見出し画像

5:過去から未来へ、ポストパンクが「バトン」をつないだ——『教養としてのパンク・ロック』第31回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第4章:パンクが死んでも、パンクスは死なない

5:過去から未来へ、ポストパンクが「バトン」をつないだ

「ネオ」ゴシック(Gothic)

 2トーンによって引き起こされたスカ・リヴァイヴァル・ブームの「2トーン以外のバンド」は、ときに日本で「ネオ・スカ」と呼ばれることがある。どうやら日本人は、「Neo」という接頭語がとても好きな様子なのだ。だからポール・ウェラー率いるザ・ジャムが牽引したモッド・リヴァイヴァルは、日本では「ネオ・モッズ」と総称された。そしてじつのところ、ニューウェイヴ/ポストパンクの時代というのは、日本人がことのほか「ネオ」を付与したくなる動きが多かったことも事実だ。

 たとえば、ネオ・ロカビリー(英語では Rockabilly Revival 。ストレイ・キャッツ、ロバート・ゴードンなど)、ネオ・サイケ(これは英語でも Neo-Psychedeliaとして認識されている。エコー&ザ・バニーメン、ザ・ドリーム・シンジケートなど)といったような「ネオ」系のいろいろが、80年代を通じて各種拡大していった。

 そして、言うなればこれも「ネオ」ゴシック(Gothic)だった(誰もそうは呼ばなかったが)。でも本当は「ネオ・ネオ・ゴシック」だったのかもしれない。21世紀の今日にまで連綿と続く「黒い伏流水」ゴス(Goth)・サブカルチャーの出発点となったのも、ポストパンクの時代だった。ゴシック・ロック・バンドたちの活躍が口火を切った。

「二重サンプリング」

 ゴシックの略称である「ゴス」文化が80年代に花開いたのは、歴史上時折起こる「二重サンプリング」の結果だった。ゴス・バンドたちは、18世紀後半から19世紀にかけておもにイギリスで、次にアメリカでも流行した「ゴシック」小説に大きな影響を受けていたのだが、しかしこれらの小説も、そもそもは「ネタありき」のリヴァイヴァルものと見なせた。つまり12世紀から15世紀の「ゴート人風の」文化とされた「オリジナル」のゴシック建築や美術の「こわい」ようなタッチをサンプリングしたものが、18世紀のゴシック・リヴァイヴァルだったからだ。たとえばそれは復古調の建築様式であり、ホレス・ウォルポールの小説『オトラント城奇譚』だった。そしてこれに(まるでパンク・ブームのように)続いていく一連のゴシック小説群、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』やブラム・ストーカー『ドラキュラ』、海を渡ったアメリカからエドガー・アラン・ポー各種、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』……などなどが、つまり第一次の「ネオ」ゴシック・ブームから生まれた。そしてこれらの諸作から醸し出される怪奇にしてダークな世界観やテイストを「ふたたびサンプリング」した上で、ロック音楽として表現したのがポストパンク時代に花開いたゴシック・ロックだったわけだ。だから、ちょっとばかり「ゴス」は年季が入っていた。ざっと見て800年以上はあろうかという、ヨーロッパ史における暗黒趣味の反照がロックのサブジャンルへとつながってしまったのが、ここだった。

ゴス人気を決定づけたバンド

 ゴシック・ロックの音楽面、そしてメイクや服装などのスタイル面で先駆けとなったのは、スージー・スーを擁するスージー&ザ・バンシーズだった。ザ・ダムドのヴォーカリスト、デイヴ・ヴァニアンの白塗り吸血鬼メイク、そして音楽世界も元祖ゴスのひとつと目されている。そんなヴァニアンのヴォーカル・スタイルに大きな影響を与えたのは、元ウォーカー・ブラザーズのスコット・ウォーカーだったことは有名だ。スコットの歌唱法の一部路線は、確実にゴスの起点となっている(ボウイもスコット・ウォーカーのファンだった)。

 初期パンク組のあとには、ジョイ・ディヴィジョンの「真っ暗な」後ろ向き歌世界が大いなる基盤となった。そこに映画『キンキーブーツ』の舞台にもなった「靴の街」ノーサンプトン出身のバウハウスが続く。彼らの名は、もちろんドイツに1919年代から33年まで存在したアート・スクールおよび芸術潮流からいただいたものだ。80年にアルバム・デビューしたバウハウスは、ボウイの「ジギー・スターダスト」のカヴァー(82年)などでも気勢を上げた。初期キリング・ジョークや、海賊化する前のアダム・アントも、ゴシック・ロックのオリジネイターに名を連ねている。これらの面々が、ロカビリーやガレージ・ロックの「一部領域」からもエキスを吸い上げつつ、ゴスらしい音楽的体裁を整えていった。レーベルとしては、ファクトリーはもちろん、4ADの存在も大きかった。本体ベガーズ・バンケットの前にバウハウスをリリースしたのが4ADだったし、デッド・カン・ダンスやコクトー・ツインズもリリースして、よりスケールの大きい耽美寄りのゴシック路線を確立していった。

 そしてなにより、ゴス人気を決定づけたバンドが、ザ・キュアーだった。アメリカでも大きな成功をおさめた彼らによって、90年以降は、全米津々浦々のショッピング・モールのどこにでも「ゴス・ファッション」を売る小さなチェーン・ストアが展開されるまでになる。学校内ではあまり浮かばれないような青白い顔色のティーンがそこに集っては、目の周りを分厚く黒く塗り、唇も黒く、ときには(キュアーのロバート・スミスのように)真紅に塗って、髪を逆立てては黒い服を着るようになる。そしてこうした地合いのなかで、近縁種としての新ジャンル「エモ(=Emo 英語では「イモ」と発音。エモーショナルなパンクとの意味から)」も大きく伸長していく。ハードコアの変異種がエモなのだが、社会的にはゴスと混同されることも多かった(というネタが米人気コメディ・アニメ『サウスパーク』で展開されたこともある)。このエモがゼロ年代の米インディー界で旋風を巻き起こし、そこからフォール・アウト・ボーイやマイ・ケミカル・ロマンスなど、全米チャートを賑わす人気バンドが次々と登場してくることになる。

「インダストリアル」

  ゴス同様、パンク以前から世にあった音楽や文化が、ポストパンクの時代に「活性化」する例はいくつかあった。各種の前衛音楽、実験的音楽にその例が見られたのだが、なかでも最大のものが「インダストリアル」だった。77年、スロッビング・グリッスル(Throbbing Gristle=どくどくと脈打つ男根)のデビュー・アルバム『ザ・セカンド・アニュアル・レポート』――「第2回年次報告書」という意味だ――は、自らのレーベルである「インダストリアル・レコード」からのリリースだった。これが嚆矢となって生まれたジャンル名だと言われている。

 Industrial とは工業もしくは産業という意味の形容詞だ。たとえば日本語で言うところの「産業革命」は、英語では Industrial Revolution となる。だからインダストリアル音楽とは、その名のとおり、工場騒音のようなノイズを含む、さまざまな意味で非音楽的な音源の数々をコラージュすることなどによって楽曲を成していくものだ。現代音楽の一形態、ミュージック・コンクレート(具体音楽)の軽音楽版、ポップ音楽近縁種版とも言える。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのセカンド・アルバム『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』から、つまりはジョン・ケイル、それからもちろんジョン・ケージあたりの流れを汲むものだったと言えようか。のちに記す、日本の「ノイズ」音楽家への影響も大きかった。

 キャバレー・ヴォルテールもインダストリアル系統だった。73年にシェフィールドで結成されたこのグループの名称は、もちろんスイスのチューリッヒにあった伝説的キャバレーにちなんでいる。あの「ダダイズム」の、とくにチューリッヒ・ダダの発祥地として有名なキャバレー・ヴォルテールだ。1916年、トリスタン・ツァラの命名および宣言から幕を開けたとされるダダは、反戦運動であり反芸術抗議であり、無意味の爆発でもあり――すでに述べたとおり、パンク・ロックの成立そのものにも大きく影響していた。

「ダダもパンクもあるていどは抑圧を解放する悪ふざけであり、また、あるていどはやけくそな否定であった。『ぼくは自分の作品でもって世間に世の中が醜悪で、病んでいて、不誠実だということを示そうとした』とダダイストのゲオルゲ・グロッスが書いていたが、ジョニー・ロットンもそれに非常に似通ったことをしようとした」

「ダダイストもパンクも自分でつかむことのできる自由を虚無的叫び声でもって確認した。ぼくらが受けいれるようにと言われている世の中はまやかしのものであるというぼくらの確信以外には何も当てになるものはないというわけだ」

『ロックの「新しい波」 パンクからネオ・ダダまで』より

 のちにキャバレー・ヴォルテールはエレクトロニック音楽に接近していくのだが、これも80年代中盤のインダストリアル系統には少なくない動きだった。ここからインダストリアルは、変種のダンス音楽(エレクトロニック・ボディ・ミュージックなど)にも接近していく。こうした電子音楽+インダストリアルに、ギャング・オブ・フォー的なバンド・サウンドをミックスしたような音楽性を持つ存在として、76年結成のディス・ヒートもいた。

「ノー・ウェイヴ(No Wave)」

 ここで目をアメリカに転じてみよう。イギリスのように「わかりやすい」パンク・ロック・ブームがなかったせいで、やはり「わかりやすい」ポストパンク興隆もアメリカにはなかった。とはいえ、ご存じあのディーヴォがポストパンクでない、わけがない。「Devolution=退化」を合言葉に、あらかじめ個性および人間性をも消去したバンド・メンバーのしつらえは、インダストリアル音楽からの影響を感じさせた。またディーヴォと同じオハイオ州出身のペル・ウブは、自らの音楽を「インダストリアル・フォーク」と呼んでいた。両者ともに「イギリスでの動き」に感応していた。

 そしてアメリカで忘れてはならないのは、なんと言っても「ノー・ウェイヴ(No Wave)」だ。実験性に満ちた、しかし(きわめて始原的な)音楽的喜びにも満ちた「前衛的」音楽シーンが、ニューヨーク・パンク登場直後の同地で勃興しようとしていた。これを最初にまとめたコンピレーション・アルバムが、ブライアン・イーノのプロデュースによる『ノー・ニューヨーク』(78年)だった。セールス的には惨敗だったが、ここに収録された4アーティストを指して「ノー・ウェイヴ」なるジャンル名が生まれた。参加アーティストは、ジェームス・チャンス率いるザ・コントーションズ、リディア・ランチのティーンエイジ・ジーザス&ザ・ジャークス、マーズ、そしてアート・リンゼイとイクエ・モリを要するDNAら4組だった。とくにチャンスの、悶え叫ぶ豚の声のようなサックスのインプロビゼーションが、ノー・ウェイヴの象徴ともなった。ラウンジ・リザーズもこの『ノー・ニューヨーク』の延長線上に誕生した。

 こうした前衛主体のアメリカ版ポストパンク運動とでも呼べそうなノー・ウェイヴは、ニューヨークのアート・シーンの先端――この時期売り出し中だったジャン=ミシェル・バスキアやキース・ヘリングら、グラフィティからポップ・アート界隈の俊英――とも共振しながら、一連の流れを加速させていく。この正統直下に、ソニック・ユースもいた。ハードコア・パンクとアート・ロック、前衛音楽が交差する地点に鳴り響いたのがノー・ウェイヴであり、これを媒介として「パンク・ロック周辺の音楽文化のハイブリッド種」となることに成功したのが、90年代初頭のオルタナティヴ・ロック・ブーム時に実績を残したバンド群の一派閥だったということだ。

 また発展期のヒップホップに強く反応したのも、ニューヨークにおけるパンク周辺シーン、具体的にはハードコアとノー・ウェイヴだった。その見事なる結果のひとつが、ビースティ・ボーイズの86年の特大ヒットだった。元々はハードコア・バンドだった彼らがラップを駆使、黒人ラッパーが主流だったシーンに飛び込んで激震させた。90年代以降における人種や民族を問わない汎アメリカ的な「ラップ音楽のメインストリーム化」に大いなる先鞭をつけたのは、この3人組の、このときの成功だった。ストリート・ブランドの覇者となったシュプリームも、このエリアから登場してきたものだ。

「ポストディスコ」

 ディスコ・ブーム後のダンス音楽シーン、いわゆる「ポストディスコ」にもポストパンクが直接影響した。99レコーズから作品をリリースしたESG、リキッド・リキッドといったグループが、ダンス・パンク、アヴァン・ファンクなどの名で呼ばれることになる「手づくりの」新しいダンス音楽を発信していく。一方で『ノー・ニューヨーク』勢の受け皿となったZEレコーズの、いわゆる「ミュータント・ディスコ」ものも、アンダーグラウンドと一部ディスコの両方で人気を博した。ZEからはアート・リンゼイ、ジェームス・チャンス&ザ・コントーションズ、ジェームス・ホワイト&ザ・ブラックス、スーサイド、キッド・クレオール&ザ・ココナッツ、ウォズ(ノット・ウォズ)、そしてリジー・メルシエ・デクルーらが作品を発表した。これらのシーンのすぐ近くには、マドンナもいた。彼女の83年のブレイクは、文字通りアメリカの、いや世界のポップ音楽史を変えた。

 西海岸では、かつてビート族やヒッピーの本拠地だったサンフランシスコが「ポストパンクのようなもの」の拠点のひとつとなった。なにしろパンク勃興はるか以前の69年から、ザ・レジデンツがいた土地柄だ。『ゲゲゲの鬼太郎』の目玉おやじだと日本人なら誰もが思う、巨大眼球のマスクで頭部全体を隠した上にトップハットを乗せてタキシード着用というスタイルで全員が決めた、諧謔味に満ちたアヴァン・ポップ・バンドの彼らとクロームやフリッパー、タキシードムーンらが無理なく併存できるところに、かの街のアンダーグラウンド・シーンの多様性と奥行きがあった。そのほか、ロサンゼルスにはミニットメンがいた。ボストンにはミッション・オブ・バーマがいた。ニューヨークのトーキング・ヘッズもポストパンクの潮流のなかで大きく飛躍していった。

【今週は最大盛り!の16曲】

Stray Cats - Runaway Boys [Top Of The Pops 1980]

ネオロカ一番星。この曲がリリースされたとき、音とファッションから僕は、ロンドン発の最新バンドだと完全に誤解した。彼ら以降、80年代にロカビリーは大復活、サイコビリーなどの亜種はもちろん、ゴスにまで大きな影響を与えつつ発展していく。

Siouxsie And The Banshees - Spellbound (Official Music Video)

ゴスの女王ことスージー・スー率いるザ・バンシーズの初期代表曲のひとつ。この歌詞、この声、そしてこのメイク……といった呪術性もろもろが後進に与えた影響は絶大。元ピストルズ親衛隊の一員だった彼女が真価を発揮したのも80年代だった。

BAUHAUS on Riverside 1982

そして天下一品、天上天下なんとやら、漢4匹「ゴス」の看板を高々と掲げたバウハウスの艶姿スタジオ・ライヴがこちら。リップシンクにもかかわらずこの熱意。氷室京介にも絶大な影響を与えた(はず)のピーター・マーフィーの「顔つきと動き」をお見逃しなく。「キック・イン・ジ・アイ」と代表曲「ベラ・ルゴシズ・デッド」の二連発。

Cocteau Twins- Pandora Lost TV Appearance (Restored)

エリザベス・フレイザーの歌声は言うなれば白魔術、あるいは妖精系。ゴスとシューゲイザー的耽美を接続して、いわゆるドリーム・ポップの先駆けともなったのがコクトー・ツインズだった。初期4ADの牽引役として人気を得たバンドの84年曲。

The Cure - Hanging Garden

「首吊りの庭」という、まるで横溝正史なタイトルのザ・キュアーの「陰気系」人気曲。ゴスの決定打と呼ばれる4枚目のアルバム『ポルノグラフィー』(82年)に収録。まるで締め殺されかけのような声で悶絶するロバート・スミスのヴォーカルと、原始の血をたぎらせるドラムが、遠くアメリカの地でもゴス地平を開闢した。

My Chemical Romance - "Welcome To The Black Parade" [Live In Mexico]

そして「ゴスと似て異なる」エモがいかに世間を席巻したのかの証拠映像がこちら。08年のメキシコ、マイ・ケミカル・ロマンスが人気曲「ウェルカム・トゥ・ブラック・パレード」を演奏すると――まずは場内大シンガロング、そして引っ張って引っ張って……テンポアップして大爆発!というひと幕。

Throbbing Gristle - Discipline

日本では「スログリ」と短縮されたスロッビング・グリッスル81年のナンバーがこちら。絶叫するジェネシス・P・オリッジと、楽曲のあらゆる要素が空中で正面衝突し続ける。これぞ「インダストリアル」なライヴ映像。

Cabaret Voltaire - Nag Nag Nag (1979)

キャブスことキャバレー・ヴォルテールもノイズ(と、ぽこぽこドラム)だ! ダンス音楽を導入して軟化する以前、ビシバシにインダストリアルだった79年曲。

Devo - Jocko Homo (Q. Are We Not Men? A: We Are Devo! Tour. 1978-1979)

初期ディーヴォのほぼテーマ曲だった「ジョコ・ホモ」を、ファンメイドのメガミックス映像で。折からのテクノポップ・ブームと共振して、日本でも江口寿史ほかの漫画に出まくるほどのカルト人気を得た(映像最後に日本公演の模様も)。

James Chance & The Contortions - Contort Yourself

このリズム――神経症的に「痙攣」するファンク――と悲鳴サックスが「ノー・ウェイヴ」の幕を開けた。そして(やはり)絶叫! 79年の第2作アルバムに収録。

DNA - Blonde Red Head (from Downtown 81)

アート・リンゼイも吠える! そして独自チューニング、ほとんどインダストリアルなノイズ音像を吐き出す物体と化したギターをかき鳴らす! 当時のNYアートシーンをとらえた映画『ダウンタウン81』からの映像。ジャン=ミシェル・バスキアもすこし登場。

The Lounge Lizards - Dutch Schultz (Berlin 1981)

一方でこんなズージャ(ジャズ)もあったのが当時のNYアンダーグラウンド。戦前スタイルのジャズにアヴァン魂を注入。サックス吹くはジム・ジャームッシュ映画に出演して人気も得たジョン・ルーリー――ということで、日本でも人気があった。

Beastie Boys - Holy Snappers

ビースティ・ボーイズが「ハードコア・パンクだった」時代の音を、(本人たち編集の)証拠映像付きで。これもひとつの「81年のNYダウンタウン」の光景。82年リリースの初EPに収録の1曲。

ESG - Moody

サウス・ブロンクス出身の99レコーズ看板バンド。ポストディスコを先導する偉大な功績を果たし、ヒップホップにもサンプリングされまくった。4姉妹が中心となっていた編成もポストパンク感高し。代表曲のひとつがこちら。

Liquid Liquid - Optimo

99のもうひとつ看板といえば、このリキッド・リキッド。数枚のEPを出しただけで休止したバンドなれど、のちのクラブ音楽に与えた影響はすさまじく大きい。この曲はDJシャドウにサンプリングされた。

KID CREOLE AND THE COCONUTS - My Male Curiosity

ZEレコーズの出世頭筆頭といえば、キッド・クレオール&ザ・ココナッツ。この映像は映画『カリブの熱い夜』(84年)のワンシーンなのだが、基本ライヴもこんな感じ。ショウアップされたオールドタイミー音楽の、エキゾチシズムあふれるエンターテイメントを展開……というところにまで、ポストパンクは伸長した。日本ではCMに起用されて、そのあとで米米クラブの元ネタとなったことでも有名。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!