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日本人の戦争観は本当に変わったのか?――占領期のGHQの施策と日本側の反応を検証する

第二次世界大戦後、GHQの日本占領期に行われた「ウォー・ギルト(戦争の罪やそれが罪であること)」に関する情報教育政策は、当時の日本人にどのような影響を与えた/与えなかったのか。

日本政治外交史を専門とする名古屋大学の賀茂道子先生の新刊『GHQは日本人の戦争観を変えたか 「ウォー・ギルトをめぐる攻防」』では、学術的な知見に基づき、占領期のメディアにおける日米双方の思惑と行動、その効果をコンパクトにまとめられています。また『私は貝になりたい』をはじめとした、BC級戦犯を描いた映像の分析を通じて、日本人の戦争認識は占領期以降、昭和・平成・令和を経てどう変化していったのかも考察しています。

刊行に際しまして、このページで「まえがき」と「目次」を公開いたします。(光文社新書編集部 高橋)

まえがき

出発点は江藤淳


「ウォー・ギルト」、本書のテーマであるこの言葉はいったい何を意味するのだろうか。「ウォー・ギルト」の「ウォー(War)」は戦争を意味し、「ギルト(Guilt)」は、罪そのものやそれに対する責任、罪の意識、さらには罪を犯したこと、などを意味している。つまり、戦争の罪に関する概念であろうことは想像がつく。だが、これを適当な日本語一語に置き換えようとするとなかなか難しい。

 第二次世界大戦後の連合国による日本占領期、この「ウォー・ギルト」を日本人に理解させるために、GHQ民間情報教育局(Civil Information and Education Section以下CIE)は「ウォー・ギルト・プログラム」を実施した。日本占領の目的は、日本を二度と米国の安全を脅#おびや$かさない民主主義国家に作り替えることであり、そのためには政治制度改革だけでなく、国民の意識改革も必要であると考えられていた。具体的には、軍国主義思想の排除と民主主義思想の啓蒙である。この実現のために、CIEはメディアを使って様々なテーマで情報発信を行い、そのテーマの一つに「ウォー・ギルト」があった。

 この政策を初めて世に知らしめたのは、文芸評論家の江藤淳(えとうじゅん)である。江藤はこれを「日本人に戦争の罪悪感を植え付けるための政策」と位置づけ、具体的な施策として、1945年12月に全国紙に連載された「太平洋戦争史」や、そのラジオ版である『真相はこうだ』を挙げた。これらで示された歴史観は、それまで日本政府が喧伝していたアジア解放のための聖戦という「大東亜戦争史観」ではなく、先の戦争が日本の侵略戦争であるとする、新たな戦争観であった。

 GHQは検閲という手段で言語空間を閉ざしたうえでこうした情報発信を行い、さらには東京裁判によって連合国の正義を押し付けた。これにより戦後日本の歴史記述のパラダイム転換が起こり、そのパラダイムを戦後も固く守り続けたために、日本人は間接的に洗脳された。これが江藤の主張である(※1)。

 これまで埋もれていた占領期の情報政策の一つを世に問うた意義は大きく、江藤の功績の一つに挙げられるだろう。しかしながら江藤は、検閲の研究を行うため米国に滞在していた時に偶然入手した、ある一種類の文書を根拠にしてこの政策を結論付けた。そのため、この政策の全体像の解明にまでは至らなかった。

 その後も、この政策に対する検証はほとんど行われてこなかったが、江藤の唱えた洗脳言説だけは保守論壇で支持され続けた。実態が明らかになっていないにもかかわらず、なぜこうした言説だけが独り歩きしているのか、「ウォー・ギルト」とはいったい何か。こうした素朴な疑問が筆者の研究の出発点にあった。

保守論壇における洗脳言説の広がり


 江藤が主張した歴史記述のパラダイム転換とは、言うまでもなく、「アジア解放のための自衛戦争」から「侵略戦争」への転換を意味している。東京裁判で示されたこの戦争観は、「東京裁判史観」と呼ばれ、保守論壇でしばしば標的にされてきた。ところが近年、「自虐史観」なる言葉が勢いを増し、「東京裁判史観」はこの言葉にとってかわられるようになった。「自虐史観」とは、日本人自らが戦前の日本を過度に悪とみなす歴史観を指す造語である。

 いったいこの言葉はいつ頃から広く使われるようになったのであろうか。国立国会図書館のキーワード検索で「自虐史観」を調べてみると、1996年を境にその数が急増していることがわかる。

 1996年といえば、「新しい歴史教科書をつくる会」の結成が発表された年である(発足は1997年)。「つくる会」は、これまでの歴史教科書があまりにも「自虐的」であるとし、日本人としての誇りを持てるような教科書を制作する目的で結成された。特に90年代に入り外交問題となっていた慰安婦問題をターゲットにしており、歴史教科書から慰安婦記述の削除を求めていた。おそらくこの動きと「自虐史観」の広がりは連動していると思われる。東京裁判では天皇が免責されたため、「東京裁判史観」の否定は天皇免責の否定にもつながる。そのため、「つくる会」の結成以降、不都合を一部含む「東京裁判史観」に代わって、「自虐史観」なる言葉が急速に広がっていくのである。

「自虐史観」は、「東京裁判史観」のようにはっきりとした輪郭を持たない言葉であるため、ある意味都合の良い言葉でもある。GHQによる洗脳言説は、この「自虐史観」と結びついて以降、その矛先を広げていった。今や愛国心がないのも、祝日に国旗を揚げないのも、すべてGHQによる洗脳の成果ということになっている。もっとも、こうした言説がデータや資料に裏付けられたものでないことは明らかだ。世論調査によれば日本人の8割は愛国心を持っているし(※2)、戦後一貫して国旗・国歌に対しては好意的な見方が大勢を占めている(※3)。一定以上の年齢で地方在住の人であれば、子どもの頃、祝日に家々で国旗が掲げられていた光景を記憶している人も多いのではないだろうか。

「洗脳」の意味するところ

 このように、裏付けもないままに広がっていった洗脳言説であるが、日本人が「ウォー・ギルト・プログラム」によって洗脳されたか否かを、実証するのは容易ではない。洗脳言説を検証するためには、まず「洗脳」という言葉の定義から始めなければならない。通常「洗脳」とは強制的な思想改造を指し、その過程で暴力や監禁、感覚遮断、賞罰といった手段がとられる。むろん、占領期にこうした強制的な手段がとられた事実はないが、一方で江藤が指摘するように、検閲によって言語空間が閉ざされていたことも事実だ。
 しかし言語空間の閉鎖を言うのであれば、戦前の方がよほど強力であった。なぜなら、占領期は戦前と異なり、私的な言語空間は閉ざされてはいなかったからである。特高(*1)や隣組(*2)による監視、さらには権力者による虚偽の情報発信が日常的であった戦前の方が、よほど洗脳に適した環境であった。

 おそらく、保守論壇で言うところの「洗脳」は、こうした心理学的定義に基づいた厳密なものではなく、戦前とは異なる考えを持つに至った程度のライトなものを指しているのだろう。しかしながら、すべての日本人の考えが百八十度変わったのか、それとも一部の日本人の、一部の考えが変わったのか。そもそも考えが変わったというのであれば、それは「洗脳」ではなく教育ではないか。教育であれば、自身で学び理解し、判断してそれを受け入れたにすぎないのではないか。

 このように、「洗脳」の定義を明確にしなければ、洗脳言説の論証は不可能だ。しかし、「洗脳」を心理学的な意味に定義すれば洗脳言説は否定されることになるため、自身で都合の良い「洗脳」の意味を創作せねばならない。結局、「洗脳」とは何か、何を洗脳されたのかを明確化しなければ議論は堂々巡りになってしまう。

 7年間という占領期に、それまでの政治システムおよび教育に大きな変化があったことは否定すべくもない。そのうえで、検閲によって都合の悪い情報を隠蔽しつつ、「ウォー・ギルト」や民主主義、男女平等といった新たな価値観がGHQにより示されたことは、それなりに日本人に影響を与えたはずである。逆に全く影響がなかったというのであれば、占領はうまくいかなかったということになる。

 ただ、だからと言って「洗脳」と称して諸悪の根源を占領に置き、さらに日本社会がそれを70年以上にわたって維持し続けていると考えるのは、それこそ日本人に対する「自虐」ではないか。

日本人の視点を取り入れる必要性

 結局のところ、「GHQによって洗脳された」という言説はあくまで物語であり、これに対しては「洗脳」の定義づけも含めて個々の判断に任せるほかないだろう。しかしその一方で、判断を下すために必要な「ウォー・ギルト・プログラム」の実像が理解されているとは言い難く、この政策の持つ多様な側面が見逃されているのも事実だ。

 占領政策は米国によって実行されたが、その成功の陰で日本人が協力し、ともに作り上げた面があった。例えば、しばしば「押し付け」との枕詞が付く憲法は、日本側の審議の段階で生存権などの項目が盛り込まれた。憲法改正案には当時の政権与党をはじめ、多くの党がこぞって賛成票を投じた。GHQ占領下ゆえ、そうせざるを得なかったわけではない。実際、共産党は反対票を投じている。つまり、賛成票は権力維持と国民の支持を得んがために、自らの意思で投じられたのである。加えて言えば、その後マッカーサーから憲法改正の許可が出たにもかかわらず、吉田茂は実施しなかった。また、「勝者の裁き」として批判の多い東京裁判も、戦犯選定にあたっては、日本の多くの保守派が協力したことがこれまでの研究によって明らかにされている。要は日本人が、GHQを利用することで自身の思いを達成した面があったということだ。

 同様に、「ウォー・ギルト・プログラム」にも多くの日本人が関わった。CIE制作の番組に積極的に出演した者もあれば、陰ながら情報提供を行ってプログラムを支えた者もあった。絶対的権力者であるGHQの意向を忖度して、自ら情報を発信した日本人も多い。情報発信の仕方も、一方通行だけでなく、討論形式、質疑応答形式など双方向性のもの、日本人の手に委ねたものなど、様々な方法がとられた。また、国際情勢の変化に伴い、プログラムの方向性自体にも途中から変化が見られた。占領者が一方的に特定の思想を被占領者へ押し付けたといった、単純な図式ではなかったのである。こうした多面性と柔軟性こそが日本占領のダイナミズムであり、占領を成功に導いた要因の一つでもある。

 この日本側の視点を取り入れて「ウォー・ギルト」に向き合いたいというのが、本書執筆のきっかけである。「ウォー・ギルト・プログラム」が日本人に対する啓蒙政策であった以上、日本人の視点を取り入れて描き出さなければ、実像とはいえないのではないか。

 実は、この日本人の視点に関しては、筆者にとって未達成の残された課題でもあった。占領史研究は日本側の史料が圧倒的に不足していることもあり、往々にして占領者の史料に依拠しがちである。本書では占領者だけでなく日本人にも焦点を当て、日本人は「ウォー・ギルト・プログラム」にどのように関わったのか、日本人は「ウォー・ギルト」をどのように捉えたのかを軸として、「ウォー・ギルト」と向き合った日本人の物語を描き出したい。

水面下で流れ続けた「戦後の語り」

「ウォー・ギルト・プログラム」は占領終了によってその幕を閉じたが、その後も日本人は国際社会の一員として「ウォー・ギルト」に向き合ってきた。サンフランシスコ平和条約に、東京裁判(極東国際軍事裁判)およびBC級戦犯裁判(*3)判決の受け入れ条項が入れられたことは、戦争の語りに一定の枠組みを与えることになった。いや、たとえこの条項がなかったとしても、やはり戦争の語りは変わらなかっただろう。なぜなら、世界は日本を侵略者とみなしており、アジア・太平洋戦争で戦った国――そこには近隣諸国だけでなく戦勝国である米・英・蘭などの連合国も含まれるが――との友好関係を保つために、この枠組みから逸脱することは難しかったからである。特に、日米安保による強い結びつきを持つ米国との関係が、その枠組みを一層堅固なものにした。実際、歴代の自民党政権は「侵略」か否かへの言及を避けてきたが、国際社会が「侵略」だと評価していることについては認めることで公式にその枠組みを維持してきた(※4)。

 一方で、国際社会向けの公式な語りとは別に、国内での内向きの語りがあったことは、保守政治家たちの数々の発言からも明らかだ。つまり、表向きの侵略戦争、反省、という語りとは別の語りが、水面下で静かに、しかし途切れることなく流れ続けるという二重構造が戦後継続してきたのである。吉田裕はこの二重の語りを「ダブルスタンダードの歴史観」と評し、それは1960年代から始まったとしている(※5)。昨今、社会の右傾化が言われているが、それはこれまで静かに水面下を流れていた内向きの語りが表に浮き上がってきたにすぎない。

 本書では、「ウォー・ギルト」を占領史の中にのみ位置付けるのではなく、戦後を含めた日本人の意識の中に位置づけるために、戦後製作されたBC級戦犯を主人公とする映像の分析を通して「ウォー・ギルト」の行方を追う。その際に、水面下で静かに流れ続けた非公式の語りにも注意を払いたい。

「ウォー・ギルト」をどのように訳すのか

 最後に、「ウォー・ギルト」という語についても再度説明を加えておきたい。「ウォー・ギルト」をどのように訳すのか。これは筆者にとって、この問題に取り組んだ当初からの課題の一つでもあった。冒頭で説明したように「ギルト」とは、「罪の意識(罪悪感)」「罪に対する責任」「罪そのものや罪を犯したこと(有罪)」を指す言葉である。ここから、「ウォー・ギルト」とは日本語一語で表すことが難しい概念であることがわかる。

 そこで、まずCIE文書での「ウォー・ギルト」という語の使われ方に注目した。CIE文書の中では、「ウォー・ギルト」と「戦争責任」は並列で使用されることが多い(第1章参照)。同列に扱われているということは、「ウォー・ギルト」と「戦争責任」は同じカテゴリーに属してはいるが、異なる概念を持つ言葉であることになる。

 続いて、「ウォー・ギルト」を含む文章の構成に着目した。CIE文書では、日本人に「ウォー・ギルト」を「理解させる」「焼き付ける」「説明する」「明らかにする」といった使われ方がされ、特に「理解させる」が多用されている。つまり、「ウォー・ギルト」は理解しなければならないものということになる。となれば、「戦争の罪悪感」といった意識を表す訳語には違和感を持つ。

「戦争責任」「戦争の罪悪感」が間違っているわけではないものの、それがCIEの考える「ウォー・ギルト」概念の中心ではないとなると、いったいCIEのイメージする「ウォー・ギルト」とは何なのか。残りは「罪そのものや罪を犯したこと(有罪)」である。そのため、前著『ウォー・ギルト・プログラム:GHQ情報教育政策の実像』では、当時学術論文で使用されていた「戦争の有罪性」を訳語に用いた。現在でも、この言葉はそれなりに「ウォー・ギルト」をよく表していると思う。

 その一方で、日本語にすることで「ウォー・ギルト」という概念に一定の枠をはめてしまうことが危惧される。また、「有罪性」という言葉自体が造語でもあるため、かえってわかりにくくしてしまう恐れもある。結局、日本語にない概念をあえて日本語にする必要があるのか。こうした思いから、前著の刊行後は日本語には訳さず、「ウォー・ギルト」をそのまま使用するようにした。そのため、読者にとってわかりにくい言葉ではあるが、本書でも「ウォー・ギルト」をそのまま使用する。

 また、この政策の名称についても触れておきたい。当初、CIEの情報発信の中で「ウォー・ギルト」は最重点テーマの一つとされていたため、日々のCIEの活動を綴った日報や局長あての報告書に登場することが多かった。その時に使われた名称は、「ウォー・ギルト・キャンペーン」「ウォー・ギルト・プログラム」、もしくは単に「ウォー・ギルト」のみであった。その後CIEによる情報発信は「インフォメーション・プログラム」と呼ばれるようになった。そのため江藤が依拠した文書には「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」と書かれていた。一方でこの時期でも「ウォー・ギルト・プログラム」の名称も見かける。

 このように定まった名称がないこと自体、この政策のCIEにおけるあいまいな位置づけを表しているともいえる。ただし、やはり便宜上、政策の呼称があった方が読者にとってわかりやすいことから、本書ではこの政策が開始された当初から最後まで使われていた「ウォー・ギルト・プログラム」なる名称を使用する。

 このように言葉の定義づけにこだわる理由は、「ウォー・ギルト」という日本人にはなじみのない概念がこの政策をよりわかりづらくしている面が大きいからである。「ウォー・ギルト」とは何なのか、その本質はどこにあるのか、そして日本人はこの未知なる「ウォー・ギルト」にどう向き合い、先の戦争をどう捉えたのか。こうしたことを考えながら本書を読み進めてほしい。

※1 江藤淳『閉ざされた言語空間』文春文庫、1994年、272―273頁
※2 2007年1月25日に発表された『朝日新聞』の世論調査では、愛国心があると答えた人は78%であった。
※3 内閣府の世論調査や新聞社の調査などにおいて、おおむね日の丸の支持率は8割、君が代は7割程度と安定した支持を集めている。
※4 例えば、中曽根康弘首相は1982年12月の参議院予算委員会で「日本の行為につきましては、関係各国あるいは世界の歴史家等から侵略行為があったと、侵略的戦争であったという判定をわれわれは受けておる。そのことを深く反省し、またこれを踏まえてわれわれは再出発しなければならない」と述べている。
波多野澄雄『国家と歴史』中公新書、2011年、139頁
※5 吉田裕『日本人の戦争観』岩波現代文庫、2005年、第4章

*1 特高 特別高等警察の略称。戦前に共産主義者などの国体を否定する者を取り締まるために創設された内務省管轄の組織。戦時中には戦争反対を唱える市民をも標的としていた。
*2 隣組 第二次世界大戦下で組織された町内の下部組織。配給や防火などの相互扶助的な役割とともに、住民同士の監視機能も果たした。
*3 BC級 A級戦犯は「平和に対する罪」で訴追された戦争指導者を指し、BC級はB項(通例の戦争犯罪)もしくはC項(人道に対する罪)によって訴追された者の呼称である。ただし日本ではC項(人道に対する罪)で訴追された者はいない。

GHQは日本人の戦争観を変えたか 「ウォー・ギルト」をめぐる攻防   目 次

ま え が き
 出発点は江藤淳
 保守論壇における洗脳言説の広がり
「洗脳」の意味するところ
 日本人の視点を取り入れる必要性
 水面下で流れ続けた「戦後の語り」
「ウォー・ギルト」をどのように訳すのか

第1章 なぜ「ウォー・ギルト」なのか
1 占領開始時の日米軋轢
 1945年8月15日正午
 無条件降伏とは何か
 日本は無条件降伏をいかに捉えていたのか
 青天の霹靂の三布告
 捕虜虐待に対する米国の怒り
 鈴木九萬の苦悩
 残虐行為をめぐるせめぎあい
 比島残虐行為に対する日本の反応
 原爆投下vs.捕虜虐待
2 「ウォー・ギルト」を理解させねばならない
「日本人再方向付け政策」
「ウォー・ギルト」の登場
「ウォー・ギルト・プログラム」開始へ
「ウォー・ギルト」における道義的側面
「敗戦の事実」とセットになった「ウォー・ギルト」

第2章 戦争の真実が知りたい︱「ウォー・ギルト・プログラム」第一段階1 「対日心理作戦」と「ウォー・ギルト」
「ウォー・ギルト」を推進したスミス
「思想の自由」キャンペーン
「ウォー・ギルト」キャンペーン
 山下裁判へのこだわり
2 「太平洋戦争史」
 スミスの置き土産
 新聞社はどの記述を削除したのか
 米国から見た日米開戦経緯
 マッカーサーのための戦争史
「太平洋戦争史」は東京裁判を見据えてつくられたのか
 人々は「太平洋戦争史」で真実を知ったのか
 日本人による戦争の真実の暴露
3 『真相はこうだ』
 真実にこだわったラジオ番組
 ブームとなった「真相」 
 軍国少年が夢中になった理由
 ダイクの覚書
『真相はこうだ』に現れた変化
4 転換点を迎えた「ウォー・ギルト・プログラム」
 スミスとダイクの違い
 新聞懇談会を通した統制
「日本人に対する罪」への言及
 CIEの本来の役割とは
 宥和路線への転換
 新たな番組『真相箱』

第3章 戦争から日常へ︱「ウォー・ギルト・プログラム」第二段階
 新局長ニュージェントの関心
1 『真相箱』の変化
 質問内容の推移
 米国への関心と中国への無関心
『真相箱』から『質問箱』へ
『質問箱』から消えた「ウォー・ギルト」
2 映像で発信された「ウォー・ギルト」
 侵略戦争という空気
 映画界を牛耳ったコンデ
 指示ではなく「サジェスチョン」
3 幻の第三段階
 民間諜報局の不安
 第三段階への提言
 原爆投下批判に対する恐れ
 何が実施されたのか
 むしろ失速した「ウォー・ギルト」
 なぜ方針が撤回されたのか
 江藤淳は効果が上がらなかったことを理解していた
 誤解の裏にあった怒り
 新井少年と東京裁判判決
 人々の反応

第4章 「ウォー・ギルト」の本質に向き合う
 改めて「ウォー・ギルト」とは何か
 民間史料局のクリッピング史料
 日本人と「ウォー・ギルト」
「ウォー・ギルト」の本質
 そして民主主義思想の啓蒙へ

第5章 映像の中のBC級戦犯︱戦後の「ウォー・ギルト」を追う
 なぜBC級戦犯映像を分析するのか
1 戦争の犠牲者としてのBC級戦犯観
 噴出した「戦犯」への同情 
 神話となった『私は貝になりたい』
 もはや戦後ではない――1950年代半ばの転換点
 加害者としての日本――1980年代から1990年代
2 2000年代の戦犯映像
 一時期に集中した戦犯映像
 リメイク版『私は貝になりたい』の変更点
 空襲・原爆被害の前景化
「和解」という新たな視点
3 罪に向き合う戦犯
『最後の戦犯』
 継続される「不条理」「理不尽」の構図
『しかたなかったと言うてはいかんのです』
 現代につながるBC級の罪
あとがき
主要資料

著者プロフィール

賀茂道子(かもみちこ)
名古屋大学大学院環境学研究科・特任准教授。名古屋大学大学院環境学研究科博士後期課程修了。博士(法学)。専門は日本政治外交史、占領史研究。著書に『ウォー・ギルト・プログラム―GHQ情報教育政策の実像』(法政大学出版局)。主な論文に「戦後史の中の『押しつけ憲法論』」(『対抗言論』1号, 2019年)「占領初期における新聞懇談会の意義」(『人間環境学研究』15巻2号, 2017年)「ウォー・ギルト・プログラムの本質と政治性」(『同時代史研究』第8号, 2015年)など。

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