『カラー版 王室外交物語』(君塚直隆著)の「はじめに」を特別公開!
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『カラー版 王室外交物語』(君塚直隆著)の「はじめに」を特別公開!

立憲君主制の現在(新潮選書)でサントリー学芸賞を受賞、エリザベス女王(中公新書)で新書大賞2021に入賞、イギリス王室やヨーロッパ国際政治史などに関する数々の著作で人気の君塚直隆氏が、新刊『カラー版 王室外交物語』(光文社新書)を刊行いたしました。物語は紀元前14世紀から21世紀までの3500年におよび、舞台も中東、アジア、ヨーロッパ、そして日本と壮大に巡ります。さらにカラーの写真、資料、地図も満載の贅沢な1冊です。ここでは特別に、「はじめに」「目次」を公開いたします。ぜひお読みいただければ幸いです。

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はじめに――王室外交とは何か

191ヵ国の貴顕に見守られ


2019(令和元)年10月22日、皇居正殿「松の間」徳仁(なるひと)天皇「即位礼正殿の儀」が厳かに執り行われた。中庭を挟んで「松の間」の反対側に位置する宮殿「長和殿」では、色とりどりの勲章を身につけた貴顕(きけん)たちが、古式ゆかしい即位礼をじっと見つめていた。彼らはこの日のために海外から集まった、世界各国の元首や元首級の首脳たちである(見出し写真)。

在位半世紀を超えるブルネイのボルキア国王(在位1967年~)を筆頭に、スウェーデンのカール16世グスタヴ国王(在位1973年~)、さらにイギリスのチャールズ皇太子など、各国の主要な王族たちも一堂に会していた。共和制を採る国々からは大統領が直々に参列するケースも多かった。

この日、即位礼に招待を受けたのは191ヵ国と2つの国際機関の代表たちであった。2021年現在の国連(国際連合)加盟国は193ヵ国であるが、まさに地球のほとんどの国から駆けつけてくれたことになる。こののち、彼らは同日夕刻から宮殿「豊明殿(ほうめいでん)」で行われた「饗宴の儀(きょうえんのぎ)」に出席し、贅をこらした日本料理に舌鼓を打ちながら、新天皇の即位をあらためて祝福したのである。

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豊明殿で行われた「饗宴の儀」(2019年10月)

なぜこれだけの貴顕が世界中から集まったのであろうか。21世紀の今日、世界で最も長い伝統に包まれた日本の皇室に敬意を表するという意味もあるであろう。さらに第二次世界大戦後の日本が、70年以上にわたって築いてきた各国との友好関係も影響しているのかもしれない。

しかしそれ以上に重みを持ったのが、徳仁天皇自身の「外交歴」にあったのではないだろうか。

徳仁天皇(1960年生まれ)は、大学を卒業された1982(昭和57)年秋に親善のためにブラジルを訪れられて以来、「お立ち寄り」も含めれば、48回もの外遊を経験している。訪問した国はのべで97ヵ国にも及ぶ。またこの間、昭和~平成の時代に国賓や公賓として来日した各国の貴顕らの接遇にも、祖父の昭和天皇(在位1926~89年)や父の明仁(あきひと)天皇(在位1989~2019年)とともに携わってきた。

また近年では、オランダのウィレム=アレクサンダー国王(在位2013年~)の即位式やスペインのフェリーペ6世(在位2014年~)夫妻の結婚式(2004年)にも出席されている。両国王は王妃を伴い、このたびの即位礼にもいの一番に駆けつけてくれた。すなわち、これまでに徳仁天皇自身が築き上げた世界中の首脳たちとの「絆」が、このたびの即位礼にこれだけの貴顕が集まってくれた大きな要因となっているのである。

皇室の国際親善


海外を公式に訪問した初めての天皇は、徳仁天皇の祖父である昭和天皇だった。皇太子時代の1921(大正10)年にはヨーロッパ各国を歴訪していたが、天皇としてもちょうど半世紀後の1971(昭和46)年に同じくヨーロッパを訪れ、さらに75(昭和50)年にはアメリカ合衆国も公式訪問した。

そして次代の明仁天皇は、1953(昭和28)年6月に行われたイギリスのエリザベス2世(在位1952年~)の戴冠式に出席し、その後西ヨーロッパ諸国を訪れて、帰路にはアメリカを訪問したのを皮切りに、まさに世界中を旅した。

美智子妃と結婚されてからも、その翌年の1960(昭和35)年秋に「日米修好100周年」を記念して、夫妻でアメリカを訪れ、当時のアイゼンハワー大統領から大歓迎を受けている。それからの30年近くの間に、皇太子夫妻は22回の外遊でのべにして実に66ヵ国も訪れた。

さらに天皇に即位してからは、1991(平成3)年にタイやマレーシアを廻られてから、2017(平成29)年のヴェトナム訪問まで、20回の外遊でのべにして47ヵ国を訪れている。特に最後の外遊では、ヴェトナムからの帰路にタイに立ち寄り、その前年秋に崩御した長年の親友ラーマ9世国王(在位1946~2016年)の弔問に訪れた。


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明仁天皇(当時)のタイ訪問(2017年3月)

皇室の「外交」については第五章で詳しく論ずるが、実は天皇皇后や皇族による海外への訪問等は、「外交」とは言わずに「国際親善」と表現されている。

宮内庁が公式に定義する「国際親善」とは、「天皇・皇族の外国ご訪問をはじめ、賓客(ひんきゃく)として訪れる外国の国王・王族・大統領などのご接遇、その他来訪の外国要人などのご引見、外国元首とのご親書やご親電の交換、外国の慶弔に際してのご名代等のご差遣(さけん)、在日外交団の接遇など」多岐に及んでいる。

日本国憲法が定める天皇の国事行為にも含まれているが、日本に赴任した新任の大使が信任状を携えてやってくるのも、霞が関の外務省にある外務大臣執務室ではなく、まさに「即位礼正殿の儀」が執り行われた宮殿「松の間」であり、ここで各国大使から天皇への信任状捧呈式が行われているのである。

しかし、これら天皇による一連の接遇や儀式のあり方を見れば、いずれも各国の元首らが執り行う「外交」に寸分違わぬものであることに、読者も気がつかれるであろう。

外交とは何か


それでは、そもそも「外交」とは何なのか。イギリスの外交官で歴史家でもあったハロルド・ニコルソン(1886~1968)の名著でその名もずばり外交(1939年)によれば、「外交とは、交渉による国際関係の処理であり、大公使によってこれらの関係が調整され処理される方法であり、外交官の職務あるいは技術である」。

英語で外交はdiplomacyという。この言葉の語源は、ギリシャ語の動詞diplounに由来し、「折りたたむ」ことを意味する。古代ローマ帝国の時代に、皇帝の名代として各地で交渉にあたる際、すべての通行券、帝国道路の旅券および運送状は二重の金属板に捺印され、折りたたまれ、特別な仕方で縫い合わされていた。いつしかこれらの金属旅券がdiplomaと呼ばれ、diplomaを携えて交渉にあたる人々はdiplomat(外交官)と称された。そして彼らの行為は全般的にdiplomacy(外交)となったのである。

ただし、実際に今日でいう「外交」という意味でdiplomacyが一般的に使われるようになったのは、古代ローマ帝国の時代からではない。それから1500年以上も経過した、近代になってからのことなのだ。第三章で見ていくように、近代ヨーロッパ外交をリードしたフランスでも、フランス学士院内のアカデミー・フランセーズが編纂する最も権威のあるフランス語の辞書のなかに「外交(diplomatie)」という用語が登場するのは、なんと1798年になってからのことだった。その9年前にはフランス革命が勃発し、この翌年(1799年)には、かのナポレオン・ボナパルト(1769~1821)がクーデタで全権を掌握することになる、といった程度の「最近の話」にすぎないのである。

フランスに限らず、ヨーロッパ全体でもdiplomacydiplomaticといった言葉が、今日使われているような「外交」という意味で定着するのは、1780年代から1800年の間ぐらいのことであった。武力紛争を避けるための平和的な手段としての「外交」という考え方は、ヨーロッパにおいても中世や近世においてはまだ確立してはいなかった。

第二章で見るように、中世末期のイタリアで今日に連なる「大使」「大使館」が登場はするものの、近世までのヨーロッパ国際政治においては、「外交」とはこうした公式な存在とは別に、家族間や友人間といった非公式なネットワークによっても担われており、まさに多重層的で複雑なものだった。もちろん家族や友人といっても市井の人々ではない。中世から近代までのヨーロッパ外交の担い手は、様々な血脈や人脈でつながっていた各国の王侯貴族たちだったのである。

写真2_ローマを辞去するイングランド大使

ローマを辞去するイングランド大使(V・カルパッチョ画):第二章より


21世紀の現代世界に普通に見られる「外交」の直接的な起源は、近代のヨーロッパにあった。それではこの「外交」という概念が日本に入ってきたのはいつ頃のことなのか。

そもそも前近代の東アジア世界では、漢字で書く「外交」という言葉はマイナスのイメージでとらえられていたようである。第二章でも述べるが、秦漢以降に中国が「帝国」を形成してからは、「朝貢(周辺の異民族が皇帝に対して形式的に服従する)」「冊封(さくほう:皇帝から封禄〔ほうろく〕や爵位を与えられる)」によって周辺の国々と結ばれる関係が築かれ、これは西欧でいうdiplomacyという意味での「外交」とは明らかに異なっていた。むしろ中華の皇帝とこのような関係で結ばれた周辺の王侯らが、皇帝に無断で「外と交わること(外交)」は皇帝に対する裏切りを意味した。

「外交」という漢語が、diplomacyの訳語として登場するようになったのは実は日本においてであった。ペリー来航(1853年)により、欧米列強と様々な交渉を本格化していった近代日本に「外国事務掛(がかり)」が登場し(1868年)、それが翌69(明治2)年に「外務省」に改名され、ここで取り扱われる「外国交際」を略して「外交」と称するようになったわけである。「外交」はやがて、同じく欧米列強から圧力を受けるようになっていた清王朝下の中華帝国や李王朝下の朝鮮にも、古代とは異なる意味で採用されていく。

現代における王室外交


いずれにせよ今日の「外交」の起源は、アジア諸国やアフリカ、アメリカ大陸ではなく、近代ヨーロッパ世界に見いだすことができる。なぜヨーロッパなどよりも古くから文明の栄えた地域ではなく、ヨーロッパが「外交」の牽引役となったのか。

その点は第二章以下で詳述することにするが、先にも紹介したとおり、近代的な意味での「外交」が形成されていく過程で絶大な役割を果たしたのが、ヨーロッパの政治・経済・社会・文化のすべてを席巻(せっけん)した王侯貴族たちであった。16世紀半ばまでは王侯自身によって担われていた「外交」も、17世紀半ばまでには王侯の代理人としての外交官らに徐々に委ねられていく。彼らの大半はもちろん貴族階級の出身であった。こうした状況は紆余曲折を経ながらも、20世紀初頭まで続いた。

しかし20世紀前半に二度にわたって生じた世界大戦の後には、それまでのヨーロッパを支配した貴族政治は、選挙権や被選挙権を新たにつかんだ中産階級や労働者階級の人々が主な担い手となる大衆民主政治へと大きく転換する。それと同時に、それまでのヨーロッパ国際政治を主導した帝国や王国が次々と姿を消していった。それはヨーロッパだけにとどまらない。第二次世界大戦後には、アジアやアフリカ各地でも次々と皇帝や国王たちが追い落とされ、人民が選挙で選ぶ大統領によって統治される共和国へと姿を変えた。


図1


21世紀の現在、世界には(日本も含めて)君主国は28ヵ国しかなくなってしまった。今からたかだか100年ほど前には、アメリカ合衆国以南の南北アメリカ大陸を除き、世界の大半が皇帝や国王、女王らが治める君主国とその植民地であったにもかかわらず。

それでは、世襲の君主によって国家元首が代々受け継がれる「君主制」は、いずれ人類の歴史からも姿を消す運命にあるのだろうか。

地球上の大半の国々が「共和制」を採り、イギリスの君主が元首を兼ねる「英連邦王国」(カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど15ヵ国)を含めたとしても、国連加盟国の5分の1程度にすぎなくなった「君主制」の国々は、遅かれ早かれ「共和制」へと移行する運命にあるのだろうか。

実は、世界に現存する君主国のなかでも特にヨーロッパに残る10ヵ国のうち8ヵ国は、君主制が国民統合の象徴の役割を果たすだけではなく、新たな全地球的課題に対してもいち早く動き、国民にとっての支柱的な存在になっているのである。

21世紀の今日において、もはや全地球的な共通理念となりつつあるのが、「民主政治(democracy)」「人権(human rights)」を保障できない政府は、君主制であれ共和制であれ、人民によって倒壊されるという現実である。実際に、第二次世界大戦後に君主制が倒された、エジプト(1953年)、チュニジア(57年)、イラク(58年)、イエメン(62年)、リビア(69年)、エチオピア(74年)、イラン(79年)、ネパール(2008年)といった国々は、民主政治や人権を無視した「暴君」たちが、民衆や彼らから支持された軍部によるクーデタや革命によって追い出された事例である。

また皮肉なことに、このうちのエジプト、チュニジア、イエメン、リビアなどは、こうした革命で暴君を打ち倒したものの、いつしか国民の心を忘れた長年の腐敗政治の結果、今度は自身が「暴君」と化した独裁者たちが、2010~12年の間に生じた、俗に「アラブの春」と呼ばれた一連の民衆運動によって倒されたのであった。

その点でも、今日に残るヨーロッパの王室は、民主政治と人権の擁護者であるばかりか、社会が極端に右傾化し、「ポピュリズム」とも呼ばれる自国や多数派民族、多数派文化を優先するような政治傾向にあるなかで、国内で均衡を保つ重要な存在にもなっている。LGBTへの理解をいち早く示したオランダベルギーも「王国」である。多文化共生社会の実現をめざそうとするノルウェースウェーデンデンマークのいずれもが「王国」である。これら北欧三国はまた、第二次世界大戦後にいち早く社会福祉国家へと舵(かじ)を切った国々であり、これらの動きに君主や王室が深く関わっているのだ。

こうしたヨーロッパ王室の頂点にあるのがイギリス王室であり、それを戦後70年近くにわたって支えてきたのがエリザベス2世である。彼女もまた、国民統合の象徴であり、国家の支柱となっている。2020年に新型コロナウイルスが世界を席巻し、ロンドンをはじめイギリス中がロックダウンとなったとき、国民に向けて団結と希望を訴えるテレビ・メッセージを送った女王の姿は、読者の記憶にも新しいのではないだろうか。

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バッキンガム宮殿(ロンドン):第四章より


本書のねらい


そのエリザベス女王も在位69年の間に、130回も外遊を行い、訪れた国の数は128を数える。のべで計算すれば、非公式な訪問も含め、350ヵ国を超すことになる。まさにイギリスの「王室外交」を体現する存在なのだ。

しかし同じく「エリザベス女王」ではあっても、今から400年ほど前に君臨したエリザベス1世(在位1558~1603年)の時代には、イングランドなど弱小国にすぎず、ヨーロッパ国際政治のなかで自国の防衛に汲々(きゅうきゅう)としていたのが現実であった。

それが19世紀のヴィクトリア女王(在位1837~1901年)の治世に最盛期を迎え、「大英帝国」と呼ばれた時代を経て、20世紀の二度の世界大戦の後には、イギリス王室はヨーロッパでも並ぶもののない格付けを誇るようになっていく。

本書は、このイギリスのエリザベス2世が現代国際政治のなかで果たす「王室外交」の意味についても述べていく。しかし、著者は彼女の外交のあり方についてはすでに類書も出しており、本書ではそれとは異なった視点から「王室外交」について論じていきたい。

エリザベス2世がイギリス史上最長の在位を誇ろうが、彼女の君主としての立ち居振る舞い「外交の技法」などは、彼女ひとりで一朝一夕に築き上げたものではない。そこに至るまでの人類、さらにはヨーロッパの歴史のなかで、「外交」がどのような変化を遂げ、21世紀のイギリス王室のこのひとりの女王へと結実していったのか、というより大きな視点から本書を描いていきたいのである。

そのために、まずは「外交」が人類の歴史のなかで登場したことが記録として残された今から3500年前の世界にみなさんをお連れする。その後のギリシャやローマなど古代世界のなかで「外交」がどのような展開を見せていったのかを検証したい(第一章)。

次いで、近代以降の「外交」にとっては定番となる、自国(もしくは主君)を代表して相手国に常駐する大使や大使館が現れる15世紀半ばのイタリア半島へと舞台を移して、近代外交の夜明けについて検討していきたい(第二章)。

そして、王侯や貴族らが外交の担い手となった16世紀以降の、まさに「宮廷外交」の黄金期へと話を移そう。この時代に、21世紀の今日の「外交」にもつながる、国際会議のあり方、条約の結び方、外交儀礼などが確立していくのである(第三章)。

さらに、20世紀の二度の大戦を経て、今や世界の「王室外交」の頂点に立つイギリスのエリザベス女王にも、これまでの「外交」のあり方が脈々と受け継がれているとともに、彼女に独特の「外交の技法」がある点なども紹介していきたい(第四章)。

最後に、こうしたヨーロッパの「外交」から影響を受けた、明治以降の日本の皇室にも、その時々の情勢に応じた「外交」が立派に存在し、今日のイギリスやヨーロッパの「王室外交」からも大きな示唆を得られるのではないかという点を述べておきたい(第五章)。

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ノルウェー・オスロの宮中晩餐会でおことばを述べる明仁天皇(当時:2005年5月):第五章より

以上の考察から、一見すると時代遅れの封建時代の遺物とも思われがちな王室や皇室といったものが、21世紀の現代においてもきわめて重要な意味を持ち、それが特に「外交」の側面において見られることを確認できよう。

それでは、まずはみなさんを紀元前14世紀の中東世界へとご案内して、「王室外交」の源流と伝統を見ていくことにしよう。

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〈 目 次 〉

はじめに――王室外交とは何か
191ヵ国の貴顕に見守られ
皇室の国際親善
外交とは何か
現代における王室外交
本書のねらい

第一章 「外交」のはじまり――文明揺籃の地から
世界最古の外交文書
対等の関係で結ばれた「兄弟」
ファラオとの縁組
黄金が塵芥と同じぐらい豊富に……
外交使節団の存在
古代ギリシャの外交――同盟の形成
アレクサンドロス大王の時代――「外交」の不在
共和政ローマの「外交」――同盟と勢力拡張
帝国への道――外交より戦争へ
ローマ帝国の「軍団外交」
ローマ帝国の分裂
「ビザンツ」帝国の巧妙な外交
アッバース=ビザンツの外交関係

第二章 近代外交の夜明け――15世紀イタリアから
「常駐大使」の登場
なぜイタリアだったのか?
なかなか広まらない大使たち
常駐大使館の定着
大使の資質とは?
永遠の都ローマ
格付けにこだわる王侯たち
東方には拡がらなかった「常駐大使」――オスマン帝国の場合
華夷秩序の世界――明・清の中華帝国

第三章 宮廷外交の黄金時代――1520~1913年
饗宴外交のはじまり――金襴の野の会見
贅を尽くした饗宴の数々
宿命のライバル――カールとフランソワ
フランスとスペインの熾烈な争い
国際会議のはじまり――ウェストファリアの講和
それでも起こる「序列」をめぐる争い
会議は続くよどこまでも……
フランス主導の時代へ――リシュリューの先見性
革命とナポレオンの時代――再び「外交」の不在へ
「財政=軍事国家」の確立と「ヨーロッパ」の拡大
「いとこたちの戦争」と宮廷外交の終焉

第四章 エリザベス二世の王室外交
地球を42周した女王
バッキンガム宮殿での「おもてなし」
女王の外交――「三つのサークル」のなかで
ウィンザー家の格式――現代のハプスブルク家?
儀礼に厳格な女王――ブルーリボン外交
剝奪された勲章――二度の大戦のなかで
生涯で最大の怒り?――ハッサン国王から受けた「仕打ち」
恩讐の彼方に――和解の担い手としての女王

第五章 皇室外交への示唆
「天皇」と外交
最初の皇室外交――アルフレッド王子の来日
西欧流の導入――饗宴外交の刷新
世界の一等国へ――明治~大正期
第二次世界大戦後の裕仁の皇室外交
明仁・徳仁の時代の「皇室外交」へ

おわりに
2020年――王室受難の年?
現代における王室外交の効用

主要参考文献

写真:『女性自身』写真部、日本雑誌協会代表取材、宮内庁提供写真

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著者プロフィール

コンパス写真

君塚直隆(きみづかなおたか)
1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『悪党たちの大英帝国』『立憲君主制の現在』(後者は2018年サントリー学芸賞受賞、ともに新潮選書)、『ヴィクトリア女王』『エリザベス女王』『物語 イギリスの歴史(上・下)』(以上、中公新書)、『肖像画で読み解く イギリス王室の物語』(光文社新書)、『ヨーロッパ近代史』(ちくま新書)、『女王陛下のブルーリボン』(中公文庫)、『女王陛下の外交戦略』(講談社)など多数。


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