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【新連載】心理学的決定論とは何か?―僕という心理実験Ⅰ 妹尾武治

トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmidt
妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。

はじめに

この本には、ある一つの“普通”の家庭の中で過剰な教育を与えられ、こころを崩し精神疾患を発症した人間が、こころを取り戻す過程で学んだことが書かれています。今僕は生きようと思っています。その気持ちが得られる過程が届けば、あなたにも同じ気持ちが生じるかもしれません。この本を手に取ってくださったことに感謝します。ありがとう。そしてこの本を“私を愛してくれた人達”に捧げます。

目次

第1章 心理学的決定論とは?
第2章 日本社会と決定論
第3章 愛について
第4章 イマジネーションの力
第5章 僕のこと
終章  おわりに

第1章 心理学的決定論とは?①


ずっと、母の笑顔が見たかった。僕にはそれが出来なかった。

幼稚園に通った初日。発達障害で多動な僕はクラスに馴染めなかった。幼稚園の先生の言うことを聞かずに、すねて走り回ったり、体の小さな子を叩いたりしていた。あげくに母が丁寧に作ったお弁当を床に叩き付けて、中身を床にぶちまけてしまった。ミートボール(80年代のお弁当界を席巻した、イシイのおべんとクン・ミートボール)が木目調で丁寧に磨かれた床に散乱した瞬間を覚えている。ミートボールがその弾力を床に対して発揮して、美しく地面から跳ね上がる様が、よかった。なんか、よかった。だが、さすがの問題幼児の僕もこれはまずいと思い、自分のしたことを恥じる気分になった。ぶちまけた後は、ただ静かに押し黙って時間が過ぎるのを待った。

お迎えの時間になり、母が雨の中傘をさして園庭に現れた。僕は泣きじゃくって母に走りより、大声で自分のしたことを詫びた。母は何も言わずに、僕を抱きしめてくれたように思う。雨の中抱きしめてもらえたこと。誤記憶かもしれないが、私はその時の母の足にしがみついた手の感触を思い出せる。母の傘は赤かったと思う。

「なぜ母は怒らないんだろう。」

そんな風に思った。僕は弱かった。そして母も父も弱かった。だが、弱い者でない人など居ない。

「自由の否定は安らぎ」

前著『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論~』を刊行し、読者の皆様の多くから「自由ではないからこそ、生きていられる」という声を多数頂いた。一方で、芥川龍之介はこのように言っている。「自由は山巓(さんてん)の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることができない。」と。

前著で提示した思想、“心理学的決定論”で救われるのは、自由が辛い“弱者”であり、生きていく上で自由を否定しないことが可能な“強者”にはあまり必要のない思想なのかもしれない。

昨今のオンラインサロンなどを見ると、弱者を自分の信者にしてそこから金を巻き上げる「捕まらない詐欺師」たちがいる。私もその一人なのかもしれない。

科学者がオカルト的な、宗教的な本、小説、フィクションを書いて良いのか? 現時点で、私はこの批判に対して明確で強い反論は持っていない。ある人が見ればオカルトであり、非科学的であり、宗教的だと映るだろう。せめてものエクスキューズとして、学者としての肩書きをこの連載の著者紹介から削除した。

この連載では私が心理学的決定論を信じるに至った科学的な論拠では無い部分、個人的な考えを自由に書いた。生い立ちなど個人的な背景についても少し書かせてもらった。

全ての事例が事前に確定しており、自分の意志で行動を左右出来ない。行動とは環境と脳の相互作用による必然である。この考えは危険な面もある。

アメリカのハーバート・アインシュタインは妻を絞殺し、懲役25年の第2級殺人の罪に問われた。法廷で、神経脳科学者のアントニオ・ダマジオは彼の左前頭葉にくも膜下嚢胞が発達していることを脳画像診断に基づいて主張した。その結果、彼の罪は計画性のない衝動的な殺人(故殺)と判定され懲役7年に減刑された。つまり脳の病気であることが、自由意志としての殺人の免責の理由として認められたということだ。

全ての犯罪は脳の何らかの障害や病気であるとなりかねない。決定論が正しいとなると、犯罪の責任は「個人」から「脳」に移動する可能性がある。さらに「脳」から「世界」のようなものに責任が転嫁(免責)される。

「この考えは、法治国家への反逆になってしまうのではないか。」そんな意見もあるだろう。この世には正義も悪も無いと、手塚治虫は繰り返し『火の鳥』『ブラックジャック』等の作中で語っている。決定論に基づいた新しい時代に対応した法の整備の必要性も主張せねばならないのだろうか。だが、そんなことは僕にはどうでもよかった。僕はただ母に笑って欲しかった。

自分がなぜこの世に生まれ、“虐待”児童(本当はこの言葉を使いたくないし、私は虐待などされていない。その点については大分後に話す)として育ち、心理学を学びこの記事を書いているのか。全ては必然である。必然として最後までこの本を読んで欲しい。

私はたしかに生きるために金閣を焼こうとしているのだが、私のしていることは死の準備に似ていた

三島由紀夫の『金閣寺』で語られた、滅びの美。私がそれを語ろうとするのはおこがましいだろう。しかし、今執筆中の私の胸には「死の準備」という言葉も相応しい。だが同時に私は強く叫んでいる。
「生きたい。」
この死と生の渚。私の蠢きを見てほしい。(続く)




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