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5:そのころのアメリカにも「祭り」があった、ラモーンズはスタローンに学んだ——『教養としてのパンク・ロック』第19回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第2章:パンク・ロック創世記、そして、あっという間の黙示録

5:そのころのアメリカにも「祭り」があった、ラモーンズはスタローンに学んだ

  ラモーンズがパンク・ロックの公理を発見し、原型を創造してしまった1974年あたりのアメリカもまた、ひどい虚脱状態のなかにあった。イギリスとは違った形で、崩壊の途上だった。第二次大戦後の50年代には、一説「残りの世界中すべてを合わせた以上の富を独占している」とされていたアメリカの栄華は、このころ、見る影もなくなっていた。

 もっとも、アメリカの凋落を招いた最大のもののひとつ、ヴェトナム戦争はちょうどこのころ、完全なる終幕を迎えようとしていた。アメリカにとっては実質的な敗北だったのだが、73年1月のパリ和平協定、そして3月の南ヴェトナムからの撤退を、米国民の多くは歓迎した。そして75年4月30日にはサイゴンが陥落、終戦となる。翌76年にはヴェトナム帰還兵の「やるせなさ」と壊れゆく米都市部の闇を重ね描いた映画『タクシー・ドライバー』が公開された。

 なんとも皮肉なことに、この年、『タクシー・ドライバー』公開の1976年とは、アメリカ合衆国の建国200周年にあたった。だから大小さまざまな祝賀イベントがあり、キャンペーンがあって、日本でもそのいくつかに「乗っかる」動きすらあった。しかし祝賀の足元で、依然アメリカ社会は映画の内容同様に青息吐息だった。71年のニクソン・ショック(米ドルと金の兌換停止宣言)の混乱の上にオイル・ショックを食らい、やはりスタグフレーションが悪化。76年のこの時点においても、いまだ立ち直ることができていない状態だった。つまり「なにがめでたいのか」という状態で、建国200周年を迎えていた。

 ニクソン・ショックは、その名のとおり第37代アメリカ大統領リチャード・ニクソンが引き金をひいたのだが、彼もまた、建国200周年時にはホワイトハウスにいなかった。ヴェトナム戦争に幕を引いたあと、74年8月に辞任したからだ。72年6月に発覚したウォーターゲート事件についての引責だったのだが、これは米下院司法委員会が大統領弾劾を可決したがゆえの白旗であり、決して引き際がよかったわけではない。加えて任期途中での大統領辞任そのものも、アメリカ史上初の恥ずべき出来事だった。

 つまり、アメリカの栄光やら威信がことごとく汚辱にまみれ、取り返しがつかないほどまでにも毀損され続けていた「自信喪失の季節」が、70年代のこのあたりだったと言える。ヴェトナム戦争反対を合言葉にカウンターカルチャーが花開いた60年代後半とは、雲泥の差だった。当時抱いた未来への希望、若々しい決意そのほかがすべて反転して、「夢を抱いていた」当人たちや後続世代を、まるでひどい宿酔いのように蝕み始めていた。

アメリカの音楽産業は映画産業より巨大だった 

 このころのアメリカ、しかも音楽産業についての興味深い証言がある。誰あろうジョン・レノンが、英BBCの人気番組『オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』のインタヴューに答えたフッテージのなかに、それはあった。インタヴュアーは(ささやきボブこと)ボブ・ハリスで、収録はニューヨークのダコタ・ハウスにておこなわれた。75年4月に初放送された映像の中で、レノンはこんな発言をしていた。

「(アメリカの)音楽業界はすごく大きい。数10億ドル規模の産業で、思うに、いまは映画業界よりも大きいんじゃないかな」

 現在の目には、きっと奇異に映ることだろう。米音楽業界と映画業界の市場規模は、基礎的には後者のほうがずっと大きい、というのが近年の常識だったからだ。もっとも、ここでのレノンの口調も、驚くべき発見をしたかのような物言いだったことを見逃してはならない。つまりこの当時、それほどまでに急速に音楽市場が拡大していたという状況があった。これがレノンにとって(いまの我々にとっても)意外な現実を形づくっていたのが、75年のこのあたりだった。

 数字で見てみよう。RIAA(全米レコード協会)が発表している、同国のレコーディング音楽作品売上高一覧グラフによると、1974年の総額はおよそ20億ドル強。一方で映画界はというと、同74年の年間映画興行収入(ボックス・オフィスでのチケット売上)総額が11億ドル強で――たしかに、レノンが言った以上の「差」がはっきりとついていることがわかる。

 つまりこのころ、それほどまでに米映画業界は衰弱していたのだ。見る影もなかった。「王侯貴族」を数多く抱えた、ロック音楽界のほうがあからさまにカネ回りがよさそうに見えるほどまでにも、凋落しきっていた。

 アメリカ映画界の「古き良き」時代は、50年代の赤狩りによって完全なる終焉を迎えていた。徐々に復活し始めた60年代、なかでも後半は、日本で言うところのニュー・シネマが芸術性という面では気を吐いていたものの、興行的にはまだまだで、映画産業の本格的復活劇は、70年代に始まった。

 72年の『ゴッドファーザー』や『ポセイドン・アドベンチャー』などの大作の成功から始まった復活劇は、それこそ『スター・ウォーズ』や、スティーヴン・スピルバーグの諸作(75年の『ジョーズ』、77年の『未知との遭遇』)などの大ヒットで新たなる次元へと達した。つまり「ブロックバスター」映画時代の到来だ。ここでの成功方程式が、80年代以降、ずっと先まで長く果てしなく続く、アメリカ映画の商業的活況の下地となっていく。82年には映画業界の年間総興行収入が、音楽業界のレコード作品売上高とほぼ並ぶところまで上昇。そのあとは両者抜きつ抜かれつのデッドヒートが続き、99年に音楽側が頂点を極めた(約150億ドル)あと、ナップスター・ショックなどで右肩下がりに落ちて、07年あたりに映画と並び、08年には抜かれる――というのが、おおよその流れだ。コロナ禍によって映画興行に甚大なダメージが生じた20年あたりまでは、ほぼこの形で「映高音底」で進んだので、現代の我々は「当時のレノンのような前提」を、なんとなく保持していたというわけだ。

映画『ロッキー』によるアメリカの威信の復権

 そして70年代中期の米映画界における「反転攻勢のきっかけ」となったのは、ルーカスやスピルバーグだけではなかった。このときに違う方向から、米映画の復権――いや「アメリカそのものの威信の復権」をも推進したのが、76年の映画『ロッキー』だった。

 黒人のスーパースター・ボクサー、ヘヴィ級世界王者のアポロ・クリードに「たまたま」挑戦することになった無名のイタリア系貧乏ボクサーを主人公とした同作は大ヒット、すさまじいまでの社会現象を巻き起こした。脚本・主演を兼ねたシルヴェスター・スタローンを、まさに主人公のロッキー・バルボアと同様に「アメリカン・ドリームに手を伸ばした」英雄として、一躍スターダムへと押し上げた。

 なぜならばこれは、人生崖っぷちのダメな白人男が、成功者の黒人に挑戦して「互角にやれる」ことを証明するストーリーだったからだ。劇中の試合そのものが「建国200周年記念イベントの一環」と設定されていた点も重要だ。つまり「自信喪失していた」アメリカの、おもに白人層の男性にとっての「復権の夢」の象徴ともなるような一作だった。ゆえに精神的なカンフル剤として機能して、『ロッキー』とブロックバスター組が、そのまま手に手を取り合って、80年代アメリカ映画の爛熟期を呼び寄せた。同時にまた、レーガン時代の「強いアメリカへの郷愁および復古」までの道のりをも、くっきりと照らし出す効果も担った。 

スタローンのラモーンズへの影響

 こうした環境も、ラモーンズ誕生に大きく寄与した。なぜならばラモーンズにも、じつは、スタローンからの影響があった可能性があるからだ。もちろん『ロッキー』ではない(そんなわけはない)。74年に公開された、つまりはスタローンが不遇期に出演した一作と結成時のラモーンズには、切っても切れない関係がある、との見方があるのだ。邦題を『ブルックリンの青春』とする青春映画がそれだ(原題は The Lords of Flatbush)。

 フラットブッシュとは、ニューヨークはブルックリン区の一区画だ。ここの「ロードたち(=諸侯)」を名乗る「4人の不良チーム」を描いた同作の舞台設定は、1958年だった。スタローンは、チームの一員を演じた。仲間のひとりは、TVドラマ『ハッピー・デイズ』のフォンジー役でのちに国民的人気者となるヘンリー・ウィンクラーだった。彼らロードたちは、髪型もファッションも、ひとつの規則にしたがって「まるで制服みたいに」同じに揃えていた。髪は日本で言う「リーゼント」で、そしてみんな、ブラック・レザーでダブルブレストのライダース・ジャケットと色が抜けたブルー・ジーンズで決めていた。

 ラモーンズが革ジャンを「制服」に決定した背景として、ゲイ・ファッションからの影響がよく指摘されるのだが、同時にまた、この映画からの直接的引用だという見立ても少なくない。チームの全員がユニフォーム的に身に着けている感じが、たしかによく似ている。グリース・ヘアと長髪は、もちろん違うのだが。しかしなによりもこの映画は「過去の若者風俗を再現した」リヴァイヴァルものだった。この点が、スタイルだけでなく、音楽性まで含めて、ラモーンズの成り立ちととてもよく似ている。

「俺らの感じ」による小規模な人間復興

 スタローンは、この『ブルックリンの青春』出演時点では、さして当てになる未来などなく、つまり「アメリカン・ドリーム」など、遠くにすら見えていなかった、かもしれない。だから逆に言うと、そんな時期の彼が一員を演じていた、やくざな若者チーム映画に、ラモーンズの面々が強く反応した――というならば、その構図はとても面白い。「ブルックリンの奴らがやるなら、俺らもやろうぜ」なんて、意気上がっていたのかもしれない。

 なぜならばこれは、ラモーンズがラモーンズであることの、ひとつの証明とも言えるエピソードともなり得るからだ。なんの迷いもなく「ストリートこそが」自分たちのいる場所だと認識していた面々が結成したバンドが、ラモーンズだった。よく知った地元の、よく知った仲間たちとともにやるバンド、苗字を揃えて「義兄弟」のふりをするバンドは、当たり前だが「地に足が着いて」いるものだ。華やかな、王侯貴族みたいなスーパースターにあこがれて、素人ながらにその真似をするようなものではなかった、ということなのだから。

 メンバーたちの関係性は、ちょうど50年代の不良少年チームのように。あるいは、60年代のガレージ・バンドのように。そうやってラモーンズは、自らのロックンロールの「スタイル」を練り上げていった。ある意味それは、一時期のアメリカ映画(ニュー・シネマ)のありかたとも、どこか似ていたのかもしれない。スタジオを出て、街で、荒野で、16ミリの手持ちカメラを引っつかんで、ざらついた映像を撮っていた行為と、ラモーンズ式の「先祖返り」の方法には、共通項が多くある。

  およそありとあらゆる意味で、奈落へと崩れ落ちようとしていた70年代中盤のアメリカで、きわめて「どん底」に近いその場所から、ラモーンズ型のパンク・ロックが誕生してしまったのは、こんな文化的経路から流入してきた「必然」の積み重なりからだった。言い換えると、頭で考えるのではなく、社会全体への、時代そのものへの、身体的な反射作用としてのロックが、ニューヨークにてこのとき「発生」したものの本質だった。

パンク:年はいくつ?
トミー:23か24
パンク:オレたちと同じだネ
トミー:すばらしいジェネレーションさ
『パンク』紙1号:『ラモーンズ――ロックンロール――本物」

『イングランズ・ドリーミング』より

 運が悪ければ、あるいは終戦がもっと先に延びていたら、この『パンク』紙で意気揚々と応えているトミー・ラモーンのみならず、ラモーンズの全員がヴェトナムの戦場に送られていたかもしれない。しかしどう考えても彼らが『ランボー』みたいなスーパー戦士には、なれるわけがない。もちろん現実のヴェトナムにもランボーなどおらず、ラモーンズたちとほぼ同世代の多くの若者が、無惨な犠牲者となった。彼らと同じクイーンズで、同じ世代だった者たちも幾人も、きっと。

 ゆえに彼ら4人の「地元のチームとしての契り」が、それが健全に存在し得たことが、これほどまでにも大きく、歴史的な影響力を持つまでに至ったのだ。勝手に壊れていく、ほとんど無意味なでくのぼうと化していた70年代のアメリカ社会における、政府由来の「大きな機械」に巻き込まれることなく、地に足を着けて「俺らの感じ」による小規模な人間復興を実態化させたものこそが、ラモーンズが開発したパンク・ロックの正体だった。爽快きわまりない、あの音楽の「効果」の真の姿だったのだ。

【今週の映像3つと1曲】

TAXI DRIVER [1976] - Official Trailer (HD)

 ご存じ『タクシー・ドライバー』オリジナル・トレイラー。こんな具合に「荒れに荒れた」ニューヨークこそが、ラモーンズたちパンクスの、あるいはダウンタウン・ロッカーズたちの誕生の背景となったものだった。

John Lennon - Stand By Me (The Old Grey Whistle Test '75)

本文中に引いたインタヴューと同時にBBCで放送された「スタンド・バイ・ミー」スタジオ・ライヴ風クリップ。レノンのソロ名義としては最後のアルバムとなってしまう、オールド・ソングのカヴァー集『ロックンロール』のプロモーション期間だった。

The Lords of Flatbush 1974 Trailer | Sylvester Stallone | Henry Winkler

若きスタローンやウィンクラーらが躍動する『ブルックリンの青春』こと The Lords of Flatbush のトレイラー。「真似したくなる」低予算感と言うべきか。

 

『ロックンロール・ハイスクール』予告編


ラモーンズも映画に出た。79年公開、しかし日本では(なんと)今年初めて正式に劇場公開。これまではみんなビデオや上映会で観ていた。ロジャー・コーマン製作総指揮の他愛ない学園コメディなれど、動き演奏するラモーンズが映っているだけでパンク・ロック・ファンらは喜んだ。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

 

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