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馬場紀衣の「読書の森」

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書物の森は、つねに深いものです。林立する木々のあいだで目移りするうちに、途方に暮れてしまうことも珍しくないでしょう。新刊の若木から、自力では辿り着けない名木まで。日頃この森を渉猟… もっと読む
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#歴史

肥満男子の身体表象|馬場紀衣の読書の森 vol.41

セルバンテスの『ドン・キホーテ』を読んだ。私はこの物語がほんとうに好きだ。愛読する騎士道文学の影響を受けたキホーテは、狂った細い男で「あまりにひょろ長く、やせて、顔もこけて、脂肪がなく、柔軟性もなく、まるで結核で衰弱してしまったかのようにかなりやせ衰えている」。一方、飲食のために生きているサンチョ・パンサ(召使い)は「大きな腹部に、背丈が低く、長いすね」という姿。不自然にせりだした腹部というのは、つまり肥満体である。体をもたない実在のない小説の登場人物が、それでも物語を生きる

唇が動くのがわかるよ|馬場紀衣の読書の森 vol.40

舞台の出しもののひとつとして娯楽になるずっと前、腹話術は魔術のたぐいと信じられていた。これを古い時代の大いなる誤解と笑い飛ばしてしまえないのは、腹話術をしてみせた人たちが監獄に放りこまれたり、最悪の場合、死罪になったりしたからだ。そういうことが、中世の暗黒時代にはしばしば起こった。 「腹話術師」という言葉は、ラテン語の「腹の話し手(ventriloquus)」を意味する。その歴史は聖書にも言及があるほどに古い。書かれていることをそのまま信じるのなら、腹話術師は「穢れた悪魔に

索引 ~の歴史|馬場紀衣の読書の森 vol.30

こういう本を、ずっと待っていた気がする。 13世紀の写本時代から今日の電子書籍まで連なる、長い、長い情報処理の歴史。本の索引に欠かせないページ番号の登場、アルファベットの配列はどのように考案されたか。時代と共に増えつづける知識と人びとはどのように付き合ってきたのか。分厚い本なのに、どんどんページをめくる手が進み、あっという間に読み終えてしまった。 「索引」を書物の中の語句や事項を捜しだすための手引にすぎないと、あるいは本書をそれについて書かれた専門書だと思っているのなら、

『絵画は眼でなく脳で見る』|馬場紀衣の読書の森 vol.24

まずは、イタリア・トスカーナはガンバッシ出身の「蝋で肖像をつくる盲目の彫刻家の物語」からはじめたい。美術理論家のロジェ・ド・ピールは、この話をローマで知りあった信頼できる人物から聞いた実話として紹介している。 記述によれば、その知人はローマのジュスティニアーニ宮殿で50歳くらいの熟練した盲目の彫刻家がミネルヴァ像を模刻しているところに遭遇する。「見ていないのに、どうしてそれほど美しいものが作れるのか」そう質問すると、盲目の彫刻家はこう答えた。「何も見えないが、私の目は手の指

『ポルノ・ムービーの映像美学』|馬場紀衣の読書の森 vol.23

まず作品の数に驚かされる。それから、取りあげられる女優の数に驚く(ご丁寧に一人一人の解説までついている)。二度驚いて、それから、まだ映画を観るという喜びが残っている。 エロティック映画からハードコア・ポルノまで、エポックとなった作品を年代順に追いながら、ポルノ・ムービー100年の歴史を辿れるように構成されたこの本は、内容が充実しているぶん、ページ数もたっぷりとあって読みごたえは十分すぎるくらい。 世間では下品とか、下劣とか、とかく「下」の意味をもって表現されがちなポルノグ

田中ひかる『月経と犯罪』|馬場紀衣の読書の森 vol.16

昨今のジェンダー平等やセクシャリティをめぐる議論は、それに対して好意的であれ否定的であれ、無視できないものとなった。ここ数年、生理ムーブメントとでも呼べるような状況が注目を集めているのも変化のひとつだろう。実際、生理中の、あの「イライラ」は月経(生理)についてほとんど知らない男性でさえ知っているのだ。この期間に、落ちこんだり、涙もろくなったり、甘いものが食べたくなったりすることは、もうずっと女性たちの共通認識だった。とはいえ、歴史のうえで生理がどのように語られ、扱われてきたか

『衣服のアルケオロジー』|馬場紀衣の読書の森 vol.13

わたしの知り合いに、とかく朝の準備の早い人というのがいるけれど、大ブルジョワジーの社会では、「申し分ない」女性として認められるためには、衣装をひっきりなしに、ときには8回も、脱ぐことと着ることを繰りかえさなくてはならなかった。19世紀フランス社会に生きる女性にとって、身づくろいは、おおごとだったのだ。 身づくろい、といっても、髪をとかしてクローゼットから服を引っぱりだして、というわけにはいかない。自分の年齢、容貌、肌と髪の色、服と調和させた衣装を選び、なおかつ自分の財産や社