髪をもたない女性たちの生活世界|馬場紀衣の読書の森 vol.55
ほんとうは失礼なことかもしれないのだけど、美しい女性を見ると振りかえらずにはいられない。ほんの一瞬、すれ違いざまに受けとることのできる美しさには、だいたい2種類しかないと私は思っていて、ひとつは肌が美しいこと。もうひとつは、髪が美しいことである。
それで、その、髪についての本である。体のなかでも髪、というのは異質な部分だ。人の一部でありながら血の一滴も流すことなく、いとも簡単に切り離せてしまえることが関係しているのかもしれない。それに、生き物じみているところ。目には見えない魔物でも宿っているみたいに人を魅了するところ。「髪は女の命」なんて使い古された言葉があるけれど、今でも真実だと思う。だって、そうでなければこんなにも髪のことで悩んだり苦しんだりする人はいないはずだもの。でもこの本に関していえば、髪が「ない」ことは、髪が「ある」うえでの悩みとはまるでべつものだ。
「脱毛症や抜毛症という病気で髪をもたない女性が、かつらの着用によって髪がないことを隠しながら生活することは、『病気』というスティグマを隠蔽する『パッシング(passing)』である」そう著者は指摘する。それは「まだ暴露されていないが〈暴露されれば〉信頼を失うことになる自己についての情報操作」であり、信頼がいつ崩壊するか分からない生活者は、常に大きな不安を抱えて暮らさなくてはいけない。不安はそのうち日常を食い荒らし、人生の選択やライフコースにも影響を及ぼしかねない。それに、金銭的な不安もある。
安価なファッション・ウィッグ(おしゃれ用かつら)とちがって「医療用かつら」という名称で販売されているフル・ウィッグ(総かつら)は、数十万円以上もするのだ。これが人毛で作られたオーダーメイドのかつらとなれば、値段はさらにはねあがる。しかも、かつらは消耗品だから数年ごとに買い替えなくてはいけないし、義髪は保険適用外だから全額負担という金銭的な苦しさがのしかかる。
「髪をもたない女性」の生きづらさは、ほかにもある。たとえば、他者の目。自己否定感。かつらを着用しないで生活する女性がいるいっぽうで、家のなかでも(というのは家族にも事情を隠して)かつらをかぶる女性もいるという。女性は身だしなみに配慮すべきである、という文化的な影響もある。印象的だったのは、脱毛症当事者のなかには「重度の病気や障害を抱える人に比べれば自分たちの辛さは大したことがない」と感じている人がいること。生きづらさが当人たちによって過小評価されている現状もある。
髪をもたない女性たちは一人の女性として、社会からどのように見つめられているか。それは同時に、一人の女性としてどう生きるか、という問題を浮き彫りにする。誰の中にでもある「望ましさ」は、それが自分の内から出たものであれ、他者から押しつけられたものであれ、暴力であることには変わりないのだ。