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そう出来の悪い小説ではなかったが……――エンタメ小説家の失敗学32 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第6章 オチのない物語にしてはならない Ⅱ

『桃の向こう』

 結果として『野性時代』に掲載された短篇小説『桃の向こう』は、こういう内容である。

 ――大学生・来栖(くるす)幸宏は、同じ講義を受講していた女子学生・仁科煌子(あきこ)に惹かれ、親しくなっていくが、デートを重ね、キスを交わす間柄にまでなっていながら、彼氏・彼女として相手を束縛しながらつきあうような関係性のあり方に疑問を抱いていたばかりに、「つきあってほしい」のひとことがどうしても言えず、自己の信念と煌子への独占欲に引き裂かれていく。そんな中、元来、行動的で好奇心旺盛だった煌子は、どことなく新興宗教めいた色合いを帯びた学生団体でのボランティア活動にのめり込んでいき、それがきっかけとなって、二人の関係は瓦解する。

 それから一〇年ほどして、大学を卒業しないままフリーライターとして身を立てていた来栖は、タウン誌向けの取材としてある町工場を訪れた帰り道、うっかり雑木林の奥深くに迷い込んでしまう。そこに忽然と現れた、収穫直前の実をたわわに実らせている桃林の中を進んでいくと、その先には児童養護施設風の建物があり、そこで大勢の子どもたちに「先生」と呼ばれて囲まれていたのは、化粧っ気もなく野暮ったい出で立ちをした仁科煌子その人だった――。

 それだけの物語である。来栖と離れてからの煌子が、どんな生活を送り、どういう経路を辿ってそこに行き着いたのか、現在の立場が正確にはどういうものなのかについては、いっさい説明していない。

 結果として僕は、この短篇『桃の向こう』の世界を膨らませ、描かれていなかった隙間の一〇年間の部分を埋めていくような形で、『野性時代』に連作を書き継いでいくことになる。そして最終的には、この『桃の向こう』自体をプロローグとして冒頭に掲げ、四篇の短い物語にエピローグを添えた構成で、一本の長篇小説を完成させた。それが、書籍としての『桃の向こう』である。

 僕はこの小説を、当時の三〇歳前後の読者に読まれることを意識しながら書いた。そのため、作中人物の年齢層は、いわゆるロスト・ジェネレーションに相当する。その世代の若者たちが、大学生から社会人初期に至る一〇年間をいかに駆け抜けたか――僕が描こうとしたのはそれだ。ロスト・ジェネレーションは、いわゆるバブル世代である僕自身から見れば一〇歳ほど下の世代に当たり、その感覚が摑めずに難儀したきらいもあるが、世代が違っても、人が青春時代に感じることにそれほど本質的な差はないだろうと見立てていた。

 もちろん、プロローグに当たる「桃の向こう」以外は、すべて新規に書き起こしたものだ。その中で僕は、多々良(たたら)晃司という新しい登場人物を加え、来栖と煌子、そして多々良という三人それぞれを主人公にして、三人それぞれの視点でエピソードを語っていくという形を取った(これは、僕がその後もしばしば援用することになる群像劇という手法を、初めて試してみた作品でもあった)。

 多々良は来栖とは対照的な人物造形で、来栖とも折り合いが悪いのだが、実はこの男も、煌子とスレスレのところまで接近した時期があった。経験の幅を広げることにこだわり、ひとまずなんでも試してみる性格の煌子は、軽佻浮薄な男子である多々良からの誘いにも応じるのだが、一方では、恋愛にうつつを抜かす周囲の女友だちに辟易してもおり、「つきあう」ことをただちに求めてこない変わり種の来栖に、理想的な伴侶としての可能性を見出してもいた。

 しかし煌子はやがて、その来栖にもなにかしっくりこないものを感じはじめる。煌子が主人公を張る唯一の章は、来栖に感じた違和感の正体を突きとめようと煌子が考えを巡らせているところで幕を閉じる。そしてそれ以降、煌子は二度と作中に登場しない。

 物語の後半は、来栖と多々良とのその後を追っていく形で展開する。そしてこの、水と油と言っていい二人の男子は、思いもよらぬきっかけを通じて幾度か再会し、エピローグ部分では最終的に和解するに至る。そのときになって初めて二人は、それぞれが煌子ときわどいところまで距離を詰めていたことを、一〇年越しでおたがいに知ることになる。

 この物語は、性格が正反対の男子二人が、微妙な間柄にあった一人の女子を間に挟んで不思議な因縁を持つ、その巡り合わせの妙を描いたものでもあるのだ。

 プロローグ部分で描かれる、来栖が桃林の向こうに仁科煌子の姿を目撃する場面は、時系列的には、エピローグ部分で描かれる、来栖と多々良が和解するエピソードの翌日に当たる。物語の叙述が、循環型になっているということだ。結局、現在の煌子がどういう状況に置かれているのかは、最後まで明かされないままである。

 それを通じて僕は、何を描きたかったのか――それは、煌子の思い出を来栖に語る多々良が放つ、以下の台詞に集約されている。

「なんというか、彼女はどこか、遠くに行ってしまったんだって気がする。こちら側ではない、“向こう側”のどこかへ。俺たちが手を伸ばしても決して届かない“向こう側”へ」

不可知、不可触の存在 

 以上、長々と作品紹介を続けてしまったのは、この小説をあえてこのような形で書いた僕なりの真意をわかっていただきたかったからにほかならない。

 例に漏れず、この作品も売れ行きはちっとも振るわなかったのだが、実を言うと僕自身は、今でもこの小説を、そう出来の悪いものだったとは思っていない。性質も生き方もまったく異なる男子二人がそれぞれ抱えている事情や心情、言い分も公平に描いていると思うし、煌子が主人公の章も、こういうタイプの(いわば「こじらせ」系の)女子が抱きがちな内面にかなり肉薄しているのではないかと自負するものだ。

 桃林の向こうに来栖がその姿を目撃する瞬間に至るまで、煌子がいかなる道筋を辿ってきたのかがいっさい語られていないことにも、明瞭な理由がある。それが「語りえない」ことだからだ。語りえないことについては、人は沈黙しなければならない(ヴィトゲンシュタイン)。

 プロローグ部分も、以下のように結ばれている。「先生」と呼びかける子どもたちに囲まれた煌子の姿を、来栖が目にしてからの叙述だ。

  来栖はそれ以上、一歩たりとも近づくことができなかった。むしろ後ずさるようにしながら右の方へ逸れて、建物を後にした。子どもたちの黄色いざわめきが、工場の金属音に取って変わって、いつまでも耳の奥で響き合い、こだまを交わしつづけていた。

「桃の向こう」とは、手が届かず、関与することもできない彼岸のような場所・立場を暗示している。「向こう側」に行ってしまった煌子は、もはや関わることが許されない存在なのであり、そういう存在について、なにかをより詳しく知ることはできない。煌子がそういう形で不可知の、そして不可触の存在になってしまったということ自体が、本作のテーマのひとつでもあるのだ。それでいてどうして、これ以上彼女についてくだくだしく語ることができるだろうか。

 もちろん、僕はこの物語の作者として、いわゆる「神の視点」を持ちうる位置にいるわけだから、煌子がなぜ、いかにしてそのような状態になったのか、あえて説明しようと思えばできなくはない。しかしもしそれをすれば、僕が醸成しようとしてきた煌子の「彼岸性」――どうなってしまったのかを具体的に知りようがないという不可知性は台なしになってしまう。それでは、興醒めもいいところではないか。(続く)


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