見で、元文部科学大臣の萩生田光一は、各大学で選ばれた国立大学学長を任命しないこともありうるという発言をした。この動きは2015年の「ガバナンス強化」の延長線上にあると同時に、文部科学省審議会の「国立大学法人の戦略的経営実現に向けた検討会議」が本年9月に出した、「国立大学法人の戦略的な経営実現に向けて~社会変革を駆動する真の経営体へ~ 中間とりまとめ」への対応であるとも考えられる。そしてこの中間とりまとめを一瞥すれば、学長選考プロセスへの介入がいかに大学運営の新自由主義化の一環であるかが分かる。中間とりまとめは、タイトルにある通り国立大学法人を「経営体」へと変容させることを要請する。その文脈上で学長選考については「多様なステークホルダーからの信頼を確実に獲得していくため、学長選考会議及び監事が持つ牽制機能について可視化させることが必要」と述べている。「牽制機能」とは一体何か? 誰を牽制するのか? どうやら意向投票で自分たちの学長を選ぼうとする教職員・学生はこの会議にとっては、「ガバナンス改革=上意下達改革」を実現するために「牽制」されるべき対象である。私はここに、マーガレット・サッチャーの新自由主義改革のもとで潰されていった労働組合を想起せざるを得ない。まさに、政権内部では大学の教職員・学生を労働組合的な抵抗勢力とみなしている節があるのだが。

 さて、ここまで述べたことが正しいとするなら、そのような新自由主義的・権威主義的国家が人文学を目の敵にする理由はどのように説明できるだろうか。いくつかの分かりやすい説明はすぐに思い浮かぶ。ひとつには、新自由主義的な資本主義の要請に人文学は応えないどころか、積極的にそれに反対をするから、というものである。前節での安倍前首相の発言が要約しているような「役に立つ/役に立たない」の区分の中で、人文学は後者のカテゴリーに入るから、ということだ。ただ、おそらくことはそう単純ではない。本連載で論じてきたように、緊縮財政によって大学が予算を削減される中で、一種の内戦が起きて人文系の重要な「住みか」であった教養課程が解体され、さらには2015年の「通知」のように人文社会系の学部が周辺化されていったという事情がそこには加わってくる。

 こういった説明はそれ自体間違いではないと思う。それは私が先に「うんざり」だと述べたような循環的な議論を、抜け出すものではない。そこから抜け出すためには、現在の日本学術会議をめぐる議論を支える感情のレベルに何が起きているのか、それはいかなる歴史的経緯を経て生じたのかを考える必要がある。次回はその問題を日本からは離れて考えていきたい。そこで私たちは、人文学と権威主義、そして大衆社会と民主主義といったより広い問題を考え直す必要に直面するだろう。


つづく


注1 これについては『大学出版』No. 106(2016年4月)の特集および吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書、2016年)を参照。

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