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『「こころ」はどうやって壊れるのか』|馬場紀衣の読書の森 vol.27

ここに書かれた患者たちの、症例という名の物語を読めば、人間の皮膚の下に拡がる内面世界がいかに複雑な構造をしているか気づくはずだ。そして、それが自分と決して無関係ではない、ということにも。

原題は “Projections: A Story of Human Emotions”。著者のカール・ダイセロスは精神科医であり神経科学者。光を使用して脳の働きを観測・解読する革新的な分野「光遺伝学」の第一人者だ。ここに、彼が、ひとりの父親であることも付け加えておこう。革新的技術を開発し、いくつも受賞歴のある立派な科学者も、そう聞くと、なんだかぐっと身近な存在に感じてもらえると思う。

「泣く」行為ができなくなった男性。本能的欲求に抗い続ける拒食症の女性患者など、この本には、ダイセロス博士が精神科医として関わった患者とのエピソードが数多く取りあげられる。各症状の説明にはじまり、科学的な解釈と考察を経て、人と人のエピソードにたちかえる、というのがおおよその構成だ。それでいて、どの章もドラマ性に富んでいて、まるで文学作品を読んでいるような気分にさせてくれる。

だから、専門的な内容を警戒して本を閉じてしまうのはもったいない。著者が大学で最初に登録した課程が文芸創作だったということも、本書が小説家の語りの技法で書かれていることと無関係ではないだろう。なんたって、この独創的な技法が、本書をより特別な読みものに仕上げている。


カール・ダイセロス『「こころ」はどうやって壊れるのか』、大田直子訳、光文社、2023年。


光遺伝学によって明らかにされたことはいくつもある。光遺伝学による脳全体の聞きとりは、脳について信じられていた昔話のいくつかの間違いを訂正し、新しい真実を発見した。機能獲得や機能喪失の実験が可能になったことで、一定の種類の細胞群における特定の活動パターンの理解もすすんでいる。


これはたとえば、摂食障害の生物学 的側面を理解するのに役立つ。動物の活動のもっとも強い原動力であるはずの飢えや乾きを、自己が支配してしまうような場合だ。視床下部細胞は、欠乏状態のときに自然に活発になることが知られている。そのどれが実際に、飢えや乾きのときの行動を引き起こして食物に走らせるのかを、光遺伝学では検証することができるという。これは「真相」への入り口だ。

と同時に、問題も浮き彫りにする。摂食障害の患者は、空腹を肯定的なものと捉えるための対抗手段を講じることがあるのだ。「初めに患者によって支持された、飢えを解決すべき課題に変えるというこの単純な転覆工作で、病気は私たちの脳が進化でうまくなったと思えるものを徴用できるように」するというのだから、人のこころは本当に興味深い。人間の「こころ」をこれほどの迫力で描く物語を、ほかに私は知らない。



紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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