読書入門|馬場紀衣の読書の森 vol.66
読書ほど孤独な営みはないと思う。本を読んでいる人は静かだ。本が開かれている時、彼らはここではないどこかにいる。どこか、手の届かない場所に。この本を読んで、そんなことを考えた。
私は、からだ、というものにずっと惹かれているのだけれど、読書はまぎれもなく身体的な経験だと思う。表紙をめくるときの指先の感覚、紙の手触り、文字を追う眼の動きやページの擦れる音。そして、匂い。じっさい、古い本と新しい本とでは匂いがまるでちがう。本の一冊一冊が、まるで一人一人の人間のように孤立している、ということもそう。人の言葉を読むことはまちがいなく快楽だ。そして、その本が良書であればあるほど喜びはいっそう強くなる。
おそらく、大切なのはそうした経験なのだろう。読書のなかにくっきりとした手触りがあればあるほど、ぼんやりと哀しくなったり、ぼんやりと嬉しくなったりする。個人的には、このぼんやり、というのが大事だと思う。それはすなわち、すべてのページを読み終わったあとにまだ内容を味わう喜びが残されている、ということでもある。良い本には、読むたびに新しい気づきがあって、そのたびに新鮮な驚きに出会える。だから本を読むことは、人に会いに行くことにすこしだけ似ている。人に会いに出かけて、その相手と話したり、お茶を飲んだりしている間はほかのことがなにもできなくなってしまうことに、読書は似ている。
かくいうわけで、読書とは著者の言うように「束縛的行為」である。かといって、読書家たちが束縛されたいと思っているかどうか私は知らない。それに、束縛されなくては読めないというわけでもない。それどころか、この本にも書かれているように読書とは「ワガママに、自分を甘やかしまくって本と向き合うべき」なのだ。読書にはスタイルがない。規則もない。「あるのだったら、それをつくった人間を連れてきやがれと文句のひとつもいいたいくらいです。いうまでもなく、それはナンセンス以外のなにものでもないのですから」との言い分には、私も大賛成だ。