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大松孝弘×山口周「ほんとうの欲求は、ほとんど無自覚」を就活生の私が聞いて思ったこと

大学生、講演を聴く。

はじめまして。清水といいます。
私は今、大学3年生です。こちらの光文社新書編集部で、ときどきお手伝いをさせてもらっています。

ちなみに、読みは「キヨミズ」です。

これ、初対面で「キヨミズ」と読んでもらえたことは、本当に盛らずに人生で一度もなくて。なんならふりがなが振ってあって、しかも五十音順に並んでいるはずの名簿を読み上げる学校の先生でさえ、必ず一回は「シミズ」って呼ぶんですよね。か行にあるでしょうに。「寺」の一文字が付けば、みんな「キヨミズ」って読めるのになあ。

すみません。思ったより前置きが長くなってました。いつもはじめましてのときに「これ、シミズじゃなくて、キヨミズなんです」をやるので、つい心の声が……。改めまして、清水と申します。

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趣味は、丸いお皿に入った料理を真上から撮った写真を集めることです。これは、大学近くの中華料理屋(?)で1年前くらいに食べたラーメン。よい円です。

いつもは光文社のサイト『本がすき。』に関する仕事をしているんですが、今回、初めての外出! イベントを見学できることに!

そのイベントというのが、今年、2020年1月20日(月)に、外苑前にある株式会社ピースオブケイクのオフィス内に構えられたnoteイベントホールにて行われた、光文社×宣伝会議コラボ記念講演「ほんとうの欲求は、ほとんど無自覚」

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この講演は、光文社新書のヒット作『世界のエリートなぜ「美意識」を鍛えるのか?』の著者・山口周さんをお相手に、『ほんとうの欲求は、ほとんど無自覚』(宣伝会議、波田浩之氏との共著)を刊行したばかりのデコム代表取締役・大松孝弘さんの出版記念イベントとして開かれたものです。

司会は、noteユーザーとしてもおなじみで、こちらもつい先日に『なぜ「つい買ってしまう」のか?』(光文社新書)を上梓された、データサイエンティスト・松本健太郎さんが務め、現代におけるマーケティングや人の隠れた欲求について、1時間にわたるトークセッションが行われました。

イベント開始前。

私は表参道で電車を降り、外苑前の方はさっぱりなので、地上に出た瞬間からマップを凝視。そうしたら突然大通りを外れて、すごい、暗い、細い道に案内されました。たまにあるよな、こういう獣道みたいな場所通らされること……と不安になりつつも、お、なんとかそれとおぼしきビルに到着しました。
会場があるはずの4階に向かったものの……あれ、誰もいない?

……時間を、30分勘違いしてました。いきなり失態……。
結果一番乗りで入場することに。洗練された内装、きれいに並べられたイスに、いち大学生の私はおどおどしながら着席。こわいぜ、noteホール。

しかし開演時間が近づくにつれ、徐々に人が増えてきました。開演直前、16:30になる頃には、

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おお、すごい盛り上がり。空いている席を見つけるのが大変なほどです。早く着いておいてよかった。

それから、ぱんぱんの会場を前に、司会の松本さんの進行によってイベントがスタートしました。最初の30分間でデコム代表・大松さんから、著書名、そして今回のイベントタイトルでもある「ほんとうの欲求は、ほとんど無自覚」についての講演があり、そのあとでこの議題について山口さんとの対談が、という流れです。
(松本さんによる全文書き起こし記事もどうぞ!)

やっと今回の本題ですが、ここからはこの講演を聴いて、現在学生として大学に通う私が感じたこと、考えたことを書いてみます。

だいたい良いんじゃないですか?時代

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大松さんの講演のキーワードになっていたのが、「だいたい良いんじゃないですか?時代」という言葉。

1980年代後半以前、昭和の時代は、「だいたい良くない時代」だったといいます。たとえば、人々に「不満を言ってください」と聞くとあがってくるのは、「寒い」とか「暑い」とか、「食べ物が腐って食べられない」みたいな、本能として、生きるために必要なこと。マズローの欲求5段階説でいえば下の2つ、「生理的欲求」と「安全欲求」に位置する、比較的言葉にしやすい問題でした。

だから企業側も、じゃあ寒さを暖かさに、暑さを涼しさに、食べ物が腐らないように、と、つまり「エアコンどうぞ」「冷蔵庫が必要ですね」といったふうに、技術さえあれば、ちゃんとみんなの不満と一対になる解決策を提示することができたのです。

しかし、その「生理的欲求」「安全欲求」が解消されると、ご存知のピラミッド図のとおり、次に残るのは「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現欲求」の3つ。これが現在の、「だいたい良いんじゃないですか?時代」にある、不満です。

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この3つの欲求は、「生理的欲求」「安全欲求」と違って、それほど単純ではありません。人間の心理と深く結びついていて、とても言語化しづらいのです。

例として、大松さんが講演で紹介されたマクドナルド「サラダマック」が挙げられます。

結果から言ってしまうと、この新商品「サラダマック」は失敗に終わったそうです。

当時、業績が低迷していたマクドナルドは、この事態に終止符を打つため、マーケティングリサーチを行いました。世間に「なぜ最近あまりマクドナルドに来てくれないんですか?」「どうしたら来てくれますか?」と聞いたところ、寄せられたのは「もういい歳になったし、カロリーの高いものはちょっと」だとか、「もっと健康にいいものがあれば」という声。

ふむなるほど、とマクドナルドは、その意見に従い、ヘルシーで健康的な「サラダマック」を開発します。

しかし、売れない。なぜか?

それは、人々の口から出てきた不満が、“本当の不満” ではなかったからです。

そういう「カロリー」や「健康」に普段気を遣っていると言った人たちがマクドナルドに対して本当に求めていたのは、まったく真逆の、「普段気を遣っているぶん、たまには分厚くて食べ応えのあるハンバーガーにかぶりつきたい」という欲求だった。心の中の野性的な欲求が、理性的な考えに押さえ込まれていたのですね。

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商品から離れて「人」を見つめなおすことでこの心理に気付き、一般的なサイズより巨大な「メガマック」や「クォーターパウンダー」を発売したところ、これが大ヒット。マクドナルドの業績は、快方に向かいました。

不満を述べた人が、嘘をついていたわけではありません。本人も、自分の本当の欲求に気が付いていなかったのです。

生きるために最低限必要なものは、だいたい開発され、良いものが手に入る。けれど、まだ何かが足りない。満たされてるわけじゃない。

「だいたい良いんじゃないですか?時代」は、そんなもやもやとしたよく分からない不満が、世の中を、私たちを覆っている時代だというのです。

言葉は理性そのもの

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この高次的な欲求の言語化が難しいのは、言語というもの自体が、必ず大脳新皮質を経由して発されるものだからだ、と山口さんはいいます。

大脳新皮質というのは、大脳のうち、合理的で分析的な思考を司る部分で、霊長類、特にヒトで特に発達しているそうです(算数の頃から理系分野に苦手意識のある生粋の文系なので、何のためらいもなくググりました)。
私たちが「脳」と言われて思い浮かべる、あのシワシワの器官が、この大脳新皮質にあたるらしいです。そんな名前だったのかあ。

つまり、言語は理性そのものなのです。頭で考えてから、言葉になる。心の中で感じていることをそのまま言葉にして出すというのは、至難の業です。
だから余計、自分でも理解できていない不満や欲求を言語化することは、不可能に近い。でも人々が抱えている不満は、そこにある。

現代において解決すべき問題は、なかなか表に出てこず、人間の心の中に閉じ込められているというわけです。

ハタチそこそこの、わたしのはなし

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このお二人の社会全体に対する話を聞いて、私は自分自身のことについて、一人、考えてしまいました。

今私は、21歳。「だいたい良いんじゃないですか?時代」に生まれ、その波にもまれて育ってきました。

同時に、物心ついたときから携帯電話やインターネットの存在があるデジタルネイティブ世代だと、おおよそ言っていいでしょう。

私たちにとっては、言語化、「文字化」することは、コミュニケーションの前提のようなものです。会って話すより、電話で話すより、文面で。媒体は手紙、交換日記からメールになり、そしてLINEやmixi、Twitter、FacebookといったSNSへと移っていき、自分の言葉は近親者から友達へ、友達の友達から見知らぬ人へ。連鎖的に、どんどん世界へとひらかれていきました。

文字って、瞬発的なものではありませんよね。考えて書いて、少し時間をおいて、また書き直す、みたいなことができます。

それは決して悪いことではないのですが、文字でやりとりをする私たちにとって、気付いたときには、日常的なコミュニケーションも、そういう「やり直し」や「推敲」ができるものになっていたのです。

たくさんの人の目に触れるので、自分のことなのに、周りから見た自分の姿を想定して、より良く見えるように書き換えてしまう。いつでも、大きなホールで大勢の聴衆を前に話しているような感覚です。そんなときは、誰だってきれいな筋書きやカンペを作りますよね。そんなふうに、普段の生活から、自分も、相手も、そんな理想像の皮を被って、さもそれが本当の自分であるかのようにふるまっている。

そんな関係性が当たり前の社会で、「人間理解」をすることは、かんたんではありません。みんな、自分の嫌なところを内に閉じ込めて、固く鍵をかけているのです。

それが続くと、どうなるか。

相手のことが分からないだけでなく、自分自身の本当の姿も、見失ってしまうことがあります。

少なくとも私が小学生のときには、「いい子」は「答えどおりに答えられる子」でした。赤ペン先生の花丸と、ピアノのコンクールの賞状と、問題集の解答ページと、期末の成績表、親や先生や友達の「いい子だね」「すごいね」「賢いね」がすべて。

人を理解する術が分からないから、自分のことも自分で理解する方法が分からないという、芋づる式です。いつのまにか、何事にも外に答えを求めてしまう癖がついていました。

ああ、なんだか、どんよりしてきてしまいましたね。おかしいな。書き始めたときはこんなはずじゃなかったのに……(笑)。

もちろんこれは、あくまで私個人の話に過ぎません。きっと、同じ時代を生きていても、まったく当てはまらないという方もたくさんいらっしゃるでしょう。

でも、お二人の対談を聞いて、今、社会全体が不透明な、しかし確実に存在する不満を抱えているということが分かり、どうしても自分自身のこれまでと重ねられずにはいられませんでした。

私と同じような人が、ひょっとしたら多いんじゃないか。みんなが、自分では答えを見つけられず、どこかに解答を探している。探すばかりで、誰も解答をもってはいないんじゃないか、と。

再開発の進む渋谷は「売れる街」を捨てた

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対談の終盤、大松さんは、「だいたい良いんじゃないですか時代が、さらにだいたい良いんじゃないですか時代になると、人ってどうなるんですか?」と聞かれることがある、とおっしゃいました。そしてその返答として、「私たちってなんで生きているんでしたっけ?時代」になるんじゃないかと答えた、とも。

私はこのお話を聞いて、ついこの間、ゼミの発表の際に調べたことを思い出しました。

私は大学で、「街を歩き、街を描く」をモットーとしたゼミに入っています。その発表のときは、「渋谷の街に、バブル時代の記憶を探す」というテーマを設けて街を歩きました。

「若者の街」と言われて久しい渋谷では、主に今年開催予定の東京五輪に向けた再開発プロジェクトが進み、特段、昨年末のその勢いは目を見張るものがありました。11月頭〜12月初旬の約1ヶ月間で、大型複合施設が3つもオープンしたのです。
3年間の改装期間を経て復活した渋谷パルコ、周辺地域で最高層となる47階建て、さらにその屋上に展望台が設けられたことで話題になった渋谷スクランブルスクエア、そして旧東急プラザ跡地にできた渋谷フクラスの3つです。

調べているうちに私は、そのすべてに共通することがある、と気が付きました。

それは、「とにかく売れる」のではなくて、「文化的で感性的」な存在になることを目指している、という点。

たとえば渋谷スクランブルスクエアは、ターゲットを「シブヤな人々」とし、その定義を「本物・本質を大切にする年齢にとらわれることのない生活者」「毎日を自分らしく選択する都市生活者」「楽しみながら豊かに人生を設計し、自分らしく輝く多世代の女性たち屠蘇の家族」としています。

渋谷フクラスのターゲットは、「都会派の感度が成熟した大人たち」で、新しいライフスタイル「MELLOW LIFE」の提案をするといいます。

もっとすごいのは、ターゲットを「ノンエイジ」「ジェンダレス」「コスモポリタン」と定め、コンセプトを「世界へ発信する唯一無二の“次世代型商業施設”」と据える新生パルコ。なんと改装する際に、マーケティングを一切行わなかったというのです。

責任者である泉水隆(せんすい たかし)パルコ執行役は、FASHIONSNAP.COMでのインタビューのなかで、こう述べています。

『マーケティングは需要を読み取るものですよね。郊外店舗だとマーケットインでも成り立つかもしれませんが、都心店舗だと潜在需要を嗅ぎ取って先読みしなければうまくいきません。

市場が飽和成熟状態の中でどうすればお客様に喜んでもらえるかを考えた時、マーケットインではなくマーケットクリエイション、顧客の需要を無視して渋谷パルコを作ることにしたんです。

消費者は多様化しているので、もしかすると需要を読み取るなんて、そもそもできないことなのかもしれない。なら我々が本当に面白いと思うものを集めて作る、ということをコンセプトにしてしまおう。それこそテナントのバランスも無視して。

その結果、雑貨のテナントが少なくなり、今面白いと考えているファッションと食にフォーカスした構成になりました』

モノを売ることを主とする商業施設から、コト・情報を発信し体験する次世代型商業空間への発展。今あるニーズを満たすのではなく、ニーズを創造し、新しい消費・価値観を提供する商業施設へ。
このように、どの施設も、「消費される」のではなく「生み出す」ことを目指しているということが、見えてきました。

はじめまして、あなた。わたし。

ここで浮き彫りになるのは、社会全体の潮流と、そのなかで生きる人の中身の、乖離です。

特に私の世代は、「生み出す」ことが苦手なように思います。でも、今の社会が求めているのはまさにその「生み出す」力です。
分かりやすい不満や欲求は、転がっていない。誰もが解答を探している。「生み出す」人を、待ちわびているのです。自分でもよく分からない、言語化できない、そんな気持ちをスッキリさせるためのヒントを提案するには、まずは何が問題なのか、分からないといけない。つまり、人の心に隠された見えない不満や欲求を探り当てる視座が必要です。

では、その第一歩となるものは何なのか。

そこで私は、それが今回の講演で学んだ、人を理解しようとするという心構えだと思ったのです。

私たちは今、ずっと目を背けてきた他人のこと、そして自分のこと、人間のことに、向き合っていくときを迎えているんじゃないかなあ、と、ぼんやりながら思うのです。

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そういえば、大松さんのお話のなかで、

「Youtubeなどで昔はインスタ映え的な非日常系動画が流行っていたけど、今はGRWM(Get Ready With Me)(私は動画系に疎いので知らなかったのですが、一緒に出かける準備をしよう! みたいなコンセプトで、今日の服装とか、メイク動画をアップするものだそう。食べる音を高音質マイクで拾って配信するASMRなら知ってた!!(意地))とか、モーニングルーティーンみたいな、日常系動画が増えている

というのがあって。このお話をされたというYoutuberと若い女性の研究をされている方たちとのトークセッションでは、「それ、なんでなの?」と聞いても、その理由が出てこなかったとおっしゃっていました。

私ならなんて答えるかなあー、と講演後からずっと考えていたんですが、今ならそれは、これまで、何度も書き直した言葉で自分を着飾ってきたみんなが、少しずつ「人を見よう」としているからなんじゃないか、と答えたいな。


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