編集者が贈る「無性に本が読みたくなる」ブックガイド:【第2回】世界の編集者の読書論(1)――ロシア、フランス|駒井稔
著者に寄り添い、あるいは対峙しつつも、読者と同じ立ち位置の存在でもある編集者ならではの気取らぬ読書論を、雑誌編集者として、また古典新訳文庫の編集者として長年活躍してきた駒井稔が、エッセイ風に綴ります。
「8歳から80歳までの本好きの方々に贈る、とっておきのブックガイド」
話題は日本だけでなく、海外の書店や出版社、編集者、作品へと縦横無尽に広がる予定です。肩の力を抜いてどうぞお楽しみください。
第2回:世界の編集者の読書論(1)
「トルストイを読みたまえ」
文芸評論家の小林秀雄が『戦争と平和』について、こんなことを書いているのをご存じでしょうか。短いエッセイですが、タイトルは「トルストイを読み給え」です。
若い人々から、何を読んだらいいかと訊(たず)ねられると、僕はいつもトルストイを読み給えと答える。すると必ずその他には何を読んだらいいかと言われる。他に何にも読む必要はない、だまされたと思って「戦争と平和」を読み給えと僕は答える。だが嘗(かつ)て僕の忠告を実行してくれた人がない。実に悲しむべきことである。あんまり本が多過ぎる、だからこそトルストイを、トルストイだけを読み給え。(後略)
どうですか。あの小林秀雄がここまで言うのか、と驚くのではありませんか。
じつはこの文章を知ったのは、作家の辻原登さんの『東京大学で世界文学を学ぶ』の「まえがき その二」に引用されていたからです。この本は辻原さんが東京大学で行った世界文学の講義録ですが、とても魅力的な内容ですので、一読をお勧めします。
辻原さんは40歳になるかならぬかの頃、19世紀ヨーロッパ文学を読み直そうと決心した時に、小林秀雄の助言に従って『トルストイ全集』の完読から始めたこともこの本に書かれています。
確かに小林秀雄は、「作家志願者への助言」という文章の中で、「若し或る名作家を択(えら)んだら彼の全集を読め」と書いていますが、辻原さんのように本当に読む人は極めて稀だと思います。残念ながら、私には無理そうです。全集はいくつか持ってはいるのですが……。
昨年秋、ロシア文学者の望月哲男さんの手になる古典新訳文庫『戦争と平和』全6巻が完結しました。素晴らしい新訳です。
これを契機に私もこの大作に挑み、なんとか読了することができました。若い頃から何度も何度も挑戦してきたのですが、いつも挫折していたのです。「読みました。確かに凄い作品です」と泉下の小林秀雄に報告したい気持ちになりました。
そして、この度の読書で大事な教訓を得ることができました。「人生に手遅れはない」。この新訳を機会に、若い皆さんはもちろん、60代、70代、80代の方にもどんどん読んでいただきたいと思います。古典新訳文庫には、登場人物の解説の入った大きな栞(しおり)も付いていて助かります。
もう一つ。こっそり読了のコツをお伝えしましょう。ロシア文学者の川端香男里さんが書いた『トルストイ『戦争と平和』 (100分 de 名著) 2013年6月』で物語の概要を先に読んでおき、さらに読み進める時に手元に置いておくと、500人を超える登場人物の相関関係と地理的な要素が容易に分かるので、とても便利なのです。内緒ですよ。
ロシアの偉大なる編集者、スイチンの自伝
なんだ、読書論を期待していたのに、いきなりトルストイの話か、と思っていませんか。じつはそのトルストイの気取らぬ姿が活写されている、ロシアの出版人、イワン・スイチンの自伝『本のための生涯』をご紹介するつもりなのです。
この連載の第1章では、タイトル通り、世界の出版人、編集者の自伝、評伝を紹介しながら、編集者の在り方とその読書への視座を見ていきたいと考えています。
このイワン・スイチンの自伝は私の長い間の愛読書であり、大袈裟ではなく、時には教科書といってもいい存在でした。欧米の編集者の自伝や評伝は、後でご紹介するように、かなり知られていますが、ロシアのそれは極めて稀だと思います。
本書に描かれた、ロシアの近代化を陰で支えたと言っても過言ではない伝説的な出版社の創立から終焉までの歴史は、まさに波瀾万丈。登場人物もチェーホフ、トルストイからニコライ2世、そしてあの怪僧ラスプーチンまでと、驚くほど多彩です。ですから一般の読者が読んでも十分楽しめる内容だと思います。
さて、このイワン・ドミートリエヴィチ・スイチンなる人物はどんな人なのか、ご紹介しましょう。
1851年、モスクワの北東300キロほど離れたコストロマ県で生まれ、12歳から毛皮商の手伝いをして、15歳の時にモスクワのシャラーポフ書店で見習いとして働き始めます。非常に勤勉であったスイチンは、すぐに周囲にも社主にも認められる存在となります。アイデア溢れる人間でもあったスイチンは、1876年に石版印刷所を作り、「ルボーク」と呼ばれた民俗版画の印刷を始め、大成功を収めます。
農民たちに広く支持された「ルボーク」は、民話や歌謡、宗教的なものを素材とした絵画としての民衆のエンタテインメントであり、啓蒙的な役割も果たしていたといいます。
これが農民に出自を持つスイチンの、民衆との固い絆を基調とした出版の仕事の始まりでした。
1883年に独立して、モスクワに書店を開きますが、ほどなく出版社「スイチン・アンド・カンパニー」に改組して、本格的な出版人としての歩みを進めます。農奴が解放されてからそれほど間のないロシアでは、出版物による知的な娯楽など、まだまだ大衆には無縁だと思われていた時代でした。広く大衆に読まれる本を手がけることによって、急速にスイチンの出版社は成長していきます。
さまざまなジャンルの出版に手を広げながら、スイチンは、絶えず厳しい検閲と全力で戦います。出版に圧力がかかれば、政府に影響力のある人間のツテをたどって皇帝にも嘆願します。彼のエネルギーはほとんど無尽蔵と思えるほどです。本書(自伝)の語り口は人柄そのままに篤実そのものですが、事業家としては、稀代の凄腕ビジネスパーソンだといえるでしょう。
大切なのは「面白いこと」と「安いこと」
しかし彼の出版に対する激しいまでの情熱は、金銭に向けられたものではありませんでした。
大衆のためのいかなる特殊な文学も創造することはできないし必要もない。あらゆる国の第一級の作家の作品は、大衆に親しいし、理解できる。あらゆる読者と同じように、大衆は退屈を我慢できないし、「赤ちゃん言葉」、つまり、大衆の言葉と大衆の知識程度に合わせたまがい物を軽蔑するものだ。
彼の出した結論は、出版を成功させる条件は2つしかないということです。曰く「とても面白いこと」そして「とても安いこと」。
面白いと言っても単なるエンタメではなく、大衆向けの廉価版でプーシキンとゴーゴリをそれぞれ10万部ずつ、合計20万部をあっという間に売り切ったとき、彼は快哉を叫びます。当時はトルストイですら、プーシキンやゴーゴリなどのロシア文学が、大衆には無縁なものだと考えていたのですから。
しかし、スイチンは、もしプーシキンやゴーゴリが大衆にとって理解を絶するものだったとしたら、これらの本が飛ぶように売れるわけがない、と分析するのです。
この部分がスイチンという出版人の核になるところだと思いますし、同時に今日の編集者にとっても示唆に満ちた言葉だと思います。スイチンは、一人の啓蒙家として、事業を拡大していったのです。
児童文学、視覚教材、産業教育、そして軍事百科事典まで、あらゆる種類の出版に全力を尽くし、すべてを事業化していった過程は、ビジネスパーソンとしても見事の一言に尽きます。その根源には、先ほど述べた民衆に対するある種の義務感とでも言うべきものがあったのだと思います。
スイチンが見たトルストイ――事業の協力者として
この本にはもう一つの魅力があります。スイチンと作家たちとの心温まる交流です。
スイチンは当時のロシアの作家のほとんどと面識があったといいます。ロシアの19世紀末の作家では、スイチンの筆で描かれたトルストイとチェーホフの話がとりわけ魅力的です。
トルストイには娘と息子が素顔のトルストイを描いた評伝があります。娘のタチヤーナ・トルスタヤが書いた『トルストイ――娘のみた文豪の生と死』、息子のイリヤ・トルストイが書いた『父トルストイの思い出』がそれです。
どちらもとても興味深い内容で、一読に値しますが、スイチンが書き残したトルストイのエピソードは、ちょっと趣が違います。出版人、編集者としての立場から、そしてなにより事業の協力者としてトルストイを描いています。
最初にトルストイの名が登場するのは、スイチンが本物の作家とコンタクトしたいと切望した時に現れた青年が持ち込んだ出版企画でした。青年とともにトルストイもその企画に積極的に関わり、印刷、編集、販売にも重要な指示を与え、改善策を提供したのです。
トルストイはスイチンの店にやって来るのが好きでした。それも秋に来るのが好きだったのです。それというのも、この時期には地方に行商に出るたくさんの商人たちが、本や絵の仕入れのために集まっていたからです。
トルストイがまずこんな風に問いかけます。
「こんにちは。どうかな、商いは」
「まあまあで、ぼちぼちってとこで。で、おまえさんは、なにかい、商いを習いたいのかい。じいさん、きょうだいよ、遅かったね、もっと前に来なきゃあな」
トルストイに「じいさん」と呼びかけるので、店の勘定係が気を遣い、「このかたがトルストイなんだぞ」と注意しますが、もちろん彼らはいっこうに気にしません。
「じゃあどうして百姓みてえななりをなすってるんだね。それとも旦那の身なりにあきちまったのかね。わしらにくれりゃァ、そいつを着たのによ」
そう言われたトルストイは、腹の底から笑ったといいます。
トルストイの死後、遺産相続人たちの意を受けて、スイチンは50ルーブルの豪華版全集を1万部、10ルーブルの廉価版全集を10万部発行します。この出版はスイチン社には何の利益ももたらしませんでしたが、スイチンはこの仕事を、ロシア人が「限りなく多くのものを」負うているトルストイに対する責務だと考えていたのです。
1910年のトルストイの葬儀に際しても、スイチンはモスクワの友人たちとヤースナヤ・ポリャーナに向かいます。ヤースナヤ・ポリャーナは、かつてトルストイが、若き日を過ごし、長じて『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』を書いた場所です。ここに、5000人を超える人たちが集まり、この作家に別れを告げるのです。
スイチンによるトルストイの葬儀の回想は臨場感に溢れています。一人の作家の死が民衆にこれほどの衝撃を与えたことに、いまさらながら不思議の感を抱いてしまいます。
チェーホフ「スイチンは新聞を出さなければならない」
一方、チェーホフに関して書かれた文章も、とても印象深いものです。
医師でもあるチェーホフは、生真面目そうで神経質な作家という印象がありますが、本書に登場するチェーホフは、陽気なチェーホフというか、まるで別人のようです。
「スイチンは新聞を出さなければならない」。チェーホフは粘り強く説得を繰り返しましたので、スイチンもついにこの事業に取り組む決心をします。チェーホフは言います。
「新聞は、その社の読者の友人でもあり教師でもなければなりません。新聞は、読者に読む習慣をつけさせ、そのなかで趣味を養い、書物に到る道を切りひらかねばならない。新聞の読者は本の読者にまで成長するはずです(後略)」
チェーホフはその日の夜、ホテルに12人の文学仲間を招いて、スイチンの新聞への応援を頼みます。チェーホフは大変な上機嫌でこんな言葉を繰り返します。
「これまでわれわれには『きのう』と『きょう』しかなかった。だが今に『あした』もやって来ます。それはいつかきっとやって来ますよ」
実際には新聞を伝染病と同じように考えている当局からの監視をかいくぐらなければならず、大変な作業を強いられますが、最終的には100万部を超えるヨーロッパ有数の新聞に成長させることに成功します。
わたしは、長い生涯と半世紀にわたる出版活動のあいだに、多くの人びとと出会い、ロシアのほとんどすべての文学者と知りあいになった。だがそのなかでチェーホフほど強い印象を残した人もいなかった。これは非常に魅力的な、おどろくほどの素朴さと、心にしみいる小児のような率直さをそなえた人だった。
わたしはチェーホフと偶然、街かどで知りあった。(中略)秋の外套すがたの美しい、感じのいい青年が近づいてきて、低めのよく響く声で呼びかけた。
「こんにちは、イワン・ドミートリエヴィチ(スイチンのこと)。お近づきにならせてください……。チェーホフです」
チェーホフの『ワーニャ伯父さん』は、村上春樹さんの短編小説「ドライブ・マイ・カー」に登場しますが、この小説を濱口竜介監督が映画化して、ゴールデングローブ賞を受賞しました。映画の劇中劇で「ワーニャ伯父さん」の台詞に使われているのは、浦雅春さんが古典新訳文庫で新訳したものです。これは素晴らしい映画ですので、是非ご覧になることをお勧めします。
また、浦雅春さんの新訳でチェーホフの4大戯曲は全て読むことができます。
太宰治の書いた「チェーホフ論」
チェーホフの評伝としては、弟・ミハイル・チェーホフが書いた『わが兄チェーホフ』と、妹のマリヤ・チェーホワによる『兄チェーホフ――遠い過去から』の2冊があります。なんと2冊とも、文中にスイチンの名前が登場します。
さらに、少し話が逸れますが、チェーホフ論ということで言えば、太宰治が書いた「津軽地方とチエホフ」という味わい深い文章があります。
私が生意気な高校生だった頃、悪友たちと学校をさぼってよく東京・神田の神保町に行きました。そこで手に入れた一冊が、檀一雄の書いた『太宰と安吾』でした。
そこに「太宰治と読書」という短文があります。文字通り、太宰が何を読んでいたかを紹介した内容なのですが、その文章は長く私の脳内に残りました。
何といっても、西洋の文学で太宰の一番の愛読書はチェホフだ。短篇のすべての根幹にその激しい影響が見られるだろう。(中略)
チェホフの短編は、しかし随時古本屋から買い改めて来ては、こそこそと読んでいた。「決闘ぐらいの小説が書けたらねえ」太宰はよくそんなことを云っていた。
高校生だった私が初めて読んだチェーホフの作品が「決闘」だったのは、お分かりいただけるでしょう。
そして太宰の「津軽地方とチエホフ」はなかなか凝った内容です。
ちょうどいまの日本の津輕地方の生活が、そっくりチエホフ劇だと言ってよいような気さえした。津輕地方にも、いまはおびただしく所謂(いわゆる)「文化人」がいる。そうしてやたらに「意味」ばかり求めている。たとえば、「伯父ワーニャ」のアーストロフ氏の言の如く、
と書いて、さらに「桜の園」のトロフィーモフ、「三人姉妹」のトウゼンバフとマーシャというチェーホフ劇の登場人物の台詞の引用がなされているのですが、絶妙の選択だといえます。
それから私の個人的なお勧めとして、佐藤清郎さんというロシア文学者の書いた『トルストイ 心の旅路』と『チェーホフの生涯』という素晴らしい内容の本を挙げておきましょう。後者には、トルストイとチェーホフの交流についても詳しく触れています。ご興味のある方は是非ともお読みください。
トルストイ関連の本では、それこそ河出書房新社のトルストイ全集の別巻に、内外のたくさんのトルストイ論が収容されています。あのレーニンの有名な論文「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」や同じく革命家のローザ・ルクセンブルクが書いた優れたトルストイ論「社会を思索したトルストイ」もあります。
農民と労働者に書物を捧げた生涯
スイチンの話に戻ります。こんな行動力のある出版人・スイチンが、ロシア革命の後は仕事から遠ざけられ、1934年まで生きたことは悲劇的なことです。
1924年にレーニンが死去、1929年にはトロツキーが国外追放され、スターリンが絶対的な権力者として君臨する過酷な体制下で最晩年を生きたスイチンは、何を思っていたでしょう。自らがその啓蒙に生涯を捧げた農民と労働者階級の姿に満足していたのかはなはだ疑問です。
本書は正統的なロシア文学史には、決して登場しない人物、イワン・スイチンの興味深い生涯を知ることができる貴重な一冊です。
名編集者エッツェルとフランスの巨匠たち
さて、つぎはフランスの編集者です。
この連載の「まえがき」(連載第1回)で、私が海外の出版界との付き合いで理解したことは、編集者は書き手と対等であり、書き手に率直に意見できる存在なのだということだったと書きました。
その典型的な例ともいえるのが、これから紹介するエッツェルという編集者です。
フランス文学者の私市保彦さんが書き下ろした500頁を超える大作『名編集者エッツェルと巨匠たち――フランス文学秘史』をご紹介しましょう。この本を知る人は少ないかもしれませんが、とても魅力的な奥の深い内容を持っています。
私もこの本を読むまではもちろん、エッツェルなる人物については何の知識もありませんでしたし、彼こそがあのジュール・ヴェルヌの数々の名作をこの世に送り出した編集者であったことは、自身が幼いころからヴェルヌの大ファンであった私にも驚きでした。
序章で著者の私市さんが書いたエッツェルの紹介だけで、読者は度肝を抜かれるのではないでしょうか。
エッツェルは十九世紀フランスにおける最大の編集者のひとりといってよい。バルザック、ジョルジュ・サンド、ユゴー、ジュール・ヴェルヌをはじめとして、ノディエ、ラマルティーヌ、ミュッセ、サント=ブーヴ、ボードレール、アレクサンドル・デュマ親子、プルードン、ドーデ、ゾラ、エクトール・マロ、ヴェルレーヌ、ツルゲーネフ、ミシュレ・エルクマン=シャトリアンなど、作品の刊行にからんでなんらかの形でエッツェルの世話になった作家たちは快挙にいとまがない。
凄いなあ、と思わず嘆息してしまいます。正直なところ、何人かの作家は初めて聞く名前でしたが、それでもこれが、ツルゲーネフというロシアの作家を含む19世紀フランスの輝かしい作家リストであることはよく分かります。フランス文学のいわば黄金期のほとんどの作家の知己(ちき)であり、直接担当した編集者でもあったのです。
もう一つ、エッツェルの存在を際立たせている特異な要素は、P・=J・スタールというペンネームで100冊以上の児童書を書いていることです。後で紹介するヴェルヌへの過干渉ともいえる助言の数々も、こういう背景があってのことなのです。
著者の私市さんはここで本書執筆の動機を語ります。
編集者はいわば読者と作家とをつなぐ靭帯(じんたい)であり、編集者抜きでは作品は成立しない。このような出版ジャーナリズムが成立した十九世紀においては、編集者の役割にもっと照明をあてていいのではないか。近年フランス本国では、エッツェルという名編集者が果たした役割や、作家たちとの関係を見直す試みがなされている。
この連載で次に言及する予定の、ドイツの出版社を取り上げた『ナチス通りの出版社』の著者たちも、同じような執筆動機を挙げています。
私が働き始めた1980年代の日本の出版界では、「編集者は黒衣(くろこ)である」と当たり前のように言われていました。しかし、これは実際には何も言っていないに等しいのではないでしょうか。こういう編集者の存在を再考しようという作業が行われるようになったのは比較的最近のことだと思いますが、この変化は重要です。
始まりは「バルザックの編集者」として
エッツェルは1814年、パリ南西82キロに位置するシャルトルという町で生を享けます。そこで初等教育を終えると、親元を離れてパリで下宿生活をします。それからストラスブール大学で法学を学びましたが、両親が自分を大学に行かせるために生活を切り詰めていることに衝撃を受け、21歳の時にパリに出てポーラン書店で働き始めます。
ポーラン書店の店主、アレクサンドル・ポーランは、いわば革命の申し子というような世代に属しており、店主自身が自由思想を鼓吹する作家たちを後押しする編集者になり、その関連の本を出版します。エッツェル自身も共和主義への信条は筋金入りだったという説明がありますが、じつはこのことは彼の人生を決める大切な要素となります。
エッツェルの功績の紹介は、まずバルザックとの関係から始まります。
(エッツェルは)バルザックとは、その巨大な連作の金字塔たる『人間喜劇』の刊行者という、編集者として歴史的役割をになうことになるのだ。
この文章を最初に読んだ時には、そうか、そうなんだと驚きました。『バルザック全集』を持っている(だけの)人間としては、これは感激します。
それにしても、バルザックという人間の在り方は、本当に興味深いものがあります。若きバルザックは、金のために大衆小説をペンネームで書き、成功の幻想に取り付かれたように印刷業にも手を出します。バルザックといえば、『ゴリオ爺さん』などの長編を思い浮かべる人がほとんだと思いますが、どうして短編もとても面白いのです。
古典新訳文庫でバルザックの短編集『グランド・ブルテーシュ奇譚』が刊行されています。フランス文学者の宮下志朗さんの新訳です。最後の一編はその名もずばり「書籍業の現状について」。ちなみにこの文章は本邦初訳、つまり日本で初めて翻訳、紹介されたものです。
書物の商いは、今日では穀物の商いと同様に、高い必要性に支えられている。普通にものを食べ、衣服を着て、家に住むことができる人間にとって、もっとも強烈な欲求とは知性を拡充させることなのだ。なぜならば、現代においては知性は権力に勝るものだから。(中略)
しかしながら書籍業は、今日、もっとも不評を買っている商売の一つなのである。ひょっとしたら、この業界はその昔悪名を轟かせていた代訴人と並び称されたいのではないかと思うほどだ。(中略)印刷術が誕生した時代において、書籍商は尊敬すべき、そして実際に尊敬されている学識者であったのに、一九世紀の書籍商はあまり敬われることのない人間に堕してしまったのだ。
往々にして、山師というか、夢想家というような所業が伝えられるバルザックにしては、正論だと思われた方も多いでしょう。しかし訳者の宮下さんの解説には笑ってしまいます。ここからバルザックは「ブッククラブ」という会員制の直販システムで大儲けを企むのですが、例によって挫折したというのです。
ユゴーとエッツェル――亡命先での運命の出会い
次は、ヴィクトル・ユゴーとの関係です。1851年12月にルイ・ナポレオン、すなわちあのナポレオン・ボナパルトの甥で、後のナポレオン三世がクーデターを起こし、権力を握ります。反ボナパルト派のユゴーのような作家は亡命を余儀なくされました。共和派のエッツェルも身の危険を感じて、ユゴーと同じようにベルギーへ亡命をします。
こうして同じ亡命先のブリュッセルで、ユゴーとエッツェルは運命的な出会いを果たし、友情を育むのです。
ユゴーが妻に書いた手紙が引用されています。
たぶんわたしは、作家と編集者の城塞を築いて、そこからボナパルトに砲撃することになります。ブリュッセルからでなければジャージーからでしょう。エッツェルが会いにきました。彼はわたしと同じプランをもっています。
エッツェルはユゴーから詩篇の書き下ろしの相談を持ち掛けられます。ルイ・ナポレオン弾劾の詩集、その名も『懲罰詩集』。すごいタイトルです。
この個性的な二人は時に衝突もしますが、ユゴーのエッツェル宛ての手紙を読むと、編集者とはこういうものだという気持ちが沸々と湧いてきます。
あなたはわたしの編集者である前にわたしの友人です。
そして、あなたがなんといおうと、頭の天辺から足のつま先まで詩人であるあなたは、むろんわたしの仲間です。わたしはあなたほどに魅力的で機知に富んだ人を知りません。
あのユゴーにこんなことを言われたエッツェルはどんな気持ちだったでしょう。こういう手紙を読んでいると、私たちの内にある編集者像が変わっていくのがお分かりになるでしょう。
さらにエッツェルは、ロシアの編集者・スイチンと同じ仕事を目指します。
1860年に帰国したエッツェルは、まず、中産階級から庶民までが気軽に手に取れる、廉価でよい本を普及させようとします。第二に、本の愛好家のための豪華本、第三に、潜在的な読者がたくさんいる児童書を考えます。これは、まるでスイチンですね。19世紀という時代は、大衆の知的レベルの向上を背景に、それまでの時代とは決定的に違う出版が可能になった時代だったのです。
エッツェルは帰国後の記念出版として、あの『ペロー童話集』の豪華本を刊行します。さらには1860年5月に、ミシェエル・レヴィーという編集者と組んで『ボン・ロマン』という定期刊行物を出し始め、63年末に手を引いて、翌年、長年の夢だった子供雑誌『教育娯楽雑誌』を発刊します。
『海底二万里』をめぐるヴェルヌとの闘い
ここにひとりの作家が原稿を手に飛び込んできました。それがジュール・ヴェルヌだったのです。
一方でエッツェルは、著作権確立に向けた闘いも始めています。
ヴェルヌとエッツェルの関係を読んでいくと、一人の編集者として不思議の感に打たれます。このような作家と編集者の関係は空前にして絶後ではないでしょうか。1862年に二人が初めて会った時はヴェルヌは34歳、エッツェルは48歳でした。
皆さんのなかにも、ヴェルヌ・ファンがたくさんいると思います。古典新訳文庫では、『八十日間世界一周』と『地底旅行』は、翻訳家の高野優さんの新訳で読むことができます。
『地底旅行』は小学生の私の枕頭(ちんとう)の書でしたので、ノーカット版の新訳で校正紙を読むのは、本当に楽しい仕事でした。児童文学全般にいえることですが、やや長い物語は、子ども向けに縮約されているケースが非常に多いのです。
もちろん幼い私もそれゆえに読むことができたので、それはそれで貴重な読書体験なのですが、原文に忠実に新訳されたものを読むのは、また違う喜びがあります。
たとえば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』などがその典型的な例です。大人こそ、完訳された児童文学を読むことをお勧めします。
余談ですが、古典新訳文庫では、いわゆる児童文学を手加減のない文体で新訳したものがたくさんありますので、どうぞ読んでみてください。
さて、ヴェルヌの代表作と言われるのは、例の『教育娯楽雑誌』に連載された『海底二万里』ですが、この本に関しては、じつに興味深いエピソードが紹介されています。
ノーチラス号の船長、ネモはよく知られた存在です。このネモの出自をめぐるヴェルヌとエッツェルのやり取りが、本書には再現されているのです。こんなに面白い裏話はありません。
ヴェルヌは当初、ネモをロシアの圧制に反抗するポーランドの王子として想定したのです。しかしエッツェルは反対します。その理由が、ロシアという国がエッツェル書店とヴェルヌの上得意だったからだという一節を読んだ時は驚きました。ビジネスパーソンの面目躍如です。
ヴェルヌはもちろん反論しますが、最終的にはこの案を取り下げます。しかし、エッツェルが主張する別の案にも断固反対します。
こんな闘いがこの作品の背後に会ったことを知ったときは、本当に驚きました。「エッツェル、あなた編集者としてやり過ぎですよ」と言いたくなる展開です。
このようなすったもんだがあって、皆さんがご存じの、ネモが何者であるのかも判然としないまま終わるということになるのです。
没にされた『二十世紀のパリ』――130年ぶりに出版
しかし、本書を読んでいてなによりも驚くのは、『海底二万里』に代表されるヴェルヌに対する「過干渉」ともいえるアドヴァイスの数々です。文章についてはもちろん、その構成や内容に至るまで、じつに細かい注文をつけているのに驚きます。よくヴェルヌが忍耐強く晩年まで付き合ったなと思うほどの激しい意見をもろにぶつけています。
極めつけは、ヴェルヌが若い頃に書いた『二十世紀のパリ』という作品を、なんと没にしていることです。この小説は、ヴェルヌのひ孫が引っ越しの際に、何も知らずに原稿を金庫の中から取り出しましたが、その時は貴重なものであることに気づかなかったのです。後に真筆であることが分かり、130年ぶりにようやく日の目を見ました。
1994年に刊行されたこの『二十世紀のパリ』は、日本でも翻訳されて読むことができます。もちろん私も読みましたが、100年後の世界を描いた、いわば未来予測小説として、極めて興味深い作品で、思わず引き込まれるような魅力があります。
なぜこれを没にしなければならなかったのか、私自身、一人の編集者としても理解に苦しみます。しかし、エッツェルは刊行を断固として認めなかったというのです。
さて、作家の文章に手を入れるのは、このエッツェル自身が作家でもあったからでしょう。
エッツェルはヴェルヌの原稿に手をいれるのを習慣としていたのである。いわば、エッツェルはヴェルヌの育ての親であり、教師であり、「精神の父」であったのだ。
著書の私市さんはこう書いていますが、それにしても、いかに凄腕の編集者でもこれは普通あり得ないと思います。筆者はさらにこんなエッツェルの姿を描いて見せるのです。
エッツェルは死ぬまで、それこそ目の色の黒いうちは、ヴェルヌの創作に口を出しつづけたのである。エッツェルの「教育娯楽雑誌」に発表されないばあいでも、いずれ自社で単行本になるのだからと、一貫して注文をつけた。それも、きわめて具体的であり、ときにはエッツェル自身が作者になったつもりで、文章まで書いてみせるのである。こういう傾向は、晩年になるにつれて、はなはだしくなってくる。
自分が作家だったらこんなことは絶対に認めないだろうな、と私は思います。ヴェルヌがなぜこういう編集者を拒絶しなかったのか。それを考えることは、小説の創作を考える上で極めて本質的なことでしょう。
エッツェルと若き作家たちとの強烈なエピソード
こうして最後まで過干渉を繰り返したエッツェルは、1886年3月に亡くなりました。その時のヴェルヌの心境を考えてみるのも興味深いと思います。
もちろん本書には他の作家とのやり取りもたくさん紹介されていますが、ただヴェルヌとのエピソードがあまりに強烈なのです。
最後に、ゾラとエッツェル、ユイスマンスとエッツェルのエピソードをご紹介しましょう。
この二人の作家は処女作をエッツェルに売り込みましたが、その反応は対照的でした。作家志望の青年だったゾラがエッツェル宛てに書いた手紙が残されています。やっと返事をもらったゾラは友人にこんな風に書き送っています。
「ぼくは、最初の勝利をおさめた。エッツェルがぼくのお話集(コント)を受けいれてくれた。この本は十月はじめに出版されるだろう」
ゾラと言えば、自然主義文学の象徴とでもいうべき存在であることは、日本でもよく知られていますが、こんなナイーヴな手紙を書いていたのです。エッツェルが受け入れてくれたことが本当にうれしいのが伝わってきます。
この出会いがあってこそ、『ナナ』『居酒屋』などの名作が生まれたのだと考えると、エッツェルの存在の大きさに驚きます。もちろん、才能ある人間は必ず世に出るとは思いますが。
逆に酷い目に遭ったのが、ユイスマンスです。日本では、澁澤龍彦訳で『さかしま』が今でもよく読まれていますし、三島由紀夫は「デカダンスの聖書」というエッセイではユイスマンスを絶賛しています。
久しく名のみきいてゐたデカダンスの聖書「さかしま」の難解を以て鳴る原文を、明晰暢達(めいせきちょうたつ)な日本語、しかも古風な威厳と憂愁をそなへた日本語にみごとに移しえた訳者の澁澤龍彦氏の功績を称へたい。(中略)
さて、「さかしま」は、いやしくもデカダンスを論ずる者が、一度は読まねばならぬ本である。ここにはデカダンスの光栄と滑稽がすべて描かれ、デカダンの必須の条件である富と教養がすべて呈示されてゐる。
遠い日本に生まれた三島由紀夫が、その才能をこのように絶賛していたユイスマンスが、処女作をエッツェルに持ち込んで拒否されたのです。しかも、きみには才能がない、文章もひどいなどとさんざんなことを面と向かって言われたのですから、恨みに思って当然です。
編集者は一級の批評眼をもっていなければならないと「まえがき」で書きましたが、実はエッツェルほどの編集者でも間違いを犯すことがあるのです。まして自分自身のことを考えると頬が赤らむような記憶がよみがえってきます。
このエッツェル書店は息子の代で終わりを迎えました。この編集者の一代記はいろいろな角度から読むことが可能な作品です。是非一読をお勧めします。
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第2回の読書ガイド
・「トルストイを読み給え」小林秀雄著、『小林秀雄全作品〈19〉真贋』(新潮社)所収
・「作家志願者への助言」小林秀雄著、『読書について』(中央公論新社)所収
・『東京大学で世界文学を学ぶ』辻原登著、集英社文庫
・『トルストイ『戦争と平和』(100分 de 名著) 2013年6月』川端香男里著、NHK出版
・『本のための生涯』イワン・スイチン著、松下裕訳、図書出版社
・『トルストイ――娘のみた文豪の生と死』タチヤーナ・トルスタヤ著、木村浩/関谷苑子訳、TBSブリタニカ
・『父トルストイの思い出』イリヤ・トルストイ著、青木明子訳、群像社
・『アンナ・カレーニナ』トルストイ著、望月哲男訳、光文社古典新訳文庫
・『かもめ』チェーホフ著、浦雅春訳、岩波文庫
・『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』チェーホフ著、浦雅春訳、光文社古典新訳文庫
・『桜の園/プロポーズ/熊』チェーホフ著、浦雅春訳、光文社古典新訳文庫
・「ドライブ・マイ・カー」村上春樹著、『女のいない男たち』(文春文庫)所収
・『わが兄チェーホフ』ミハイル・チェーホフ、宮島綾子訳、東洋書店新社
・『兄チェーホフーー遠い過去から』マリヤ・チェーホワ著、牧原純訳、筑摩書房
・『太宰と安吾』檀一雄著、角川ソフィア文庫
・「津軽地方とチエホフ」太宰治著、『太宰治全集〈10〉』(ちくま文庫)所収
・『トルストイ 心の旅路』佐藤清郎著、春秋社
・『チェーホフの生涯』佐藤清郎著、筑摩書房
・『トルストイ全集――別巻トルストイ研究』法橋和彦編、河出書房新社
・『名編集者エッツェルと巨匠たち――フランス文学秘史』私市保彦著、新曜社
・『ゴリオ爺さん』バルザック著、中村佳子訳、光文社古典新訳文庫
・『グランド・ブルテーシュ奇譚』バルザック著、宮下志朗訳、光文社古典新訳文庫
・『八十日間世界一周』ジュール・ヴェルヌ著、高野優訳、光文社古典新訳文庫
・『地底旅行』ジュール・ヴェルヌ著、高野優訳、光文社古典新訳文庫
・『ロビンソン・クルーソー』デフォー著、唐戸信嘉訳、光文社古典新訳文庫
・『海底二万里』ジュール・ヴェルヌ著、村松潔訳、新潮文庫
・『二十世紀のパリ』ジュール・ヴェルヌ著、榊原晃三訳、集英社
・『さかしま』ユイスマンス著、澁澤龍彦訳、河出文庫
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【著者プロフィール】
駒井 稔(こまい・みのる)
1956 年横浜生まれ。慶應義塾大学文学部卒。'79 年光文社入社。広告部勤務を経て、'81 年「週刊宝石」創刊に参加。ニュースから連載物まで、さまざまなジャンルの記事を担当する。'97 年に翻訳編集部に異動。2004 年に編集長。2 年の準備期間を経て'06 年9 月に古典新訳文庫を創刊。10 年にわたり編集長を務めた。著書に『いま、息をしている言葉で。――「光文社古典新訳文庫」誕生秘話』(而立書房)、編著に『文学こそ最高の教養である』(光文社新書)、『私が本からもらったもの――翻訳者の読書論』(書肆侃侃房)がある。現在、ひとり出版社「合同会社駒井組」代表。
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