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良いことと、悪いことは、人によって違う――「倫理の問題」とは何のこと?

光文社新書の永林です。倫理学者・佐藤岳詩さんの新著「『倫理の問題』とは何か メタ倫理学から考える」が4月14日に発売になりました。
倫理の問いは、ちょっとしたひっかかりから、大切な日常が揺らいだときに現れます。コロナ禍において、善や悪や正義で他人の行動を断じるケースが多発しましたが、私たちの多くは「そもそも倫理とは何なのか」という前提をきちんと理解していません。「やってはいけないこと」と「やってもいいこと」、「良いこと」と「悪いこと」を、私たちはどうやって区別しているのか。個々の倫理的な問題に答えを出す前には、「倫理の問題にどう向き合えばいいのか」を問い直す必要があるのです。本書では倫理学者である筆者が、現代西洋倫理学のさまざまな立場を通じて、メタ的視点から「倫理」について考えていきます。新書ですが、368ページと超ずっしりの本格派、なのに980円(本体価格)と超おトク! すでに、哲学者の先生方をはじめ、絶賛コメントが寄せられております。今回の記事では、序章を(ほぼ)全文公開! ちょっと長いので、前編・後編に分けてご紹介します。

序章

本書で扱うのは、「倫理の問題に私たちはどう向き合えばいいか」という問いです。具体的に言うと、以下の三つのことを考えます。
 
①倫理とはどんなもののことなのか
②倫理の問題とは何を考える問題のことなのか
③倫理の問題にどんなふうに向き合えばいいのか

 
①と②を考えることを通じて、③を考えようというのがこの本の目論見です。これらの問題に実際に悩んだことがある、悩んでいる、将来悩みそう、という人は本書を通じて倫理の問題とは何なのか、それにどう向き合えばいいか、ということについて一緒に考えていってもらえればと思います。

もちろん、倫理の問題に悩んだことはないし、悩んでいないし、これからも悩みそうにない、という人もいるかもしれません。多分、そのような人たちは二タイプに分かれるように思います。

第一のタイプは、そもそも倫理に全然興味がない人です。そうした人は、このような本にも関心がないかもしれません。ですが、そのような人でも、どうも世の中には倫理の問題に興味を持っている人が一定数いるようだ、ということは薄々感じているはずです。

だとすると、倫理の問題に興味がない自分と、倫理の問題に興味がある人たちの間で、何が違うか、気になりませんか。倫理の問題に興味がある人たちは、どうして善とか悪とか正義とかを気にかけ、倫理的に許されるとか許されないとか、言っているのでしょう。そして、倫理に興味がないあなたに、どうしてそれを押しつけてくるのでしょう。

第二のタイプは、自分は倫理の問題への向き合い方をもうすでによく分かっている、という人です。そのような自信がある人は、確かに倫理の問題に悩むことはないかもしれません。しかし、そのような人たちは、逆に、倫理に興味のない人のことが、気になりませんか。どうして、世の中には倫理の問題に興味がない人がいるのでしょう。その人たちは何を考えているのでしょう。どうして、こんなにも重要な倫理の問題に対して、彼らは興味のないふうでいられるのでしょう。

倫理に興味のある人であれ、興味のない人であれ、本書を通じて、倫理の問題に対するひっかかりを解きほぐしていくと、少し倫理についての見方が変わると思います。それは同時に、自分自身、自分と他人、自分と世界の理解にもつながっています。倫理の問題との向き合い方を考えることを通じて、今までと少し違った仕方で世界を眺められるようになる、それが本書の目指すところです。

●倫理が問われる現代社会

少し具体的なことを考えましょう。昨今、倫理が話題になることは、何かと多いように思います。たとえば、2018年、中国の研究者が、受精卵の段階で遺伝子を操作した子どもを誕生させたと発表した際には、これは倫理的に許されざる行為だと、世界中から非難の声があがりました。また驚異的な速度で進展している人工知能の開発については、世間だけでなく、科学者たち自身からも倫理上の懸念が示されています。

iPS細胞を中心とした万能細胞による再生医療にあっても、その代表的な研究者である京都大学の山中伸弥(やま なか しん や)が「生命科学の急速な進展に伴って、生命倫理の研究も今まで以上にその意義が急速に増大している」(山中伸弥編『科学知と人文知の接点』6頁)と述べて、倫理的な問題へ慎重に配慮しながら科学の研究は進められなければならないということを再三強調しています。

もちろん、倫理が問われているのはこうした科学の分野だけではありません。新聞やニュースを見れば、自社の経済的利益のために、消費者をないがしろにした企業が責められることは日常茶飯事です。あるいはいくつもの大学の医学部が受験生の性別や年齢などによって入試の点数を不当に操作していた事件など、様々な形での差別、不平等は連日メディアに取り上げられています。

また、新型コロナウィルス感染症の流行に際しては、政治指導者たちの倫理観はもちろん、転売や買い占め、デマの流布、外出や企業の営業活動の自粛、マスメディアの取材・放送の姿勢、感染者やその関係者に対する差別や非難、困窮する人々に対する支援など、私たちすべての市民の倫理観が様々な形で問われ、露わにされることになりました。黒人差別に反対するBlack Lives Matter(黒人の命は大切だ)の運動を思い起こした人もいるかもしれません。

とはいえ、最近になって突然人々が倫理を気にかけなくなった、非倫理的になった、だから倫理が問われているのだ、というわけでもないでしょう。法務省の統計によれば、日本で一年間に起きる刑法犯の認知件数は平成十五年から減り始めて、ここ数年は毎年、戦後でも最少を更新し続けています。感染症の世界的な流行という未曽有(みぞう)の事態にあっても、多くの人は助け合い、譲り合い、皆で困難を乗り越える努力を続けています。

体罰や様々なハラスメントの認知件数は増加していますが、これは体罰やハラスメントは犯罪であるという認識が広まったことによるもので、これまで「仕方がない、我慢すればいいものだ」と諦められていたものが、「おかしい、是正すべきことなのだ」と理解されるようになったことによります。したがって、このことはむしろ少しずつでも世界が倫理的に良い方向に進んでいることを示していると言えるかもしれません。

他方で、科学の発展によって新しい技術が登場し、それに従来の私たちの倫理観が追いつけていないという現実も確かにあります。最初に述べた遺伝子操作や人工知能などの事例はそうしたものの最たる例でしょう。これまで人類は受精卵の遺伝子を操作する技術を持ちませんでした。子どもはもっぱら授かるものであって、自由に選ぶようなものではなかったのです。あるいは、自動的に判断を下す機械、自分たちよりも賢い判断をしうる機械と出会ったこともありませんでした。そうした可能性は映画や小説のなかで論じられる程度であって、誰もそんなことを真剣に考える必要はなかったのです。

ですが、歴史的に見れば、人類は何度もそういった倫理観のアップデートを求められる局面を乗り越えてきています。移動手段の発達によってまったく別の文明と出会ったとき、重化学工業が環境を破壊するほどの力をもったとき、人類を絶滅させられるような兵器を開発したとき。場合によっては非常に長い時間をかけつつも、常に人々は粘り強く話し合い、新しいルールを作り、自らそれに従ってきました。

もちろん、定期的にそうしたルールは破られたり、抜け道が見つけられたりします。ルールを守ろうとする人々の努力や我慢にただ乗りする人、それらを悪用する人も現れます。それがときに悲惨な事件を生み出してきたことは、決して忘れてはなりません。ですが、それでも全体として、人類は一定の倫理をもって自らを律してきました。

個人に目を移してみても、私たちは誰もが無力な赤ん坊として生まれ、周囲の人の助けを得てなんとか生き延び、成長していきます。そして、そのなかで、人付き合いの方法を学び、価値観をはぐくみ、分別を身につけ、何かしらの倫理観を身につけていきます。

もちろんときにはそこから逸脱することもあります。それでも自分にとって「やってはいけないこと」と「やってもいいこと」の区別がまったくない人というのは想像しにくいでしょう。法を犯した人であっても、やむにやまれぬ事情があったり、「やってはいけないこと」が世間の人とは違っているだけであったりするのであって、そうした感覚をまったく持たないというわけではないように思われます。いわゆる任侠モノの映画などに見てとれるように、アウトローにはアウトローの倫理があるというわけです。「やりたいことをやれ」という一見なんでもありの信条も裏返せば、「やりたくないことはやるな」という区別を含んでいます。

●倫理のあるなし

とはいえ、そうした一般的な倫理とは違ったルールが倫理と呼ぶに値するものであるかどうかは、一考の余地があります。障碍(しよう がい)者やユダヤ人を虐殺したナチ党員たちも、自分たちを律する厳格なルールを有していましたし、概して法律にも従っていました。彼らにもやっていいことと悪いことの区別はあったのです。ですが、彼らに倫理があったとするには抵抗がある人も多いかもしれません。どうでしょう、彼らには倫理がなかったのでしょうか、それとも私たちとは違った彼らなりの倫理に彼らは従っていたのでしょうか。いったい倫理というのは何のことを指しているのでしょうか。

ここで、そんなことどうでもいい、どうやってその非道な行いをやめさせるか、ということこそ大事だろう、という人もいるでしょう。確かに、現に目の前で暴力がふるわれている場合、その反論はきわめてもっともです。あれこれ言わずに助けることが先決ですし、本書でもその点に異議はありません。

とはいえ、次のような場面を考えてみてください。小学生の子どもたちが、クラスメイトに常習的に暴力をふるっているとします。確かに、この場合もまずは現場で叱る、クラス替えをする、などの対応があり得ます。それはもちろん重要なことです。しかし、それだけで子どもたちは本当に心を改めるでしょうか。結局は教師の見ていないところでまた暴力をふるう、新たなクラスで暴力をふるう、といったことになってしまうことがあるのではないでしょうか。

では、長い目で見て、子どもたちの行動を良い方向に向かわせるにはどうしたらいいでしょうか。一つの可能性として、彼らが倫理についてどんなふうに考えているのかを探ってみるというものがあるかもしれません。
 

実際、このとき、子どもたちは倫理についてどんなふうに考えている可能性があるでしょうか。
 
①暴力が倫理的に悪いことだと分かっているが、やめる気がない
②暴力が倫理的に悪いことだと分かっていない

 
まずは①の可能性について考えてみましょう。この場合、子どもたちは自分たちの振る舞いが倫理的に悪いことであると理解しています。学校の授業で暴力はいけないことだと習ったのかもしれません。しかし、その上で、彼らは倫理的に良く振る舞うことに重要性を見出していません。ですので、このうえ暴力は倫理的に悪いことだと指摘しても、何の効果も期待できません。彼らは倫理を気にかけていないので、他人を傷つけることが倫理的に悪いことであるということを認めた上で、「確かに暴力は悪いことだよ、だから何?」と言って、さらに暴力に及ぶことができます。

もしかしたら、子どもたち自身が家庭で日常的に暴力をふるわれており、そのために暴力の悪さというものをどうでもいいものと思うようになってしまったのかもしれません。いずれにしても、彼らにとって倫理というものは、それ自体としては、何の抑止力も持ちません。

したがって、子どもたちに行動を改めさせたいのなら、まず、倫理的に良く振る舞うことは自分たち自身にとっても重要であるということを理解してもらわねばなりません。それはたとえば、倫理的に良く振る舞うと何らかの利益が得られる、逆に倫理的に悪く振る舞うと不利益が生じる、と示すことかもしれませんし、倫理的に良くあることそれ自体がもつ価値を示すことかもしれません。

では②の可能性、「暴力が倫理的に悪いことだと分かっていない」の場合はどうでしょうか。この場合、彼らは倫理を気にかけていないというより、自分の理解している倫理からすると、自分のふるっている暴力は問題ではない、と考えているように思われます。自分なりの倫理に従っているのであれば、①の場合と違って、子どもたちはすでに倫理の重要性を理解していると言えるかもしれません。その上で、暴力は倫理に反さない、自分たちは倫理的に悪いことをしていないと信じています。

ですので、子どもたちは仮に咎(とが)められたとしても、「悪いことはしてないよ、こいつが殴られるようなことをしたんだよ」「確かに殴ったけど、まあ、たいしたことじゃないよ」と反論してくるかもしれません。他人を傷つけることは、彼らの倫理では、悪いことではないのです。そのため、先ほどの場合と違って、子どもたちに行動を改めさせるためには、他人を傷つけることは倫理的に正しくない、と理解させることが必要になります。

これは当然、子どもに限った話ではありません。セクシュアルハラスメントを行う人は、「たいしたことじゃないのに、うるさく言うな」と思っているかもしれませんし(悪いと思っていない)、ひどく人種差別的、性差別的な人の多くも「自分自身は他の人よりも公平な人間だ」と思っているというデータもあります(悪いと思っていない)。他方、生活必需品の買い占めを行う人は「悪いことだと世間に非難されるのは分かっているが、買い占めて高く売れば儲かるから」(悪いと分かっているがやめる気がない)と思っているかもしれません。

こうしたことから分かることは、まず目の前で起きている悪事の制止が大事なのは間違いないとしても、同時に、全体として悪いことを減らしたり、長い目でその発生を予防したりしようと考えるなら、教育の方法や社会制度の設計といったものにも踏み込む必要があるということ、そして、そうした制度は、人々の考え方に合わせて設計されねばなりませんが、そのためには、それぞれが考えている倫理とは何なのかを真剣に考えてみる必要があるということです(もしかしたら、検討の結果として、倫理など全然大事ではなく、むしろ理屈にかなっていないのは悪事を制止しようとする方であった、ということが分かるという可能性もないわけではありません)。

今述べたことは、社会のレベルでの話ですが、これは個人のレベルでも同じように当てはまります。日々の一つ一つの行動の良し悪しを考えることもとても大事ですが、同時に、倫理そのものについてどのように理解するのかを考えることは、それ自体は小さなことでも、日々の生活の中で積み重なっていけば、私たち一人一人の人生全体の在り方を左右する重要な問題になり得ます。

倫理は本当に無視してもいいようなものなのでしょうか、それとも誰にとっても大事なものなのでしょうか。自分なりの倫理などというものは本当に存在するのでしょうか、それとも誰もが従わねばならないような倫理、いわば普遍的な倫理があるのでしょうか。それは悪いことだと心から思いながらも、あえて他人を傷つける、というようなことは本当にありえるのでしょうか、それとも、本心では別に悪いとは思っていないから、他人を傷つけるのでしょうか。

本書で考えていくのはこうした一連の問いです。したがって、本書は倫理を扱うものですが、個々の場面で倫理的に良いものは何かとか、私たちは個々の具体的な場面で何をすべきかといったことを直接的に論じるものではありません。したがって、本書を読んでも、申し訳ないのですが、受精卵の遺伝子を改変してもよいか、人工知能を開発してもよいかということへの直接的な答えは得られません。

むしろ、そうした事柄を倫理の側面から見るとはどのようなことか、倫理の問題には答えなければいけないのか、そもそも倫理の問題に答えはあるのか、倫理の問題は私たちに何を求めているのか、といった問いを考えることで、読者の皆さんが自分自身で倫理についてよく考え、長い目で見て、倫理の問題への向き合い方を考えてもらえればと思っています。

後編 ↓ に続く



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作者紹介

佐藤岳詩(さとうたけし)/一九七九年、北海道岩見沢市生まれ。京都大学文学部卒業。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。熊本大学文学部准教授を経て、現在、専修大学文学部哲学科准教授。専門はメタ倫理学、およびエンハンスメントを中心とした応用倫理学。主な著書に『R.M.ヘアの道徳哲学』、『メタ倫理学入門:道徳のそもそもを考える』(いずれも勁草書房)。


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