味わいの現象学|馬場紀衣の読書の森 vol.46
「味」という言葉には、少なくとも二つの意味がある。英語でいうところのtaste とflavorがそれだ。辞典によればtasteには食べものを「味わう」ほかにも、「味覚」や「味」という意味がある。そしてflavorには「味わい」とか「風味」という訳語が当てられている。とはいえ、この二つの単語をきっちりと使いわけている人はそれほど多くないように思う。それどころか味をめぐる言葉の使い分けはとても複雑で、正解を知っている人がいるかどうかもあやしい。
ただ、重要なのは言葉の使いかたではなくて、言葉の使いかたの背後で働いている感覚に関しての見方のほうだ。本書によれば「それぞれの感覚はかならずしも単独で働くのではなく、相互に影響を及ぼしあったり、あるいは、結びついたりして働くもの」だという。じっさい、私たちが味覚として受け取っている内容のほとんどは嗅覚にもとづくと言われる。料理を味わうという日々の特別な経験は、けっして舌だけに与えられたイベントではなく、五感すべてが共働し合った結果によるものなのだ。これこそが 本書の目的であり、味わいの知覚経験がマルチモーダル(多様相的・多次元的)であることを示している。
だから感覚を失うことは(それがどの感覚であれ)人生を奪われることに等しい。とりわけ味覚においては、嗅覚は「味わい」を形成するうえで欠かせない。アリストテレスも嗅覚をたんに生きるために必要な感覚ではなくて、善く生きるために必要な感覚に分類していた。嗅覚を人間らしく生きるために不可欠な感覚と捉えていたのだろう。
知覚経験のなかから「味わい」の奪われた世界を想像してみる。それはなんて味気ない世界だろう。心もとなくて、退屈で。味わいが無ければ、きっと食べることにもすぐに飽きてしまう。食卓で交わされる会話も減るだろうな。著者のいうように「味覚経験、すなわち本書で『味わい』と呼んできた経験は、人間は生きることを欲する存在であることを教えてくれる経験」なのだ。そして味わいとは、「生きる意味をもっとも根源的な仕方で教えてくれる経験」なのである。私たちは食べるという行為に、お腹をふくらまし、栄養補給をする以上の意味を求めている。それはほとんど、幸福のための活動といっていい。そういう意味でも、味わい(嗅覚)は大袈裟でなく人生に生きる意味を与えてくれるものなのだ。