モラヴィア『同調者』(関口英子 訳)|馬場紀衣の読書の森 vol.7
「二十世紀最大の小説家」「実存主義文学の先駆」「イタリアの賢者」。こう書けば誰だって警戒して身構えてしまうにちがいなく、若い読者なら、いかにも人間的、リアリズム小説にありがちな辛辣な筆致をイメージするかもしれない。でも、出だしだけで読者を惹きつけてしまう『同調者』のような実力派の小説を読まずに敬遠するのは、もったいないと思う。
モラヴィアは多作なことでも有名で、60年以上もの作家人生のあいだ、絶え間なく読者を魅了し続けた。本書に添えられた訳者の「あとがき」によると、日本では1960年代半ばから80年代にかけて競うように訳されて、翻訳作品は単行本だけでも40タイトル以上あるという。モラヴィアが世を去ってすでに30年以上が経つけれど、複数の翻訳があることは、当時を知らない読者に楽しみが残されているということでもあるし、こうしていくつもの翻訳本を棚に並べられる喜びもある。
マルチェッロというのが主人公の名前で、プロローグでは13歳の無垢な少年として登場する。両性的なマルチェッロはフェミニンであることを理由に学校で苛めにあい、拳銃と引きかえに運転手リーノとの禁断の戯れに挑む。そして、トリガーをひく。この瞬間から、マルチェッロという存在に「殺人者」が刻みこまれる。自分は皆とはちがう、異常なのかもしれないという強迫観念。以来、心の内なる声に気づきながらもマルチェッロは「正常」な日常生活を送ることに努める。他の大勢の人たちと何ら変わらない、一人の男として暮らすための就職、人並みな結婚、体制にも自ら進んで協力する。しかし、正常さを求めてのマルチェッロの行為が彼の物語を好転させることはない。
作家としての円熟期に書かれた『同調者』は、今回で三度目の訳となる。「イル・コンフォルミスタ」というのが原題で、これはかなり日本語に訳しづらい言葉なのだという。この単語がもつ意味は、物語を読みはじめればすぐに分かるだろう。
「コンフォルミスタ」という作品名は、1930年代前半のイタリアのファシズム用語と結びついているものの、それはアレゴリーの域に留まっているし、これはファシズムについての小説でもない。ここでは体制は悪として描かれていないし、マルチェッロは抵抗者の立場にいるわけでもなさそうだ。それでもモラヴィアなりのアプローチを託されたこの物語は、比較的、同調傾向の強い日本人と重ねて読むこともできるだろう。
空気に流され、社会に背中を押されて、周囲に同調しながらも、芯のところでマルチェッロは常にぎりぎりに追いつめられている。物語の終盤、マルチェッロは思い至る。
過ちがあったのだとしたら、最初で最大の過ちは、己の異常さから抜け出したいと望んだことではあるまいか。どんなものだろうと構わないから、他人との交流を可能としてくれる正常さを追い求めたことにあるのだ。その過ちは強烈な衝動から生じたものであり、不幸なことに、その衝動が行き着いた正常さというのは空洞の器でしかなく、中身は異常で根拠のないものばかりだった。
思い起こせば、私たちは自分で選び抜いた人生を生きているようで、実のところ、そうでもなかったりする。それでも、できるだけ誠実に自分の生を生きようと望んでいる。そうして生きる、そうして生きざるを得ない人間の壮絶な試行錯誤をモラヴィアは『同調者』という物語にしたのではないか。