なぜGAFAはわずか30年で世界のトップ企業となりえたのか|山根節 牟田陽子『なぜ日本からGAFAは生まれないのか』
第二の波〈産業革命〉の勝者・日本
あらためてGAFAと日本企業を市場が評価する価値で比較してみよう。
株式時価総額ではGAFA4社の合計額(2022年3月末時点、約770兆円)は、日本の上場企業全社の時価合計(700兆円前後)をはるかに超えている。世界トップはアップル(330兆円超)であり、4位アルファベット(グーグル)、5位アマゾン、そして9位がメタ(フェイスブック)だ。3位のマイクロソフトを加えてGAFAMが世界のトップランナーとなる一方で、ランキング・トップ100位以内に入る日本企業はトヨタ自動車(37位)1社しかない(いずれも2022年3月末時点)。
しかし、日本の株価がピークとなった1989年末時点では、この風景は真逆の様相だった。世界トップ20位以内に日本企業は14社も入っていた(図表1)。バブルもあって日本のGDPは米国に次ぐ第2位だが、日本企業は「Japan is No.1」だったのだ。
しかしこの時を境に、その後今日まで「失われた33年」を続けているのが日本である。かつて、なぜ日本が世界のトップを走りながら、現在は低迷し、トップランナーGAFAをはるかに見上げるようになってしまったのか。日本はかつての栄光を取り戻せないのだろうか。
それをシンプルにまとめて言えば、人類第二の波「産業革命」の勝利者が日本であり、替わって起こった第三の波「情報革命」の勝利者がシリコンバレーでありGAFAだからである。
1980年にアルビン・トフラーによって書かれた『第三の波』は、人類と社会の歴史的な変転を明快、かつ単純化して描き出した(1)。
人類史で大変革が起こった「第一の波」とは、約1万年前に起こった農業革命である。人類が農業技術を手にしたことで、食料を量産でき、村や集落が生まれ、国に発展した。最初に大繋栄した四大文明を経て、農業革命は世界に広がり、18世紀の前半くらいまで欧州でこの余波が続いたのである。
そこに第二の波がヨーロッパに押し寄せた。産業革命である。
産業革命の引き金を引いたのは、1769年のジェームズ・ワットによる蒸気機関の発明だ。それは人類が初めて手にした強力なパワープラントで、綿紡績工場から始まり様々な工場の動力源に使われ、製品の大量生産の道が開けた。それまでは職人の手仕事が産業を支えていた。
さらに、その60年後の1830年頃には鉄道が登場する。イギリスで蒸気機関が鉄道に使われ、これで人やモノの大量移動が可能になると、広域経済が開けた。鉄道はブームとなり、人の心理的距離を縮め、人々の世界観をも変えた。
そして1850年頃、大量生産と広域経済の掛け算で象徴的に生まれたのがパリのボン・マルシェ。今のデパート、小売の原型である。つまり量産による安価で多様な商品を、広くお客を集めて大量販売する近代の商取引形態が生まれたのだ。
鉄道はアメリカをはじめ世界に広まった。アメリカは広大であり、鉄道業をはじめ様々な産業を巨大な組織で運営する必要に迫られた。そこで生まれたのが大規模な近代的株式会社である。さらに大会社の巨額資金を支えるために金融機関や金融市場が発達し、商業銀行やウォール街が生まれた。
さらに蒸気機関は発電機に使われて電気を生み、また石油を燃料とするエンジンが発明されて自動車を生んだ。広域経済がますます膨らむと、世界はどんどん狭くなり情報の画一化、共有化が進む。そして電報や新聞などのニュー・メディアが生まれた。人々の世界観は一層変わっていき、これに合わせて経済や社会が作り変えられた。近代社会の原型ができたのである。
産業革命以前は、人々は農村に大家族で暮らしていた。しかし、大量生産のために大量の労働力が必要になると人々は都市の工場に集められた。都市住民が多くなると、家族の単位が核家族に変わる。そして、工場の作業を整然と能率的に進めるために画一的な大衆教育の普及が進められた。その教育の重要な徳目は三つ。一つ目は時間厳守。二つ目は服従。そして三つ目は機械的な反復作業に慣れることである。
この徳目に最もなじむ国はどこだろうか。そう、それは日本である。
農業社会だった日本に産業革命を象徴する黒船が来航し、その結果として起こった第一の波と第二の波の衝突が明治維新であり、同様の衝突がアメリカでは南北戦争である、とトフラーは言う。どちらもその歴史的紛争を経て、産業革命に全面適合すべく、国の舵が大きく切られた。
第三の波〈情報革命〉の勝者・シリコンバレー
明治維新によって社会体制は様変わりしたが、日本の農耕社会的な文化はそのまま残り、それが産業革命を支える徳目に見事にマッチした。産業革命の中心地が、発祥したヨーロッパからアメリカを経て戦後日本に移っていったわけがここにある。
日本は教育水準が高く、規律の厳しい大組織できめ細かい反復作業と長時間労働、そして改善活動が行われ、高品質で安価な製品群を世界にばらまくことができるようになった。20世紀前半、製造業はアメリカが圧倒的に強かったが、日本が徐々にその地位を奪っていく。繊維など軽工業を皮切りに、重工業、家電産業などの覇権を次々と奪い取り、1980年代に当時の米国の基幹産業だった自動車産業を脅かし始めた。アメリカはたまらず産業政策を大転換した。
カーター政権から政策を引き継いだレーガン大統領は「製造では日本に勝てない。創造の力でアメリカを復権する」と、新産業を育成する方針に転換した。つまり規制緩和を進め、研究開発を支援してイノベーションを起こし、ハイテク産業を育てるという政策である。そして、1929年の大恐慌以来「独占はすべて悪」という考えの下で続けてきたアンチパテント(反特許)政策を、プロパテント(特許擁護)に切り替えた。特許制度によって、発明者つまり米国の権利を守る狙いである。
規制緩和の一環で開放されたのが、アメリカ国防総省のARPANETであり、これがインターネットとなって世界に開かれた。おかげで第三の波=情報革命が大きく進む。そしてアメリカがシリコンバレーのイノベーションを通じて、経済的覇権を取り戻していくことになる。
ピーター・ドラッカーは晩年の著作『ネクスト・ソサエティ』で面白い見方を示している。情報革命の初期段階の進み方が、産業革命のそれとよく似ているというのだ。
ワットの蒸気機関の発明から、蒸気機関車の登場までは約60年の空白期間がある。その理由は人類が初めて手にしたパワープラントの活用の術をイマイチ思い及ばなかったからだ。工場の動力源に使うことは思いついて生産性は飛躍的に上がったものの、社会を大きく変えるドライバーにはならなかった。
しかし、蒸気機関が鉄道と出会って、この新結合が社会を変貌させた。人々が距離を克服すると世界のあり方が変わったというわけだ。
これはドラッカーに言わせれば、産業革命の第二の波及効果ということになる。そして彼は、情報革命もこれとプロセスがよく似ていると言う。
コンピュータが発明されたのは1940年代初め頃のこと。人々はこの発明の革命的な本質にまだ気づいていなかった。せいぜい高速の計算機か大量の事務処理機としてしか認識できなかったのである。生産性が上がり便利にはなったが、この段階で世の中を構造的に変えるのには力不足だった。
それから約50年後。長い空白期間を経て1990年前後にコンピュータはインターネットに出会う。そして蒸気機関が鉄道に出会ったように、このコンピュータとネットとの新結合が情報革命を本格的に進めることになった。鉄道は人々の心理的距離を縮めたが、ネットは距離をなくしたのだ。
だからドラッカーは、産業革命の進行過程を考えると情報革命も第二の波及効果が本格的に起こるのはこれからだと考えた。彼は「数十年後に、人々は今の誰も予想できない社会を見るに違いない」と言い残して2005年に亡くなった。
この第二の波及期に、社会変革のソリューションを提案した人たちの一員としてGAFAがいる。いつまで革命のリーダーシップを握り続けるかはわからないが、この最初の時期のチェンジ・リーダーとして彼らは勝利者となった。
ちなみにドラッカーは、取引がネット経由となればそれを中心にして新しい手法や社会制度が次々と作り変えられていくはずと言い残している。資本主義社会を支えるのは、商取引形態である。産業革命時のボン・マルシェが現代ではEコマースであり、これが商取引の基本形となれば、いずれ世界は一つの経済、一つの市場になっていくだろうと彼は考えた。つまりネットが心理的距離をなくし、グローバリゼーションが進んでいくと……。
グローバリゼーションの先駆けとなった象徴的事件といえば、「ベルリンの壁の崩落」である。壁は1989年11月に崩れた。なぜ、この時期に起こったのだろうか?
1980年代半ば、インターネットは最初に世界のアカデミアに開放される。すると、壁の両側に分断されていた東西の知識人たちは、双方向で意思を通じ合うことができるようになった。これが壁を壊した。同じ年の6月に中国で天安門事件が起こったが、これも学生たちがネットで意思疎通したことが要因である。さらにその後のジャスミン革命やアラブの春で独裁政権が倒れたのもネットゆえである(この時はフェイスブックやツイッターが活躍した)。つまりグローバル化と情報革命は同義、同根といえる。
ドラッカーは、一方で情報革命の負の側面も見た。
グローバル化が進むと、産業革命の中心が新興国にシフトし始める。最初に米国の製造業に従事する中間層から仕事を奪ったのは日本だったが、やがて中国などから安価な量産品が洪水のようにアメリカに押し寄せると、ますます中間層の生活が脅かされた。先端産業は繁栄する一方で、産業革命でかつて栄えた製造業とその従事者は没落を免れない。勝者と敗者の二極化が進み、貧富の格差が広がる。その痛みに耐えかねて、中間層の心情をつかみ生まれたのがトランプ大統領であり、反グローバリゼーションという歴史の反動である。
日本も似たような事情を抱える。
第三の波に乗るアメリカと、遅れて第二の波に乗る新興国の挟み撃ちに遭う形で、日本は苦境に陥っている。日本が新しい波に乗れず昭和にこだわり続けていれば、低迷するのは当然だ。明治維新から約120年続いた日本の繁栄はピークアウトしたのである。
シリコンバレーが革新の中心地になる理由
情報革命の中で、とりわけなぜシリコンバレーが勝利者になったのだろうか。
革命期には、新しく立ち上がった技術を使って我々の生活、それを支える社会、経済や政治構造を作り変えていく必要が生まれる。そこで起きるのが提案競争だ。
革新的な提案のできる人は「バカ者、若者、よそ者」の天才たちだ。なぜか。彼らはいわゆる常識を持たない。既成概念にとらわれず、今までとは異なる見方ができるからである。日本のビジネスパーソンは「良い常識人」が多い。礼儀正しく、世の中の常識に固まっている。残念ながら、こういう人にイノベイティブな発想は生まれにくい。
提案はどれかが選ばれて勝ち残るが、他の大多数は死ぬ。つまり競争に成功するのはほんの一握り。多産多死のなかで勝ち抜いた者だけが生き残るルールである。
となると成功例を増やすには、大きな提案者の母集団を作る必要がある。母集団が大きければ、その中から成功者が多く生まれる理屈だ。シリコンバレーには夥しい数のベンチャーが立ち上がるインフラがある。それを最初に創ったのが、スタンフォード大学である。
詳しい事情はシリコンバレーの本に譲るが、今から80年ほど前、スタンフォードは二流の大学だった。米国西部には企業が少なく、卒業生は就職のために東部に赴かざるを得なかった。そんな事情を変えたいと、同校の教授が大学院の学生二人に起業を勧めた。これが最初の成功例となる。ヒューレット・パッカード社(HP)である。
HPは1939年、指導教授の勧めで二人の研究テーマだった計測器を事業化するために設立された。その立ち上げ資金は教授が出してくれた。二人が創業したガレージは今も残され、ここが「シリコンバレー生誕の地」と公式に認定されている。
大学もこうした取り組みを強力にバックアップした。広大な敷地に、インダストリアル・パークを作り、ハイテク企業を誘致し、産学共同を推し進めた。そのパークの中に、ジョブズがインパクトを受けたゼロックスPARCがあり、NASAや半導体企業の研究所、そしてベンチャー・キャピタルも集まってきた。シリコンバレーという名は、シリコンチップ(半導体)からだが、半導体の雄インテルなどの成功に由来している。こうしたプレイヤーの掛け算から、ベンチャーが大量に立ち上がるインフラができ、革命期の中で繁栄を遂げたというわけである。
革命が進むと新しい成功者が生まれる一方で、淘汰される側はたまったものではない。既存勢力は、ありったけの力をふるって抵抗する。この強い反革命の抵抗にめげずに、なりふり構わず押し切ることができるのは、やはり忖度の苦手な「バカ者、若者、よそ者」たちである。彼らは過去にとらわれない。既存のしがらみにからめとられない。それらを無視して理想や思いを形にするために突っ走るのだ。
前章までで見たように、アップルはFoolishな個人が切り開いた。他人への配慮を欠いたアートの天才がいたからこそ自分の好きな独善的世界を作り上げ、帝国を築いた。
グーグルの天才たちが、若者らしい理想に走って検索技術を発明してくれたおかげで、インターネットの使い勝手は飛躍的に高まった。情報という神経質で微妙な世界に、無邪気で能天気な大学生ザックが「人と人のつながりの場」を作ってくれたからこそ、我々は断絶をカバーできるようになった。そして専門分野をやすやすと乗り超える門外漢=よそ者ベゾスが、社会の基本取引を、医療を、金融を、そして宇宙までをも作り変えようとしている。
こういう天才たちは、産業革命の申し子たちとは真逆の人たちである。産業革命期に強かった文化。規律重視、時間厳守、整然とした組織的協調、号令一下で正確な反復作業を長時間続ける忍耐強さ……。これと真逆の価値観。ブッ飛んだ構想力、組織ルールや規律にとらわれない柔軟な発想と強い自己主張、何でも可能にするワガママ行動、乗れば徹夜も辞さない突破力……。こうした資質の人々こそ、予想のつかない未来を切り拓く革命のリーダーたちである。
そして彼らを自由奔放な提案競争に駆り立てる環境(エコシステム)を作った国や地域が、情報革命の勝利者になることができる。それがシリコンバレーであり、その対極にいるのが日本だ。
目次
はじめに
第1章:アップル
——〝Foolish〟がもたらすジョブズの感動イノベーション——
第2章:グーグル(アルファベット)
——天才たちの研究パラダイスが生んだイノベーション——
第3章:フェイスブック(メタ)
——時価総額世界トップクラスに昇りつめた学生ベンチャー——
第4章:アマゾン
——エブリシング・ストア、そして宇宙インフラまで——
終 章:GAFAにあって日本企業にないもの
——第三の波に乗ることはできるのか——
あとがき
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著者プロフィール
山根節(やまねたかし)
1949年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。慶應義塾大学大学院にて修士、博士課程修了(商学博士)。スタンフォード大学客員研究員、慶應義塾大学ビジネススクール教授(現・名誉教授)、早稲田大学ビジネススクール教授などを経て、現在はビジネス・ブレークスルー大学大学院教授。
牟田陽子(むたようこ)
1982年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。ロンドン大学にて応用言語学の修士課程修了後、eラーニングのベンチャー企業立ち上げに参加。2015年、早稲田大学ビジネススクール(MBA)修了後は自動車メーカーにおいてコネクテッドカー関連の事業企画に従事。