#04_母ちゃんの作った「カツオの揚げ浸し」を食べながら「割り切れない」地方の食について考える|小松理虔
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#04_母ちゃんの作った「カツオの揚げ浸し」を食べながら「割り切れない」地方の食について考える|小松理虔

これぞ無限カツオ

 梅雨の合間の、真夏みたいにカーンとした青空が広がった日の夕方、の、風呂上がり。艶かしいほど赤く美しい切身を箸で取り、すりおろしたニンニクをぎっちりと入れた濃口醤油につけて一息に口に放り込むと、爆発する旨味とともに「生きててよかった」というわけのわからない感慨に包まれる。分厚くカットした身はねっとりとした食感があり、豊かな余韻を残しつつ、旨味が喉の奥に消えていく。一切れ噛み終わるころにはすでに次の一切れに箸が伸びていて、合間に冷たく冷えたビールを挟みながら、二切れ目、三切れ目とまた箸が伸びてしまう。そうしてひとしきり食べたあと、「うめえ…」という言葉が胃袋の奥のほうから出てきて、ようやくぼくは箸を休めることができる。

 ぼくにとってカツオという魚は特別な食材だ。食材としてダントツにうまいということだけでなく、「オレはいま新鮮な魚を食っているんだ」という気持ちになれる。そして、新鮮な魚が手軽に手に入るこの港町に暮らす喜びを感じさせてくれる。一切れ食べて味に感動し、もう一切れ食べて港の人たちの顔や風景を思い出す。カツオには、小名浜で暮らすことの喜びの、そのほとんどが込められていると言っていい。

 残った刺身にはニンニク醤油をかけておき、ジップロックに入れ、数回揉んで冷蔵庫にしまっておく。一晩おいて、次の日の朝飯で焼いて食うのだ。切り刻んだ生姜や大葉を入れておいてもいい。一晩おくことで醤油もニンニクも生姜もしみるし、それを焼けば香ばしさも加わる。すさまじい勢いで白飯が進むのだ。カツオの身をほぐしてご飯に乗せ、さらにゴマや海苔をのせて、冷たいお茶や麦茶をぶっかけて食うのもいい。絶妙なしょっぱさで、ぱっと食べられて、それでいて胃袋にしっかりと収まる。いかん。文章を書いているうちによだれが…。

 カツオを買ったり、おすそ分けをもらったりしたら、半分は実家に持っていく。父ちゃん母ちゃんに食わしたいという親孝行的な動機もあるけど、真の狙いは「カツオの揚げ浸し」である。このカツオの揚げ浸しというのは、カツオの切り身を竜田揚げにし、それを季節の野菜や大根おろしとともに麺つゆのようなものに浸して食うという郷土料理だ(少なくとも小松家ではそうだ)。温かいのも、冷たいのもある。酢を入れて「南蛮漬け」のような味付けにする場合もある。味付けは家庭によって千差万別だ。

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 で、うちの母ちゃん、この「カツオの揚げ浸し」を作るのがやたらうまいのだ。というか、ぼくは母のつくる揚げ浸しをうまいと感じるように育てられてきたと言ったほうがいいかな。とにかく小さい時から揚げ浸しを食べ続けてきた。高校生の頃は「またかよ…」と思わないでもなかったけれど、近年、揚げ浸し熱がぶり返しつつあり、食いたくなると「母ちゃんカツオもらってきたがら父ちゃんと食いなー」と実家に持っていく。すると、「あら、いつもすみませんねぇ。余ったやつは揚げ浸しでいいのげー?」なんて返答がくる。これが真の狙いだ。クックック。

 カツオという魚は足がはやい。スーパーで買った場合、刺身で食えるのはその日だけ。水揚げ当日に買ってきたという場合でも、まあ食べごろは二日間だろう。たとえば一尾まるごともらってきたなんて場合は、到底刺身だけでは食べきれないので、刺身以外に保存の効く調理法を確立しておく必要がある。シンプルに焼いて食い、それを浸して食べ、揚げて食べて、またそれを浸して食する。あるいは煮魚にして楽しむこともあるし、オイル漬けにしてツナとしてほかの料理に加えたり。水揚げ量がそれなりにあり、旬の時期にはありふれた食材になるがゆえに、こうして多様な調理法が確立したわけだ。

 これら「ドメスティックカツオ料理」は、あまりにも日常に入り込みすぎて、お土産にもならなければ飲食店のメインディッシュにもならない。よその自治体なら、そういう日常の料理でもしっかり真空パックして、おしゃれなパッケージをつけて、ちょいと値段を高めに設定して販売しそうなものだけど、そういう商品は、我が地元ではほとんど目にしない。いや、おそらく都会のコンサルは何度も提案しているのだろうけれど、地元のメーカーに響かないのだろう。カツオの加工品といえば、あったとしても漁連とか漁協とかが作るやけに簡素なパッケージの「煮付け」ぐらいしかなく、それらはだいたいスーパーで売られている。しかも500円もしない。

 一方で、カツオの「刺身」は飲食店や居酒屋で大人気だ。刺身が人気すぎて家庭料理は注目されず、それを「高級土産」や「目玉料理」として提供しようという発想が生まれなかったのかもしれない。ここ最近では、資源量の減少などの問題もあるし、そもそも加工に回せるほど出回っていないという事情もあるのだろうか。とにかく飲食店のメニューには、ぼくの大好きな「カツオの揚げ浸し」はほとんどない(あったとしても「お通し」)。つまり、県外からやってくる観光客は、小名浜最強の家庭料理「カツオの揚げ浸し」をなかなか食べられないというわけだ!

 いやあ、商売下手というかなんというか。でも思うのだ。「すげーうまいのに、存在が当たり前すぎて商品化されず、ただ、日常的な暮らしの中においてのみ根強く食されていく」という食べ物は全国各地にあって、そういうものこそ「尊い」んじゃないかって。飲食店にもない。お土産屋にも売ってない。でも、一般の家庭に入ればふつうに食べられてる。そういうものって、あるよね。

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顔の見える関係、だけど

 そのように暮らしに根付いているものだからこそ、カツオを食うといろいろな人たちの顔が思い浮かぶ。とりあえずうちの母ちゃん。行きつけの魚屋の若女将、港でよく見かける仲買の社長さんや、演歌歌手みたいな風貌のトラック運転手のおっちゃんたち。にこやかに水揚げを見守ってる船主の若旦那。ちょっと人相悪そうだけど仕事っぷりのいい船員のお兄様方。水揚げ作業のおこぼれにあずかろうとするカモメちゃんたち。こうして顔が見えたり、港の風景が思い浮かぶからこそ、カツオを食うとはひときわうまいと感じられるのだと思う。これこそ地方ならではの豊かさだ。

 魚ばかりではない。地元に戻ってきてからというもの、マルシェイベントや朝市、農産物の直売所で買う機会が増えたし、イベントで知り合った生産者さんのところの畑に買いに行くこともある。もちろん、日常的に買い物をするのは地元のスーパーだけど、直で購入できるチャンネルがしっかりあるからこそ生産者の顔や風景が思い浮かぶのだし、そこには、完全に規格化され、国際基準の衛生設備が整えられた工場で作られる商品への安心とはまた違った意味での安心がある。生産者の顔や姿勢を見て言葉を交わし、こだわりや思いを聞いたうえで「自分で選んでいる」という実感ゆえの安心だ。

 思えば、東京に住んでいた頃、そんなふうに食品を買ってはいなかった。たしかに商品は豊富に並んでいる。うまいもの、安価なもの、高級なもの、こだわりの逸品と選択肢は豊富だ。ところが「顔」が思い浮かばない。顔は写真で確認できても「風景」が連想できない。そこでどんな風が吹き、どんな匂いがして、どんな声や音が聞こえてくるかも、わからない。

 だから、その土地で食うというのは、五感をすべて総動員して、その風景や歴史を丸ごと食うということでもある。だからうまいんだ。全国の「道の駅」に人が集い、生産者から「直」で買える通販サイトが業績を伸ばしているのも、食材を通じて、顔や風景が見え、こだわりが感じられるからだろう。その土地と直接つながれること。それこそがローカルの価値だ。

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 だけどなあ、なんだか、それだけじゃないよなって気もする。生産者の顔が見える。海や畑や山や川が目に浮かぶ。そこで日々色とりどりの野菜や果物が作られ、それを直に味わえる。それはたしかに地方の魅力ではある。間違いない。だけど…とも思うのだ。地方の食の魅力って、もっと圧倒的な物量、つまりなんというか、ドカーンとものを作り、ズダダダっと収穫して、ドンとものをつくり、バーンと全国に販売するというような、「大量生産」という領域に踏み込んだところにもあるんじゃないか。それこそ地方なんじゃないか、という気もするのだ。

地方が生み出す物量

 ぼくの暮らす福島県いわき市から北西に向かって1時間ほど車を走らせ、阿武隈のなだらかな山あいを抜けたところに、須賀川という市がある。人口7万人。古くは奥州屈指の宿場町として栄えたまちだ。「特撮の神様」こと円谷英二の生誕地であることから、近年は「ウルトラマンのふるさと」として町おこしも行われているのだが、この須賀川市、じつは日本有数の「キュウリの町」でもある。

 福島県は、キュウリ、とりわけ「夏秋キュウリ」の県別生産量日本一を誇り、この須賀川市と、そこから北にある伊達市が、毎年のように市町村別生産量で全国1位2位を競い合っている。この2つの市だけで1年間に約1万2千トンのキュウリを生産しているそうだ。1万2千トンって言われても…という人が多いだろうからちょっと計算してみると、キュウリはだいたい1本で100グラムくらいらしい。ということは、1キロのキュウリで10本、10キロで100本、100キロで1000本だ。この計算でいくと、1万2千トンなら……い、1億2千万本。すげえ。国民ひとりに1本ずつ行き渡るじゃん!

 ちなみに、「冬春キュウリ」の生産量日本一は宮崎県だそうだ。宮崎キュウリの栽培方法は、かの有名な「促成栽培」。教科書で習った、あれだ。ビニールハウスで太陽に当て、冬の時期でも切らさず出荷される。一方、福島県のキュウリの多くは露地栽培。旬の時期に、首都圏をはじめ全国に向けてドカッと出荷される。この時期に首都圏で流通するキュウリは、高い確率で福島県産だ。スーパーのキュウリも、八百屋のキュウリも、あの全国チェーンの定食屋のサラダについてくるキュウリも福島県産の可能性が高い。首都圏民はかなり高い確率で福島のキュウリを食べているはずだ。

 もちろん、キュウリは全国各地で育てられているから、各地でこだわりの無農薬キュウリとかを買うことはできる。生産者の顔を見て、その土地の風景を想像しながら食べるキュウリも最高にうまい。一方、こちらのキュウリは圧倒的な「物量」によって成り立つ。生産者の顔はさほど思い浮かばない。多くの消費者は、店頭に並ぶキュウリが須賀川で作られていることも、須賀川がどんな町かも、おそらくは知らないはずだ。けれど、その「顔の見えなさ」によってぼくたちの暮らしは成り立っている。それを支えている生産者がいる。これもまた「地方らしさ」であるはずだ。

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 福島県で言えば、そうだなあ、「モモ」もそうかもしれない。夏の時期、福島市や伊達市にある選果場や果樹園に行ってみたらいい。ものすごい量のモモが取引されているのをその目で見ることができるだろう。

 以前、福島県有数のモモの産地である福島市飯坂町に行ったとき、家族にモモを買って行ったら喜ばれるだろうと思い立って、ある果樹園に入った。そこで「モモ、3000円分ください」と声をかけた。だいたい1個150円と考え、20個くらいあればちょうどいいなと思って3000円にした。果樹園の旦那さんが「贈答用じゃないね?」と言うので、「そうです。家庭用です」と答えた。倉庫の中から出てきた旦那さんを見て驚いた。ケースに入ったモモは、軽く50個は下らない。しまった! 物価が完全に違う!

 注文時に旦那さんが聞いてきた「贈答用じゃないね?」という質問が「規格から外れてしまったものでいいね?」ということを意味していることくらい、ぼくにもわかる。それでも1個150円、せめて100円くらいはするだろうと思ったわけだが、全然そんなんじゃなかった。ぼくはあまりに生ぬるすぎたのだ。この圧、倒、的、な、物量。これこそ生産地の真価なのだ。ぼくたちがスーパーで見かけるモモなんて、福島で生産されるモモの、ほんのほんの一部にすぎない。

 その夏、ぼくと家族はとにかくモモを食いまくった。冷やして食べるだけでは腐らせてしまうので、サラダにも入れて、ジュースにもして、ヨーグルトと混ぜてアイスにもして、とにかく食べまくった。もちろんきゅうりキュウリも食いまくる。味噌つけて、しそ昆布と混ぜ込んで、上海で食べまくった「蒜泥黄瓜」(キュウリのニンニク和え)で。もちろんカツオも頻繁に食べる。で、思ったのだ。ああ、ぼくたちにとってのカツオが、福島の人たちにとってのモモであり、須賀川の人たちにとってのキュウリなんだなあと。

 それは「旬を背負う」ということだ。旬とは、その食材が一番光り輝く時。大量に、安価で、そして栄養価も最大限に引き出されているものが出回る。産地に暮らす人は、旬の時期にある特定の食材を多く食べる。それは、「生産者が作ったものをおいしいものをおいしくいただく」という行為でありながら、同時に生産者を「食い支えている」とも言えるはずだ。ぼくらが思い切り食うことで、生産者が作る膨大な量の食品の流通を支えるのだ。そう思うと、なんだか、前よりも思い切ってカツオやモモやキュウリを食べることができそうな気がする。そうなのだ。ぼくたちは、生産者も地域も産業も、食べまくることで支えている。その相互の関係を感じられるのも地方の魅力かもしれない。

 そしてその豊かさは「供給責任」というものと表裏の関係にある。それだけの巨大産地になれば数億、数十億のお金が動く。出荷をあてにしている販売店や飲食店も数多くあるから、商品を切らすわけにはいかない。先祖から引き継いだ土地を守り、しっかりと作物を育てあげ、効率よく出荷する責任が生産者には課せられているわけだ。生産者は、豊かさと厳しさ、その両方を背負っている。いい面ばかりを見ずに、過酷なところも見ていかないといけないな、とも思う。

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かまぼこといわき

 地方では、一次産業ばかりでなく「食品加工業」も盛んだ。たとえば、ぼくの暮らすいわき市は長く「板かまぼこ」の生産量日本一だった。一言で「板かまぼこ」と言っても、いわきで作られているやつは、たとえば神奈川県の小田原で作られているような高級なやつじゃなくて、透明なフィルムに包まれてて、スーパーで1本100円とか200円くらいで並んでいるやつである。正式には「リテーナ整形かまぼこ」という。いわき市は、震災前までこのリテーナ整形かまぼこの生産量が日本一だった。

 いわきのかまぼこも、その多くがスーパーマーケットで販売される。もちろん、お土産ショップで販売されている商品や、物産展などに参加するメーカーもあることはあるけど、あくまで商売の軸はBtoBだ。大手メーカーの依頼を受けて製造を請け負うOEM生産も多い。

 多くのかまぼこメーカーにとって、お客様とは「消費者」というより、スーパーや食品市場のバイヤーたちだった。だから、いわきのかまぼこメーカーのほとんどは店舗を持っていない。工場の事務所で販売はするけど買いに来るのは本当に地元の人だけで、ぼくが勤めたメーカーも、工場の敷地内に直売スペースはあるものの独立したお店はなかった。

 そういう状況なので、生産量日本一ということは市民にも伝わっていない。普通、生産量が日本一なら、お祭りしたりイベントしたり、「かまぼこの駅」みたいなのを作って展開しそうなものだけれど、そういうのもない。で、当のいわき市民の多くは「いわきには名物がない」とか思っている。豊かであるがゆえに、発想が乏しくなってしまうということだ。メーカー側はモノ言わず、粛々と、黙々と、市民にすら知られることなく生産を続けてきた。供給責任を果たしていくには製造に特化し、徹底して生産効率を上げなければいけない。原料価格も抑え、手数をかけずに安全と味を両立させる必要もある。そうして年間数十万本、数百万本というかまぼこを、いわきのメーカーは県外に送り出してきたわけだ。地域のことなんて構っている暇はなかったのかもしれない。

 正直、なんだよいわきのメーカー、全然顔が見えないな。ぜんぶ機械が作るだなんて冷たいなあ、手作業のほうがよくない? 一次産業はちゃんと顔が見えるのに生産者の顔が見えないよ。もっと高品質なものを出すべきだ、とか思う人もいると思う。かつてはぼくもそうだった。いわきのかまぼこはもっとブランド化して、高品質なものを丁寧に販売していくようなビジネスモデルに転換すべきだ、とずっと感じていた。

 ぼくたちは「地方と食」について考えるとき、わかりやすくイメージしやすい「顔の見える生産者」のような存在をついつい思い浮かべてしまう。しっかりとブランディングされ、付加価値がつけられ、おしゃれで健康的に作られた加工品を「良いもの」だと思ってしまう。けれど、そういう過剰にドーピングされた地域産品ばかり見てしまい、「物言わぬ製造メーカー」のような存在を忘れていなかっただろうか。「安価な材料でできる限り質の高いものを安定的に、且つ大量に作る」というのは大変な技術とノウハウが必要である。「熟練した職人の手作業」ばかりが物産を作っていくわけではない。顔の見えないところにいる作り手たちのことを、もう少しポジティブに伝えていくことも必要じゃないかとも思うのだ。ぼくはかつていわきのかまぼこメーカーで広報兼営業として働いていた時期がある。だからこそ、こうした「顔の見えない」生産者のことも、忘れずにいたいと思う。

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 ぼくたちを取り巻く食の環境をわかりやすく区分けしてみると、片一方には、その土地の風景と結びつき、こだわりの製法で作られたスーパーローカルな食品がある。無農薬でオーガニックな野菜。神経締めされた魚たち。1個数千円する贈答用の果物。伝統製法で仕込まれた地酒など。どれも健康的で、ちょいと価格は高めで品質も高い。そんな商品、ライフスタイル。

 そしてもう片方には、極度に効率化・規格化されたグローバルフードがある。値段は安いけれどジャンキーで、健康のことを考えたら毎日はちょっと…と思いがちな食品たちだ。世界的チェーンのハンバーガー。全国チェーンの丼やラーメン。世界的ブランドのお菓子や一部上場企業の冷凍食品。安価で大量に流通していて、誰もが気軽に食べられる、そういうものがある。

 ライターの速水健朗さんは、著書『フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人』(2013年、朝日新書)のなかで、食をめぐり「左」と「右」に二極化する状況を政治や経済とも結びつけてわかりやすく整理した。本書を読んで自分をカテゴライズすれば、生産者との顔が見える関係や、直でのやりとりを良しとするぼくは「左寄り」になるだろうか。もちろん、速水さんは敢えて強引に「フード左翼」と「フード右翼」に分けているはずだ。本書を読むと、そう簡単に割り切れるものではないということもよくわかる。

 地方は、表向きには「左」を目指しているように見える。できるだけ品質の高い商品をつくり、付加価値をつけ、ブランディングをしながら都市部に売る。またあるいは、インバウンド需要を期待して国外にアプローチする。こうした売り方は、地方都市の重要な活路だとは思う。ただ、やはり地方の力とは、そればかりではない。ぼくは、その左と右の間に、いや、その奥に、いわば「ローカル大量生産品」の領域が広がっていると思う。地域に根ざし、産業を、雇用をつくり、旬を通じて地域の魅力を伝えつつも、黙々と都市部に供給されるような商品。たとえば、旬の時期に大量に生産される農産物。あるいは、いわきのかまぼこ。それらはみな、時に右に寄り、時に左に傾き、つかみどころがない。しかしだからこそぼくたちは、間にある食を知ることを通じて、左と右の間、地方と都市の間、ローカルとグローバルの間を行き来する強さみたいなものをおいしく学ぶことができると思うのだ。そして、そのような商品が、やっぱり地方らしいなとぼくは思う。 

カニカマをめぐる旅

 せっかくなので、もうひとつ、かまぼこの話をして本稿を閉じよう。

 福島県の隣、新潟県が「かまぼこ生産量日本一」の県であることを知っている人はどれほどいるだろうか(あんまりいないだろうな)。新潟県では、練り製品が幅広く作られていて、特に「カニカマ」の生産量が多いことで知られている。

 業界を牽引する企業が、新潟市にある「一正蒲鉾」だ。看板商品は「オホーツク」や「サラダスティック」。いやあ懐かしい。皆さんも一度は食べたことがあるかもしれない。小さくて細長い長方形で、透明なフィルムに包まれてて、プリッと指で押し出して口で吸って食べるアレ。同社はこのカニカマで業績を伸ばし、その後、中国などにも進出している。ここ最近では話題になったのは、2016年に発売された「うなる美味しさ うな次郎」だ。この商品、一言で言えば「うなぎ蒲焼風練りもの」なのだが、本当にうなぎっぽい、いやこれはうなぎそのものだとネットを中心に話題になった。ウェブサイトによると、2020年からは、うなぎエキス不使用の「うなぎフリー」になったそうで、では果たしてうなぎとは? という感じがしないこともないけど、カニカマがもたらした「技術革新」はものすごいものがあり、ぼくは、こういう安価な大量生産品に、日本の食文化の豊かさ、技術の高さを感じてしまう。

 ついでにカニカマについて調べてみると、カニカマは1973年に能登半島の七尾で生まれたという記述を見つけた。福井県七尾市の練り物製造会社「スギヨ」による「かにあし」という商品が世界初のカニカマだそうだ。株式会社スギヨの檜木正博さんによる論文「カニカマの誕生と成長」に、そう書いてあった(こんな論文があるのがすごい)。当時スギヨは人工クラゲを作ろうとしていたのだが、たまたまできた失敗作がカニ足っぽい食感だと気づき、そこから着想を得たのだという。スギヨはそこからリアルさを追求したカニカマを製造するようになり、根強い人気を誇る同社の看板商品「香り箱」は、本当にズワイガニの足に見える。ちなみに、関西では「カニちゃいまっせ」という商品名で販売されているそうだ。マジか!

 そうして独自の発展を見せた日本のカニカマは、健康意識が高まった欧米を中心に海外にも輸出されるようになった。海外では「surimi」といえばカニカマを指す。特に日本食ブームが大流行した欧州で高い人気を誇り、カニカマ消費量世界1位はフランス、2位がスペイン。生産量世界1位はリトアニアだという。リトアニアはバルト海に面し、すり身の原料となるスケソウダラの水揚げ基地になっている。フランスやスペインからも、そう遠くない。なるほど、リトアニアがカニカマ世界最大の生産基地になっているのは納得がいく。つまりリトアニアは、ヨーロッパの新潟だったわけだ!

 いやあ、ここまで9000字。食べ物のことばかり考えてきてしまった。あなたもお腹いっぱいになってきただろうか。そろそろ結論に行こう。

 ぼくたちは今回、カツオやらキュウリ、かまぼこやらカニカマやら、いろいろ脱線しながら地方の食を考えてきた。そこで感じたのは、ぼくたちがイメージするグローバルと、ぼくたちがイメージするローカルの間に、なんというか、とっても豊かな「間のローカル」みたいなものがあるのではないか、ということだ。

 ぼくたちは「地方」というと、海と山と川とに囲まれた、自然が美しい、気のいいじいちゃんやばあちゃんがのほほんと暮らしてる、というようなステレオタイプな地域を思い浮かべがちだ。そして、それと対置する形で、都合よく「都市」や「都会」や「グローバル」を考えてしまう。そうして二極化させて考えたほうがわかりやすいからだろう。でも、実際には、完璧に「どちらか」に分けられるものなんてなくて、その間で、割り切れない複雑さを引き受けて、うじうじと考え続けるほかないよな、と思うのだ。

 その「間で考え続ける」というとき、大きな力になってくれるのが食だ。自分で食べるものだからこそ、自分の感じる「うまい!」の正体を探ろうという探究心、好奇心を生み出してくれるし、どうやって作られ、どうやっていま目の前に並んでいるのかが知りたくなる。そうして学んだり、考えたり、食べたりしているうちに、自分にとってちょうどいい「間のローカル」が立ち現れるのだ。なにより、うまいものを食っているとき、人は幸せである。つまり、食を通じてローカルを考えることは幸せな営みになる。うじうじ考えることが、とても豊かな時間になるということだ。

 そしてもうひとつ。「地方」は、「間で考え続ける」のにふさわしい場所だと思う。生産と消費、その両方が近距離にあるからだ。農場があり、畑があり、港があって加工場があって、郊外には大規模な食品工場や流通センターがある。直売所もスーパーも、ちょっと移動すればショッピングモールもある。そして何より「旬」がある。生産と消費が当たり前に、そして剥き出しに存在する地方だからこそ、ぼくたちはより強い実感を持って「間のローカル」について考えることができる。

 いまはコロナ禍で人の移動が制限されやすい時期だ。ワクチンが行き渡ったら、どうぞ都市部に暮らす皆さん、地方に足を運んでみてほしい。そして五感を総動員して「旬」を味わってみてほしい。個人的なオススメは工場見学。食品製造という、ぼくたちの日常から見えにくくなっていた景色を見て、味わい、うじうじと思考を巡らせるとき、そこに「間のローカル」が立ち現れる。ぜひ、いわきにも足を伸ばしてみてほしい。冷たく冷やしたキュウリにかじりつき、冷たくしたキュウリにかじりつき、冷酒を飲み、カツオの揚げ浸しを豪快に食らいながら、うじうじと考えようではないか!

写真/小松理虔


つづく

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著者プロフィール

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小松理虔/こまつりけん 1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。ヘキレキ舎代表。オルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、いわき海洋調べ隊「うみラボ」では、有志とともに定期的に福島第一原発沖の海洋調査を開催。そのほか、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。『新復興論』(ゲンロン叢書)で第45回大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著本に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。

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