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触れることの科学|馬場紀衣の読書の森 vol.47

触れることで気持ちのすべてを伝えられるなんて信じていないけれど、人に触れることで、不確かだった気持ちを言葉よりずっと的確に伝えることができるとは信じている。そういう確信めいた予感がある。誰かとの触れあいが、言葉を簡単に超えてしまうという経験を、きっとしたことがあるからだ。 

感情伝達における対人接触の役割を調べた実験によると、内向きの感情(困惑、嫉妬)よりも外向きの感情(愛情、感謝)のほうが解読されやすいのだという。もちろん、触れあいに関する考えかたは文化や性差あるいは社会的状況によって大きく異なるし、現実生活での触れあいは、実験室で行われたそれとはちがうはずだ。重要なのは、「生の接触感覚が、私たちに刷り込まれた経験と結びついて、最終的に非常に感情に満ちた対人接触の知覚を生み出している」ということ。そして身体接触は、気持ちを相手に伝えるために利用できるということ。

接触の感覚を意識して過ごすと、世界がとても気持ちのいい場所(であると同時に不愉快な場所)であることに気づかされる。私たちは接触を通して人を、そして経験の理解を深めていく。助けたい、注意をひきたい、仲間に入りたい、支配したい、感謝したい。人の感情の働きはさまざまだけれど、とくに愛の触れあいに関しては、脳内の出来事だけでは説明することのできない歓びがある。それは心と心の触れあいでもなければ、肌と肌の触れあいでもない。愛の触れあいとは「心と肌との二重の対話」であり、「最良の場合には、ひとりの身体からもうひとりの身体へと反響し、さらにまた大きく返ってくる響き合いとなる」ものだからだ。 

触覚、皮膚感覚について読んでいると、自分はいったい何者なのだろうかと考えずにはいられない。自分が自分でなくなるような気もするし、自分がくっきりと浮かび上がってくるような気もする。不安があおられる。でもきっと、それで正しいのだ。
 

触覚が皮膚や神経や脳の進化とともに私たちが得た特質から生じるものであることを理解すれば、触覚の超常的な側面は説明が付く。触覚の生物学を突き詰めると見えてくるのは、自然なできごとも超自然的なできごとも、ともにきわめて人間的で、人間味のあるものだということなのである。 

著者のデイヴィッド・J・リンデンは神経学者で、脳神経の働きを説いた本というのは難しいイメージがある。でも、この本にはロマンチックな表現がたびたび登場する。複雑怪奇な脳と神経の世界を、日常のエピソードを交えながら軽快に走り抜けていく。読者はただ、ロマンチックな作者を追いかければいい。目指すのは、人間の在りかたへの深い理解だ。


デイヴィッド・J・リンデン『触れることの科学 なぜ感じるのか どう感じるのか』河出文庫、2019年


紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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