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馬場紀衣の「読書の森」

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書物の森は、つねに深いものです。林立する木々のあいだで目移りするうちに、途方に暮れてしまうことも珍しくないでしょう。新刊の若木から、自力では辿り着けない名木まで。日頃この森を渉猟…
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#日常生活

子どもの文化人類学|馬場紀衣の読書の森 vol.56

ものすごく大切なことが、とてもていねいに、とても分かりやすく書かれている。子どもの育ちかたも育てかたも社会によってさまざまで、その子どもがもつ面白さや悩みや才能は親ですら計り知れないのだ、ということが実証的かつ直感的につづられた本だ。 たとえば極北の雪原に暮らす狩猟民ヘヤー・インディアンの子どもは、小さい時から自分のからだとどう付きあうべきかを学んでいる。冬になれば氷点下50度にもなるこの地で、テントをねぐらにする彼らのからだはしんそこ冷えきってしまうことがある。食物となる

髪をもたない女性たちの生活世界|馬場紀衣の読書の森 vol.55

ほんとうは失礼なことかもしれないのだけど、美しい女性を見ると振りかえらずにはいられない。ほんの一瞬、すれ違いざまに受けとることのできる美しさには、だいたい2種類しかないと私は思っていて、ひとつは肌が美しいこと。もうひとつは、髪が美しいことである。 それで、その、髪についての本である。体のなかでも髪、というのは異質な部分だ。人の一部でありながら血の一滴も流すことなく、いとも簡単に切り離せてしまえることが関係しているのかもしれない。それに、生き物じみているところ。目には見えない

サイボーグになる|馬場紀衣の読書の森 vol.53

SF作家のキム・チョヨプは、15歳のときに神経性難聴と診断されて医師に補聴器をすすめられた。技能者がもってきた「耳あな型」補聴器は耳の中にすっぽりおさまる爪の大きさほどのもので、つけても目立たないようにデザインされていた。「眼鏡店のそれとは違って補聴器店の鏡は、補聴器が外から見えないことを確認させるために置いてあった。わたしは補聴器をつけていることをずっと隠していられた。そして、これからもわたしにはそうすることが求められるのかもしれない、という気がした」。この小さな機器にかぶ

『50歳からの性教育』|馬場紀衣の読書の森 vol.11

本書のタイトルがどうして『50歳からの性教育』なのかというと、50歳という年齢をとりまく環境に理由がある。なによりまず、男女ともに身体に変化が現われる。女性は卵巣の機能が低下し、エストロゲン(女性ホルモンの一種)が減り、身体は着実に閉経のための準備を進めていく。女性は56歳までに閉経するのが一般的で、その前後10年程度がいわゆる更年期に相当する が、年齢とともに男性も、緩やかではあるが男性ホルモンの分泌量が少なくなり、更年期症状のでる人がいる。この先、ままならない身体とどう共

『街角さりげないもの事典』|馬場紀衣の読書の森 vol.10

世界は驚きに満ちている。それは、街角だって例外じゃない。わざわざバスや電車に乗って、大きな荷物をずるずるひきずりながら移動しなくたって、たとえば、洗濯洗剤を買いに行く道のりにも驚きが転がっている。手書きの看板や市の記念碑、電柱、高層ビルにだって新しい発見がある。もし、歩き慣れた通りに閃きを見いだせたなら。そこに隠された人間ドラマに気づけたなら。薬局への道だって、十分な旅行先になるかもしれない。 この本に登場するのは、つまるところ、そういう場所だ。身のまわりに普通に存在する、