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第3回 今こそ斎藤美奈子の80年代「バブル論」を|三宅香帆

光文社新書

面白くない、って言いづらい

「シンプルにあんまりおもんない」という言葉をなんだか言いづらくなっている昨今。

そんなことないですか。今回紹介する、斎藤美奈子の『文壇アイドル論』の話をする前に、少し与太話をしよう。

本好きとして昔からウォッチングし続けている対象が、ネットに数多ある「読書ブログ」。

今はなきyaplog!や、FC2ブログが勃興していた時代から、はてなブログ全盛期、そしてnoteにどんどん人が流入している2020年代前半の現在に至るまで、出版不況のなかでも本の感想をあげるブログ――読書ブログはずっと存在していた。本好きとしては、趣味の合う人を日々インターネットで探し続ける日々を過ごしているのだ。

しかし読書ブログにも、時代の空気は反映される。最近私が感じるのは、「評価の点数をつけたがらない人が多い」こと。

昔は読書ブログといえば、レビューする本に「これは★いくつ!」と、まず最初に点数をつけるのが主流だった。たとえばいつも評価の甘い人が、★3つをつけてたりするとよっぽど面白くなかったんだな!? と笑えてしまい、むしろ図書館に借りに走ったもんです(性格の悪いブログ読者でごめん)。

が、2020年代前半現在。本の感想を書くnoteで「★いくつ」と点数をつける人は、かなり少数派。もしこれを読んでいる方の中に、我こそは星をつけているぞという方がいたら私がそのブログを読みに行きたいくらい。2010年代にはまだその空気が残っていたのに、2020年代になると本に★で点数をつける文化は、どこかに消えていってしまった。

あるいは食べログの読書バージョンともいえるサービス「ブクログ」では、★をつけることが必須の仕様になっている。なのに、すべての本に★3つをつける猛者――つまり初期設定の点数から変えない人も存在する。一律★3、もはや読者としての気概まで感じてしまう

これはつまり、「感想」はやりたいけど「評価」をやりたがらない人のほうが多いということではないだろうか。たしかに素人評論家のブログが炎上した事件もあったし、評価だけをする人間がダサく映ってしまう時代なのかもしれない。食べログの点数をつけることを生きがいにしているおじさんになりたくない! という若い人の叫びも聞こえてきそう。

では「評価」に代わって何が盛り上がっているのかと言えば、今は「おすすめ」だと思う。

あくまで、他人に知ってほしいものだけを発信したい。わざわざ評価が低いことを発信して、それを好きな人に嫌な気持ちになられると困るし。★5のものだけ、他人に知ってもらえたらいいじゃん。感想をわざわざ書くんだったら、肯定だけで良くない!? 

――こうして読書ブログから★の評価が消え去ったのではないか。本の評価ごときで他人と意見の対立を起こしたくないよね。

というわけで、冒頭の文章に繋がります。そんな「評価」の文化がなくなった今。この本は★2くらいじゃない……? と呟くことは、やや躊躇ためらわれる。

評価の文化が消え去った反動なのか、「★2をつけるならば、明確にどこが悪いのかを細かく書くべきだ」という風潮も強くなっている様子。この女性の描き方はちょっと時代遅れすぎる、この学生のキャラはちょっと安直すぎる、など、明確にどの部分に問題があるのかを書いた方がいい、と。

そんな風潮もある今、「いや、どこが悪いとかじゃなくて、全体的にあんまり面白くない」という感想は、どんどん淘汰されている、というか、言いづらい! 良い悪いじゃない、面白くないことない……? と。

不幸な作家・林真理子評

思いがこもりすぎて前書きがかなり長くなったけれど、そんな時代に私は斎藤美奈子さんの本を読むと異様に安心してしまう

彼女こそ「シンプルにあんまりおもんない」を明瞭に言ってくれる文芸評論家だからだ。

彼女の著作の中でも、今回は絶版になっていることが信じられない名著『文壇アイドル論』をご紹介しよう。

 そもそも、デビュー二〇年で一〇〇冊を超す本を書き、数々の受賞歴をもち、いまや直木賞選考委員でもあるというのに、林真理子ほど、ある意味、不幸な作家もいません。本人のインパクトが強すぎたせいなのか、八〇年代の彼女は、メディアへの露出度こそ高かったものの、作品論・作家論はおろか書評すら少なく、一人前の小説家としては認められていなかった。
 本人が有名なわりに作品は読まれない。エッセイほど小説は読まれない。真理子嫌いの人ほど、雑誌以外の彼女の本は一冊も読んでいなかったりする。書評らしい書評がポツポツ載るようになったのは、九〇年代に入ってからのことです。その背景には彼女自身の転機もいくつかあったのですけれど、その前に、小説家・林真理子の評価とは、いかなるものだったのでしょうか。

(「林真理子 シンデレラガールの憂鬱」『文壇アイドル論』所収、p.137-138)

本書は、80年代に活躍した、時代の寵児ともいえる8人の「文壇アイドル」評――たとえば村上春樹、俵万智、上野千鶴子、立花隆など――をまとめた一冊。刊行は2002年とのことで、今ほど出版不況ともなっておらず、まだまだ大ベストセラーが生まれていた時代の名残のある本になっている。

上に引用したのは林真理子論の一部。林真理子といえば、最近だったら大河ドラマ『西郷どん』の原作小説も執筆しており、『週刊文春』のエッセイ連載の長さはギネスに載ったり、出版界の大御所の女性作家として思いつく人そのもの、という印象。

しかし林真理子のデビューは小説ではなくエッセイ。バブルの時代に女性の本音をあけすけに書いたとして大ベストセラーになった『ルンルンを買っておうちに帰ろう』。もはや直木賞選考委員すらやっている今となっては想像しづらいのだが、2002年当初はまだまだ林真理子のバブル時代のテレビに出てエッセイを書いていた印象が強かったのだろう。林真理子の小説は不当な評価を受けていたと斎藤美奈子は綴る。

たしかに私たちの世代ですら、林真理子の小説の価値を説く人は、周囲にそんなに多くはない。

『文壇アイドル論』は、林真理子と対比させて上野千鶴子を置いている。が、上野千鶴子の80年代の著作が岩波現代文庫から最近復刊されたのとは対照的に、林真理子の80年代の著作といえばやはりエッセイ『ルンルンを買っておうちに帰ろう』なんじゃないか? という評価がなされている。

しかしなぜそんな評価がなされているかといえば、斎藤美奈子は「林真理子という作家はウーマンリブの落とし子だったから」と言う。つまり80年代の林真理子は、男性社会からの評価が得られづらい作家だった。それはほかならないウーマンリブの気分の継承者だったからだ。

これ、林真理子ファンであっても目の覚めるような指摘じゃないだろうか。だって林真理子といえば、ばんばん仕事をして、ばんばん買い物をして、おいしいご飯を食べてその合間にダイエットして、イケメンがいたらすかさず見つけ、そして上野千鶴子と喧嘩した、「フェミニズム」の対極にいる人だったはず。ウーマンリブから一番遠いところにいたのではなかったのか。

しかし考えてみれば、ばんばん仕事をしてばんばん買い物をしてばんばん異性の評価をするのは、当時、男性だけに許されていた特権だった。女性が評価する側にまわることがそもそも稀少だった。それをこじ開けたひとりが林真理子だったわけで、そりゃ男性から「あいつの小説がうまい」なんて言われづらいキャラだよなあ、と私は心底納得するのだ。

だってイケメン好きで買い物ジャンキーな女性が、小説まで上手いだなんて、男性作家にしてみたらなかなか受け入れられないだろう。「女性らしい」ミーハーなエッセイはうまいかもしれないけれど、「俺らも書いている」小説も多作で質が高いなんていう作家であってはならない。だってあんなにミーハーなのだから。――世の中の男性作家たちによる、そんな無意識の蔑みがあったのではないか。斎藤美奈子によって、今やっとそんな林真理子評が明らかになったのだった。

斎藤美奈子はばっさりと斬る。「林真理子への評価って、面白くないものが多かったな?」と。

そしてそれは林真理子評に限った話ではなかった。村上春樹評も、村上龍評も、吉本ばなな(現・よしもとばなな)評も、文芸批評という面をしておきながら、その実は面白くないものがとても多かった。なぜ面白くなかったか。それはね……と痛快に教えてくれるのが本書なのです。この評は、面白くない。それは評の「前提」がそもそもおかしいからだ、と。

本書を読んでいて思う、「面白い・面白くない」という評価を度外視して本の感想を書くことの、何が問題かといえば、内心で「いまいち精彩を欠く本だなあ」と思っていても、まあこういうもんなのかも、とその本のことを曖昧に受け入れ、そして肯定してしまうことではないだろうか。

自分は本当は面白くないと思っている本のことも、肯定してしまい、高評価をつけてしまうと、自分の審美眼を曇る。そうしているうちに、自分がどんな作品が好きで、面白いと思うのか、自分の輪郭がどんどん分からなくなってしまう。するとなんとなく世間や他人の評価に忖度するようになり、自分の欲望も嗜好も分からなくなるのではないか。

「自分の感受性ぐらい/自分で守れ/ばかものよ」とうたった詩*1もいたけれど、これは面白くない、とはっきり考える目があってこそ、これは面白い、と判断することもできる。そしてそこからはじめて自分の感想というものが立ち上がる。評価なしの解釈なんて、本当にあり得るのかな? と私は本書がはっきりと「面白い・面白くない」を述べる様子を読むたびに思うのだ。

斎藤美奈子という批評家の書いた文章を読むと、「私も、面白い・面白くないと言っていいんだよな」と変に励まされる。それは彼女の「こういう言説って、面白くないよね?」という感想から出発する批評こそが、目の覚めるような指摘をいつもしてくれるから。

さて、最後にもうひとつ『文壇アイドル論』のだめ押しをしておこう。

「とはいえ、どんなに面白い批評でも、今更80年代の作家を取り上げる本を読んでも……それこそ、面白いのか……?」「今更バブルの時代論を読んでもねえ」と思われる方もいるかもしれない。

しかし私は本書を読むと、今こそ80年代や90年代の復習をすべきでは、という気持ちにもなる。まだバブルが盛り上がっていて、文壇アイドルが生まれていた豊かな時代。しかし同時に、今に至るフェミニズムの問題がやはり盛んに問われていた時代でもあるのだ。フェミニズムに興味を持つ人が多くなってきた今こそむしろ、フェミニスト・斎藤美奈子の時評は、効力を発揮すると思う。

バブルの消費の空気は、フェミニズムは、マチズムは、どうして今のような状態になっているのか。その謎を解く一端が、斎藤美奈子の「なぜ当時これが面白がられたのか」という問いに含まれているのではないだろうか。

*1 茨木のり子「自分の感受性ぐらい」(1977年)所収

今回の絶版本

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著者プロフィール

三宅香帆

みやけかほ/1994年、高知県生まれ。書評家。京都大学文学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修士課程修了。2017年、『人生を狂わす名著50』でデビュー。おもな著書に、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(だいわ文庫)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)、ほか多数。最新刊は、自伝的なエッセイ集『それを読むたび思い出す』(青土社)。

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