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納得できないことは、ちゃんと言葉にして伝えたほうがいい――エンタメ小説家の失敗学30 by平山瑞穂

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平山さんの最新刊です。

〈コラム〉配慮と我執のあいだ

  前章で取り上げた『プロトコル』については、今でも猛烈に悔やんでいることがひとつある。作品の内容についてではない。できあがった本の装幀をめぐる問題だ。

 単行本のときはよかった。白地を背景に、コルクのついたなにかのキャップ状のものをつまんで持ち上げる女性の手を接写した写真が主要なモチーフとなっている、とてもしゃれた装幀だった。キャップには、競走馬とそれにまたがる騎手の姿を象った、金色に輝く小さな彫像のようなものが据えつけられている。

 本編を読んだ人には、それがなんのキャップであるかがやがて了解できる仕組みになっている。これは「ブラントン」という名の高級バーボンウィスキーのキャップなのだが、このブラントンというお酒が、作中では重要なシンボルとして扱われているのである。

 前章で述べたとおり、語り手・有村ちさとの父親は、世界周遊の旅に出たまま何年も家に戻っていないのだが、本人は、その旅には「ブラントン将軍」なる人物を伴侶にしていると述べている。しかし、そんな人物など実在しないことをちさとは知っている。父親は精神を病んでおり、妄想の中で、いもしない人物と行動をともにし、言葉を交わしているのだ。

 ところがある日ちさとは、上司に新宿・荒木町にあるバーに連れていかれた際、「ブラントン」と呼ばれるウィスキーが存在することを知る。しかもそのキャップの形に、見覚えがある。似たような形をしたものが、父親の書斎の、本棚の余白部分にいくつも並んでいたのだ。父が言う「ブラントン将軍」とは、このキャップのことにほかならないのではないかとちさとは考える。

 そんな作中のエピソードをたくみに切り取り、美しい装幀として具現化したデザイン事務所の卓越したセンスに、僕は心底、感嘆したものだ。

 しかし同じ『プロトコル』でも、文庫化の際は話が大きく違っていた。競走馬と、前のめりになってそれにまたがる騎手の前半分を描いたイラストが、大きく取り上げられただけのものだったのだ。

 すでにこの作品を読んでいる人、特に、単行本でそれを読んでいる人なら、このイラストを見ただけで、「ああ、ブラントンだな」と察しがつくかもしれない。しかし文庫版は当然、単行本未読の人を対象にしている。不思議な形をしたお酒のキャップらしきものが写っていれば、「なんの話だろう」と興味を抱かせることもできるだろうが、競走馬と騎手のイラストでは、なんのイメージも湧いてこない。いやむしろ、「競走馬と騎手」のイメージしか湧いてこない。

 言うまでもなく、『プロトコル』は、競走馬と騎手とはなんの関係もない物語だ。それらはあくまで、ブラントンというお酒を通じて、ちさとの父親と結びついているという意味で奥行きのあるモチーフとなりうるのであって、競走馬と騎手自体が重要なわけではまったくない。

 単行本を刊行したのちの読者などからの反応を見て、読者の多くは有村ちさとというキャラクターそのものに惹かれているということも、すでにわかっていたはずだ。それなら、もっとちさと本人のイメージをフィーチャーしたものにするなど、やりようはいくらでもあったのではないかと思う。

 カバーのラフができたと言われて初めてこの装幀のデザインを目にしたときには、僕は当然、やや愕然とさせられ、これはいったいなんのつもりなのかと目を疑った。「これでは作品の、わけても有村ちさとの魅力が少しも伝わらない。これでは話にならない」と全身がダメ出しをしたがっていた。しかし僕には、それをすることができなかった。

 会社員と兼業の中、次から次へと降りかかってくる作家としての仕事に追われ、僕自身が疲れきっていたことも一因ではある(この一年半ほどのちに僕は、体力の限界を感じて職場を辞し、作家専業となっている)。このデザインのどこがいけないのか、どうしてほしいのかを、筋道立てて説明する気力に乏しかった。しかしそれより何より、実業之日本社の担当がこの時期、殺人的と言ってもいい多忙の中に置かれていることを知っていただけに、つい、それ以上の負荷をかけることを憚ってしまったのである。

 当時、僕の担当編集者は、この『プロトコル』文庫版も含め、内田康夫、堂場瞬一、柳広司などによる九作品からなるラインナップでスタートする実業之日本社文庫の、立ち上げの旗振り役に任命され、昼も夜もないような暮らしに追い立てられていた。このカバーラフが出てきたのも、刊行スケジュールからいったらギリギリと言っていいタイミングだった。しかも、「ラフ」と言いつつ、あらたに描き起こしたものらしい、すでに完成しているイラストが使われていて、事実上は完成品に近い体裁になっていた。

 いちばんの問題は、まさにそのイラストなのだ。それをコンセプトから何からすべて差し替えたものにしてほしいと願い出たところで、はたして今から物理的に対応が可能なのか。僕は勤務先で、ダイレクトメールの制作などにも従事した経験があるので、印刷物をめぐる納期等のタイトさもあらかたわきまえていた。この段階でそんな要求を突きつけたりしたら、「土壇場で無理無体なダメ出しをしてくる困った作家」としての烙印が捺されはしまいか。担当編集者も、キャパ超えを起こしてどうにかなってしまうのではないか――。

 PCを前に数時間、呻吟したあげく、僕は結局、「これでけっこうです」と返信して、まるで納得できていないこのカバー案をそのまま通してしまった。

 デザインを担当したのは、単行本のカバーと同じデザイン事務所だった。それでどうしてこれほどの落差が発生したのか、その経緯はわからないが、ディレクションの問題だった可能性が高いと僕は見立てている。つまり、デザイン事務所は、「こんなイメージで」と担当編集者から指示されたままのものを提示してきたにすぎないということだ。

 膨大な仕事に溺れそうになっていた担当編集者が、ひとつひとつの案件をじっくりと吟味する余裕もないままに、「えいやっ!」とばかりやっつけで片づけてしまった中に、このカバーも含まれていたのではないか。真相は不明ながら、これについては、どんなに恨まれてもかまわないから、言うべきことを言っておけばよかったと今なお後悔している。

 もちろん、カバーひとつで売れ行きなどにそれほど劇的な差は生じなかったかもしれない。それでも、「このカバーはないだろう」と今でも見るたびに思うのだ。これまで何百回、同じ後悔を感じたかわからないほどだ。

 事実、ネットで文庫版のほうのレビューを見ていると、「表紙の意味がわからない」「最初見たときは、競馬の話かと思った」といった記述がかなりの頻度で出現する。せめて、「会社で働く若い女性の話」なのだということだけでもカバーで伝えることができていたら、もう少しは一般読者から手に取ってもらいやすくなっていたのではないか。

 第4章からのくりかえしになるが、いかなる状況下であれ、納得できないことは、ちゃんと言葉にして伝えたほうがいい。やれることはやれるだけやったという自覚があれば、結果として売れなかったとしてもあきらめもつこうものだが、そうでなかった場合、「もしもあのとき、ああしていれば……」という思いは、その後もずっと、亡霊のようにつきまとってくることになるのだ。(続く)

 

 

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