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2:しかし「世間様」は逆襲する、暴漢がパンク・ロッカーを襲う——『教養としてのパンク・ロック』第16回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第2章:パンク・ロック創世記、そして、あっという間の黙示録

2:しかし「世間様」は逆襲する、暴漢がパンク・ロッカーを襲う

  結局のところ「ジュビリー・ボート・トリップ」の騒ぎは、翌朝の新聞では「労働党の機関紙」との異名を持つ、セックス・ピストルズ叩きの急先鋒だった大衆紙デイリー・ミラーだけが取り上げた。11人が同日保釈された件についてはロンドンの夕刊紙が記事にしたのだが、しかしこちらでは、昨夜のイベントそのものについては、一切触れられていなかった。あれほど力を入れた戦略だったにもかかわらず、瞬間風速的には、いまひとつマスメディアの食いつきは悪く、「やはりバンドが逮捕されていたほうがよかったか」という意見まで、マルコム・マクラーレンの周囲では出ていたという。

 しかし「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」の売り上げは伸び続け、発売後一週間で軽々と20万枚を超えており、その足が止まる気配はなかった。ミラー紙は(苦々しげに)「いかなる妨害によっても、この曲がチャート1位となることを止めることはできないだろう」と予測していた。だが、この読みは外れた。6月11日付チャートで「~ザ・クイーン」は2位止まりだった。前週に引き続き、ロッド・スチュワートの「アイ・ドント・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・イット」が1位に居座っていたからだ。これについては陰謀説が根強くあって、「~ザ・クイーン」は、実際はスチュワートの曲の倍ほども売れていたのに、チャート当局がこの週だけ突然に集計方法を変えて「なんとしても『不敬な』パンク・ソングの1位を阻止する」挙に出たのだ――というもの。

「まさか、そんな」と、あなたは思うだろうか。たかがパンクに、そんなに目くじら立てるなんて信じられない、とか。ちょっと「女王をからかった」だけで、そこまでしますか、とか……いや「そこまでしなければならない」ほど、脅威と目されていたようなのだ、このときのセックス・ピストルズが。さらには、彼らが先頭に立って牽引していたパンク・ロックそのものが。

 そして12日、ミラー紙の日曜版であるサンデー・ミラーが「パンク・ロック・ジュビリー・ショッカー」と題して、ピストルズの不敬なるボート・トリップの全容をついに記事にした。一面で大々的に報道し、叩いた。この翌日の13日月曜日、デザイナーのジェイミー・リードが自宅を出たところで暴漢に襲われ、鼻と足の骨を折られてしまう。

 続いて18日には、ジョン・ライドンが襲われる。ウェセックス・スタジオにて「ボディーズ」のミックス作業を進めていたプロデューサーのクリス・トーマスとエンジニアのビル・プライス、そしてライドンが仕事を終えたあと、すぐ近くにあるパブ「ペガサス」へと向かったところ、駐車場にて襲撃されたのだ。ナイフやカミソリを手にした数人の男(9人説がある)が、ライドンに迫る。カミソリで顔を切りつけられる。ライドンいわく、襲撃者たちは「俺らは女王を愛してるんだ、くそったれ!」と言っていたそうだ。しかし賊は国民戦線風のスキンヘッズやテッズではなく「たんなるごろつき」で、集団のなかには黒人もいたという。ナイフで左手をひどく切られ、腱を2本切断されてしまったライドンは、このとき以来「左手が使いものにならない」状態となった。ギターも弾けないし、力を入れることもできない、と(彼は左利きだった)。さらにクルマのなかに逃げたライドンを追ってきた暴漢のひとりは、彼の太腿に大きなダガーを突き刺した。ライドンいわく「その日はすごく分厚い革パンツを穿いていた。それじゃなければ、片足になっていた」ほどの攻撃だったという。

 この事件が新聞記事になるよりも早く、翌19日には、今度はドラマーのポール・クックが地下鉄のシェパーズ・ブッシュ駅にて工具のバールで襲われた。さらに刺傷事件の3日後には、またもやライドンが襲撃された。これらの残忍で一方的な暴行は、しかし新聞紙上では、パンクスとテディ・ボーイズのあいだのよくある確執だとして、ちんぴら同士のくだらない喧嘩だとして、軽く流された。あるいは、面白おかしく処理された。ひどい目に合わされ続けるピストルズたちに心を寄せるのは、パンク・ロック・ファンだけだった。

 もっともその人数は、パンク・ロックに開眼した少年少女は、ものすごい速度で増え続けていたのだが。だから、パンクのレコードは売れ続けていた。このことがまた「広い世間」からは、はっきりと疎ましがられてもいた。

歴史的な放送事故

 セックス・ピストルズは「世間一般」から、とにかく憎まれていた。蓄積してきた「悪名」の水準が、シルヴァー・ジュビリー嘲笑という行為によって、ついに「一線を越えた」と認識されたのかもしれない。大衆紙が煽り立て、真に受けた粗暴者が、ピストルズはもちろん「パンク・ロッカー狩り」に興じる有様となっていた。

 いくらパンク・ロックが一見「公序良俗」を乱しているようであったとしても、これはただの大衆芸術であり、思想信条が反映された表現行為でしかない。しかしどうやら、それらの文化的事象を「物理的な暴力」でもって叩き潰したいと欲望する者が、イギリスには少なからずいるようだった。まずはセックス・ピストルズの一味が、ものの見事に、そうした連中のターゲットとなっていた。

 事態がここに至るまでには、前段階があった。もちろん「段階」のそれぞれにおいて、つねに挑発によって「世間様」における憎悪の蓄積をおこなってきたのは、マルコム・マクラーレンおよびピストルズの面々だった。

 77年6月のこの時点で、ピストルズはまだシングルを2枚発表しただけの「新人」バンドだった。にもかかわらず、ボート・トリップ以前に、すでに「悪名」は世間に轟きわたっていた。75年結成の彼らは、76年より精力的に続けていたアグレッシヴなライヴ活動で地道に積み上げてきた人気はあったのだが、なによりもそれ以上に「醜聞」の連発が、世間的には大きな意味を持っていた。

 たとえば「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」を正式発売したレーベル(つまり、この6月時点での契約先)はヴァージン・レコードだったのだが、これはピストルズにとって3つ目のレーベルだった。

 なぜにシングル2枚なのに3つ目かというと、最初のレーベルEMIは、76年11月のデビュー・シングル「アナーキー・イン・ザ・UK」発売ののち、77年1月6日に早くも契約を破棄したからだ(契約期間は三ヶ月ほどだった)。2つ目のA&Mは、セカンド・シングル「~ザ・クイーン」を発売する前に、バンドを放り出した(契約期間は、実質一週間ほどだった)。もちろんレーベルを移動するたびに、彼らは(というか、マネージャーのマルコム・マクラーレンは)巨額の契約金や違約金を手にした、という。

  76年の12月1日、ピストルズがまだEMI所属だったころに、最初の重要事件が起きた。ロンドン・ローカルの民放局であるテムズTVの夕方の生放送番組『トゥデイ』にピストルズのメンバーが出演したのだが、そこで歴史的な放送事故と言うべき「騒動」が巻き起こったのだ。これによって彼らは、一夜にして「公共の敵」の大新星として注目を集めてしまうことになる。

 番組司会者の名をとって、のちに「ビル・グランディ事件」と呼ばれることになるこの騒動は、番組終了直前の、全体でおよそ2分半ほどの出来事だった。舌禍以下の「卑語連発」事件と言おうか。英語圏では基礎的に「絶対的な放送禁止用語」とされている「SHIT」や「FUCK」を、メンバーが意図的に言いまくってしまう。イギリス放送界において前例がないわけではなかったのだが、しかし、ここまで「あからさまに攻撃的かつ、ひどい」内容なんて前代未聞だった。事件は、こんなふうにして起こった。

 番組終盤、グランディの挑発的質問にグレン・マトロックが頑張って答えていたところ、ついジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)が小さく「That's just their 'TOUGH SHIT'(そんなの関係ねえよ)」と口走ってしまう。これを聞き咎めたグランディ、「いま、なんてったの?」としつこく詰め寄るので、ロットンが渋々「SHIT(くそ)だよ」と言い直して――そこからカオスが始まった。あろうことか、混乱のなかでグランディは、メンバーの後ろにいたスージー・スー(ブロムリー軍団もスタジオにいた)にセクハラ発言なんてするもので、スティーヴ・ジョーンズもここに参戦。「You dirty FUCKER!(このきたねえオマンコ野郎)」とかます――ジョーンズは「FUCK」担当というか、インタヴュー・パートの冒頭でマトロックが質問に答えている際にも、横からFワードで口を挟んでいたのだが、そのときはグランディに(酔っ払ってたせいで?)スルーされていた。しかしここに至ってはグランディも黙っていない。ロットンに対したように、ジョーンズをも挑発する。だからジョーンズも応えて発言を繰り返す。手を替え品を替えた罵倒語も織り交ぜながら……といった地獄絵図が、午後6時台、当時の平均的なイギリス人家庭では夕方の家族団欒の時間帯に、盛大にぶち撒けられてしまう。

 かくして、翌朝の新聞各紙、大衆紙のデイリー・エクスプレス、デイリー・メール、ザ・サン、もちろんデイリー・ミラー、加えて高級紙のデイリー・テレグラフまでもが、大々的に記事にして、叩いた。ピストルズ側の「あってはならない」不品行を、各紙が口々に非難した。なかでも飛ばしていたのがやはりミラー紙で、「The Filth and the Fury!(猥褻と憤激!)」なる同紙の一面での大見出しは、のちにセックス・ピストルズのドキュメンタリー映画タイトルに起用されるほどのインパクトだった。同紙によると、47歳のトラック運転手ジェームズ・ホームズさんは、あまりの怒りに、ののしりながら思わずTVを蹴り上げたのだが、そのときの一部始終の音を8歳の息子リー君に聞かれてしまう――などという悲劇も、巷のお茶の間では起きていたという。

 というわけで、クリスマス前のこのスキャンダルはEMI首脳陣を激怒させ、翌年早々ピストルズは同社から放逐されてしまう(のだが、この騒ぎを受けて「アナーキー~」は12月11日付チャートで全英38位まで上昇していた)。

 奇遇なのは、このテムズTV出演話は、そもそもピストルズが呼ばれたものではなかったという点だ。最初にゲストとして招かれたのは、クイーンだった。しかしフレディ・マーキュリーが歯の不調を訴え、治療のためにバンドは番組を降板。そこで「同じレーベルだから」ということで急遽お鉢が回ってきたのが、あろうことかピストルズだったというわけだ(つまりなぜだか、彼らは「女王的なるもの」と妙に縁がある)。

 と、そんなバンドが、3つ目にしてようやく腰を落ち着けることができたのが、新興のヴァージン・レコードだった。のちに航空会社を設立し、宇宙旅行会社も設立し、自らも宇宙遊泳を楽しんでしまう冒険家でもある、実業家のリチャード・ブランソンが最初に大きく名を売ったのが、このレコード事業だった。彼の英断によって「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」は発売に至り、そこからおよそ10日後に前述の「凶行」ボート・トリップがおこなわれることになる。

 だからクイーン・エリザベス号を借り上げたのももちろんブランソンで、彼もまた、あの大混乱の船内や埠頭にいた。書類を手にした彼は、警官隊に向かって、深夜までこの船は正当にレンタルされたものであること、だから介入は許されないことを力説していたのだが、しかし、その言に耳を留める者は誰もいなかった。

最大最強の打ち上げ花火

 こうした騒ぎの連続から身を隠すようにして、7月、セックス・ピストルズは初のスカンジナビア・ツアーに旅立っていく。帰国後の8月からは、なんと変名(「Sex Pistols On Tour Secretly」の略である「The S.P.O.T.S.」そのほか)にてイギリス各地で都合6回の小ライヴをおこなった。すでに76年の段階で、彼らがライヴするたびに暴動あり喧嘩あり、周辺住民からの抗議ありで活動に支障をきたしていたのだが(それもあって、マクラーレンはボート・トリップでのライヴを企画したのだが)、あらゆる意味で騒動の規模は拡大し、かなりぎりぎりのところまで、バンドは追い込まれていた。

 しかし、最大最強の打ち上げ花火が、まだ残されていた。彼らにとって最初で最後のオリジナル・スタジオ・アルバムとなる1枚『ネヴァー・マインド・ザ・ボロックス、ヒアズ・ザ・セックス・ピストルズ(邦題『勝手にしやがれ!!』)』が、この聖なる年の10月28日、イギリスにおいて、ついに野に放たれることになる。同作は発売直後、初登場で全英アルバム・チャートの1位を奪取する。

【今週の映像ひとつと1曲】

Sex Pistols - 1976 12 01 Today with Bill Grundy

これが恐怖の「ビル・グランディ事件」現物映像。この日の花形、スティーヴ・ジョーンズのやんちゃぶりに注目。そのほか、意外にカメラ目線がお得意(?)のジョン・ライドンの姿に、のちのTVタレント化の片鱗が見え隠れ――しているかもしれない。

Sex Pistols - Anarchy In The UK - Live at Winter Gardens (S.P.O.T.S Tour)

そしてこちら、77年9月、変名でツアー中だったセックス・ピストルズのライヴより。音も映像もグシャグシャなれど、これぞ「生」の迫力。追い詰められた野の獣のごとく……。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

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