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なぜ日本発の経営技術がアメリカから「逆輸入」されるのか?|岩尾俊兵 vol.3

10月に光文社新書より発売された『日本企業はなぜ「強み」を捨てるのか』(岩尾俊兵)。発売即3刷りと話題になっている本書は、「ティール組織」「オープン・イノベーション」など最先端と思われがちな経営理論が実は戦後日本では当たり前のように実践されていたことを示すとともに、なぜ今の日本ではそうした知見が受け継がれていないのか、過度な欧米信仰に偏ってしまった要因を明らかにする一冊です。
中身が気になる方のために、序章~第6章から選りすぐりの箇所をピックアップしてお届けします。今回は第3章から、日本初の経営技術がアメリカなどから「逆輸入」されるようになる流れを概観します。

経営技術の逆輸入モデル

 日本であれ、海外であれ、企業は常に何かしら新しい知識・知恵を生みだし続けている。そして、そうした中には、経営を効率化させる知識の体系として、経営技術と呼べるものもあるだろう。本書においても、これまで日本企業が生みだした経営技術をいくつか紹介してきた。

 どんな企業であれ、必ず、経営に関する新たな知を生みだし続けているが、これらの中にはさまざまなレベルの知識がある。たとえば、「○○社に営業にいくときには△△課の××さん経由だと上手くいきやすい」とか「このコピー機は湿度が高いときには印刷の質が下がる」といった、「ビジネス版の生活の知恵」といった様相のものもあるだろう。

 あるいは、「うちの会社の工場では、全部原価計算よりも活動基準原価計算の方が製造コストを正確に把握できる」とか「プロジェクトチームを編成するときに、各部門から部門を代表する優秀なメンバーを集めると、メンバーの政治力が拮抗してしまい、意外なことにチームとしてはむしろ業績が悪くなる」といったように、より専門的・一般的な法則に近い知恵を蓄積している企業もあると思われる。

 こうした企業は、企業活動の中で蓄積された実践的な知恵・知識を、体系的に整理し直すこともある。世界的にも有名なトヨタ生産方式にしても、日産プロダクションウェイにしても、最初のきっかけはこうした小さな知の蓄積と整理だった。そして、経営に関する知識が整理されれば、日々のちょっとしたノウハウといった様相のものが、経営技術と呼べる段階にまで発展する。

 繰り返しになるが、ビジネスをおこなうと、あるいは人間が複数人集まれば、大なり小なりこうした知識が生みだされる。そして、その知識には、ちょっとした工夫から経営技術、さらには経営学に至るまで、幅があるといってよい。しかし、こうした幅はグラデーションのようになっており、必ずしも明確な区別があるわけではない。

 では、このグラデーションを決めるのは何か。
 それは、その知識の解釈や理解が社会的な文脈にどれだけ依存するかという、「文脈依存度」である。あるいは、文脈依存度を逆転させて「文脈独立度(文脈に依存しない程度)」という単語を作ってもよいだろう。いずれにしても、個人や組織や国などの特定の文脈に依存すればするほど、その知は個人やせいぜいチーム内でしか使えない工夫やライフハック的なものに近づく。

 そして、文脈依存度が低くなればなるほど(文脈独立度が高まれば高まるほど)、一般論や普遍的な理論を目指す学問に近づく。その中間で、一個人や一チームを超えて活用できるほどには文脈独立的だが、企業内や産業内・業界内・地域内の文脈に強く依存するようなタイプの知識もあるだろう。業界用語や慣行、企業名を冠した○○方式といったものがそうした知識の例である。

 これを図示すると図9になる。最も文脈依存度が高く、抽象度が低いのは、自分にしか感じられない私的感覚だ。続いて、仲間内でしか分からない知識、いわばムラ社会的知識がある。そこから抽象度を高めていくと、「誰でも理解できる」経営コンセプトにいたる。抽象度が高まって、文脈依存度が低くなるごとに、潜在的な共有可能性は広がる。つまり理解者が増えていく。図9では、この広がりを逆三角形で表現している。

 本書が経営技術と呼んできたものは、基本的にはこのうち文脈依存度が中程度以下のものであった。そして、アメリカが得意だったのは、中程度の文脈依存度だった日本の経営技術を、文脈依存度の低い(文脈独立度の高い)コンセプトへとまとめ上げることだった。

 それでは、文脈依存度の高低を決定する要因は何だろうか。
 それは、具体的な現象から普遍的な論理だけを抜き出し、モデル化・抽象化できたかどうかによる。前提として、地球上のすべての人間が共通して持つのは、理性の力、論理の力である。そのため、論理モデルにして、場合によっては数式化や図表化してしまえば、多少つたない翻訳であっても地域言語を超えて世界中で意図が伝わるようになる。すなわち、個別の自然言語に依存している知識を、人類共通の人工言語に近づけることで文脈依存度は低下していくのである。

 経営における個別具体的な事例の共通点を探りながら、抽象的な論理モデルを構築することで、経営技術の文脈依存度を低下させ、世界で通用する理論となる。

 たとえば、近代組織論の源流の一つにチェスター・バーナード『経営者の役割』(ダイヤモンド社)がある。システムとしての組織、調整、有効性と能率など、現代の組織研究の土台となっている概念を提示している著作である。

 バーナードは経営学の基礎を作った人物の一人だが、純粋な学者ではなかった。彼はAT&T子会社のニュージャージー・ベルの社長を務めた人物で、著書の土台は母校ハーバード大学でおこなった経営者の役割についての講演内容だったのである。

 経営者の役割とは何か、経営とは何かという問いは、おそらく企業経営者であれば誰しも一度は考える。そうした内容の講演を頼まれることも多いだろう。このとき、思考の抽象度が高まれば高まるほど、経営理念や経営哲学となり、さらに抽象度が高まると、バーナードのように、世界的に通用する一つの学問領域にまで発展する

 このように、経営実務において生みだされる知は、その抽象度が増すにつれて、文脈依存度が低下し、世界中の誰もが理解して利用できるコンセプトや理論になる。そうした意味で、経営技術は、ノウハウから理論まで、論理モデルとしての精度に合わせたグラデーションになっているのである。
 本書でこれまでみてきたように、日本の経営技術は、国内の文脈や特定企業内・産業内の文脈に依存したものが多かった。そして、こうした経営技術のうち有望なものを見つけ、論理モデルに変換し、世界中に広めたのはアメリカの研究者やアメリカ企業であった。
 例外もあるが、全体的な傾向としては、こうした対比が見られたといえよう。

 そして、アメリカの産官学によって抽象度を高められたコンセプトは、一見しただけでは、源流にある日本の経営技術と同一とは思えないものになった。その結果として、アメリカに渡る段階で抽象化されたコンセプトが、今度はまた日本に持ち込まれることもあるのだ。

 これはある意味では当然の帰結である。
 日本の優れた経営技術を日本の産官学が共有しようとしても、経営技術の文脈依存度が高いままでは「ウチはヨソとは違うから」とか「製造業とサービス業は違うから」といった意見で却下されやすい。文脈依存度が高い知識は拡散性が低いのだ。

 このように、経営技術の逆輸入という状況は、同じ経営技術がそのままで逆輸入されている状態ではない。そこでは、経営技術がアメリカに渡る段階で、論理モデル化・抽象化がなされているのである。
 経営技術は逆輸入される。しかし、単なる逆輸入ではなく、そこには日本以外での論理モデル化・抽象化という段階を経ているのである。

著者プロフィール

慶應義塾大学商学部准教授。平成元年佐賀県生まれ。東京大学大学院経済学研究科マネジメント専攻博士課程修了。東京大学史上初の博士(経営学)を授与され、2022年より現職。組織学会評議員、日本生産管理学会理事を歴任。第73回義塾賞、第36回組織学会高宮賞、第37回組織学会高宮賞、第22回日本生産管理学会賞、第4回表現者賞等受賞。主な著書に『13歳からの経営の教科書』(KADOKAWA)、『日本“式”経営の逆襲』(日本経済新聞出版)、『イノベーションを生む“改善”』(有斐閣)、『Ambidextrous Global Strategy in the Era of Digital Transformation』(分担執筆、Springer)ほか。

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