狙われた身体|馬場紀衣の読書の森 vol.37
人間には5種類の感覚があり、なかでも圧倒的に重視されているのは、いうまでもなく視覚だろう。たとえ見えなかったとしても、大きな音がしたり、匂いが鼻先をかすめたり、奇妙な味がしたり、触ることができれば周囲の異変に気づくことはできる。でも、そこにたしかに「ある」はずなのに、見ることのできないものにはどう対処したらよいのだろう。なんだか矛盾しているように聞こえるけれど、そういうものは案外たくさんある。たとえば痛み、たとえば病。
目には見えないのに存在しているとなると、目に見えているものだって「ほんとう」かどうか怪しくなってくる。自分以外の人びとが、なにをどのように見ているのか(あるいは見ていないのか)興味があるけれど、たとえば妖怪や怪異の類は、存在のあいまいさをいとも簡単に飛びこえて、こちら側へやってくる代表といえる。
見えないものを見ようとするとき、人は姿を作りだした。見えない敵を可視化することができれば、向かうべき対象がはっきりするから。それが痛みなら覚悟を決めることができるし、病なら備えることができる。妖怪なら、迎え撃つ準備ができる、かも。私たちの身体は、つねに突然の危険やリスクにさらされているのだ。
人の想像力は果てしない。これはまぎれもない「ほんとう」だ。透明だった存在が想像の力によって姿形を現し、見えない敵を取り扱うための手段として、説明できない不思議な現象を説明するための依り代として私たちの目の前に姿をみせる。こうして生みだされた語りが社会に浸透し、また新しい語りを生んでいく。
生命を生みだす根源であり、存在そのものが邪悪なものを追い払うこともあった女性の身体は「狙われる身体」でもあった。たとえば田んぼで働いていた女性が昼寝をしているあいだに怪異が腰のあたりに入って、抜けずに死んでしまったという不思議な話。じつは襲ったのは妖怪ではなく、蛇だったのだけれど「女性器が妖怪に狙われた」という語りからは、女性の身体が狙われていた社会の状況と時代性を想像することができる。
伝承の背後にはいつも語り手がいる。この場合、語り手は女性を助けようとした村の医者か、あるいは老人だったかもしれない。蛇が、その土地ではよく見かけられたのかもしれない。物語は蛇を抜きだす対処法をうまく盛りこむことで、人びとの関心をひきつける伝承となっていく。語りは、いったいどのようにして生まれたのか。伝承や習俗、妖怪と身体の関係を問うことで、その存在を受けとめてきた人びとの身体観を問い直した一冊。