「ネット世論」の危険性―『メタバースは革命かバズワードか~もう一つの現実』by岡嶋裕史
3章⑤ なぜ今メタバースなのか?
光文社新書編集部の三宅です。
岡嶋裕史さんのメタバース連載の18回目。「1章 フォートナイトの衝撃」「2章 仮想現実の歴史」に続き、「3章 なぜ今メタバースなのか?」を数回に分けて掲載していきます。今回は3章の5回目です。なぜここに来て、メタバースということが言われ始めたのか? その背景を探っていきましょう。
メタバースはそもそも必要なのでしょうか? 人類に何らかの福音をもたらすものなのでしょうか? 3回に分けて解説していきます。
下記マガジンで、連載をプロローグから順に読めます。
3章⑤ なぜ今メタバースなのか?
■メタバースはそもそも必要なのか? 人類にどのような福音をもたらすのか?①
「ネット世論」の危険性
メタバースは、穏健な「ふつうの人」のために、何より必要だと考える。私はここで、すでにトリッキーな書き方をしている。「『ふつうの人』や『ふつうの人生』などというものはあり得ず、かけがえのないオンリーワンの人生をすべての人が生きているのである」と反論する余地がある表現だからである。
そういうのにちょっと疲れてしまった人は多いと思う。
ふつうの人生や平均的な人生は測りにくいかもしれないが、波風立たない尖らない人生はあり得るだろう。いきなりオンリーワンの人生を背負わされ、その可能性の限りを極めろと言われても、そんなことしたくない人も多いだろう。
現状では、そういう声はいまひとつ上げにくいし、ネガティブに捉えられがちである。獲得した自由は行使し、満喫しなければならないという圧がかかっている。理屈としてはあっている。正論なだけに抗しがたい。だが一方で、そんなに疲れることはしたくないのも、人としてのどうしようもない現実だと思うのである。
また、この傾向をインターネットが助長する。
誰もが発信できるようになった。インターネットが技術的にそれを担保した。個人の自由もかつてないほど重んじられている。こうした状況がそろうと、言論空間が焼け野原のようになることはすでに論じた。
誰もが自分なりの生き方や個性、正義を主張しなければならないし、そうであれば人の意見や利得と不可避的に競合する。そこで相手の意見を容れることは、損失や敗北を意味する。「ゆずり合う」は選択肢のうちにない。そんなぬるい概念は、同一の価値観を持ち、大きな権威が他を圧する社会ではじめて機能するのだ。
重ねて言うが、自由と平等は本来食い合わせが悪く、自由を促進すれば平等は後退する。口を開けて待っていても、平等が降ってこないのであれば、自分で勝ち取るしか方法はない。だから社会は殺伐とする。とはいえ、一度自由を知ってしまった後で、絶対王政の世の中に戻れるものではない。私たちは戦わなければならない。ブログやSNSは常に炎上のリスクを含んだ油断のならない戦場になる。
でも、そんな状態で戦い続けられる人は多くない。
極端な意見を持つ人がこの戦場に残り続けることは知られている。左にしろ右にしろ、改憲派にしろ護憲派にしろ、フェミニストでもマスキュリスト(男性差別をなくして男女平等を目指す男性運動家のこと)でもそうだ。強固な信念のあるがゆえかもしれないし、単に聞く耳を持っていないだけかもしれない。批判や誹謗中傷に強いのである。
しかし、これらの人々は少数派である。多くの人は批判に耐えられないし、自分が直接攻撃されていなくても、罵り合いの続く言説空間などに居たくない。そこで、降りてしまうのである。マジョリティは昔からサイレントだった。ネットワークの力を得て、その無音さはさらに徹底されるようになった。
無音であるから、マジョリティの意見はリプリゼンテーションされにくい。声を上げないのだから当然である。
インターネットの発信力が増大し続けているから、マスコミの予算削減が危険な水準に達しておりニュースソースが枯渇しているから、理由はいくつもあるが「ネット世論」としてネット上で目立つ意見が報道の形で広まる機会が増えたいま、これはリスクの兆候である。
ごく少数の、しかも偏った意見が、一つの世論として社会に認知されるからだ。マジョリティは自分にとって違和感のある意見が、存在感を増していくさまを眺めることになる。(続く)
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