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心理学的決定論とは何か?―僕という心理実験Ⅳ 妹尾武治

トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmidt
妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。
過去の記事はこちら。

心理学的決定論とは何か?―僕という心理実験Ⅳ 妹尾武治

ではなぜ意志の幻想があるのか?

受動意識仮説

慶應義塾大学の前野隆司教授の受動意識仮説を簡単に紹介することで、人間が意志の幻想をもった過程と理由について説明したい。

人間は「知覚・記憶・私」の順序で心を発達させた。

まず日々の生存競争の中で、自分に対して敵か味方かを判別するために、外界の情報を的確に見定める能力、すなわち「知覚」が必要になった。例えば赤は敵、青は味方のように外界を的確に捉える能力が必要だったのだ。

「敵は赤い見た目をしている」と知覚出来るようになった次に、その赤い敵を見た際に効果的に逃げる必要があった。そのためには過去の赤い敵と今目の前にいる赤い存在とを比較照合することが必要だった。照合見本を脳内に保持し続ける能力こそ「記憶」だった。

記憶には、宣言的記憶とエピソード記憶というものがある。

宣言的記憶とは「赤は敵である」という記憶である。一方で、エピソード記憶とは「私は昨日赤い敵に襲われた」という自分を軸にした記憶である。宣言的記憶は忘れやすく、エピソード記憶は強く定着されやすい。

あなたも、自転車にはじめて乗れるまでにした練習のことや、友達と遊んだことなどの自分を軸にした記憶を強く覚えているはずだ。一方で、和気清麻呂の宇佐神宮神託事件が西暦何年のことだったか?は覚えていないだろう。前者がエピソード記憶であり、後者が宣言的記憶だからである。

このエピソード記憶を持つためには軸となる主人公が必要だった。つまり「私」という心の発達が必要になったのだ。「私」という概念は、エピソード記憶を持つために開発されたものだったと考えられるのだ。

まとめよう。人間は生存確率を上げるために、外界を的確に知覚する能力を獲得し、それを記憶する能力を身につけ、さらにその記憶をより強く保持するために、「私」を作った。「私」という概念が一番後に発明されていることが、私にはとても面白く思われる。

ここまでが受動意識仮説の流れである。

「私」の肥大化・暴走化

ここから先、私の考えを書きたい。

効率良い記憶によって生存確率を大幅に上げてきた人間。我々はこの成功法則に強く依拠し過ぎ、その効率をさらに上げようとして「私」を肥大化・暴走化させた。人類は「全ての行動は自分自身で決めている」と強く信じ始めてしまった。本当は環境からの刺激を受けて全自動的に行動が引き出されているにもかかわらず、環境からの刺激とは独立に自分の意志こそが、自分の行動の全てをコントロールしているという幻想を抱いてしまったのだろう。

これが自由意志の幻想の正体だと思う。

進化の過程で、特定の形質が行き過ぎてしまうことは多数の生物で知られている。

例えば孔雀の羽やオナガドリの尾は、派手過ぎたり、長過ぎてしまいパートナー選び(性淘汰)に対しては有利に働いても、生存競争においては不利である(敵から逃げる際に邪魔になるという意味。しかし実際には、孔雀の羽は彼らの捕食者である大型のネコ科のハンターの2色覚で低い視力に対しては、決して派手には見えず、4色覚の鳥同士でのみ、その派手さが知覚されているらしいという研究論文も存在する。アメリカの研究グループによる2019年のプロス・ワン誌上で報告された論文。)

進化には設計図が無いため(ただし、なんらかの超絶的な存在は生命に対して情報拡散の宿命を持たせてはいる)、行き過ぎた進化は自然界の至る所にある。

自由意志も当初の機能としては、記憶の強い定着を実現したことで生存に有利であった。しかしそれも行き過ぎて進化してしまう。そのせいで人間は機械であり他の生き物と同様に外界からの刺激の奴隷であるという真実が忘れさられてしまった。

今となっては、人間が機械であることを思い起こすことが困難になるまでに、自由意志は強固な信念へと変貌を遂げてしまったのだ。

能動態と受動態の中間の中動態

東京大学大学院総合文化研究科准教授の國分功一郎によれば、過去、人類の言語には能動態と受動態との中間である中動態と言いうる表現方法があった。

「何かを能動的にする」という表現と「何かを受動的にされる」という表現。現在の日本語や英語ではこの二つが表裏の関係になっている。する側とされる側として。

これは、する側を自由意志、される側を決定論ととらえれば、世界を二律背反の理論のいずれかで捉えようとする言語であり、態度である。

しかし昔の言語には、「する」と「される」の中間、どちらでもありどちらでもない、そんな言語表現があったという。これが中動態である。自由意志と決定論の中間的な表現方法を人間は持っていた。これはつまり、世界をそのように認識する余地があったとも言える。

しかし、民主主義の徹底と、肥大化し過ぎた自由意志はやがて中動態という言語表現をロストさせた。

言語は思考を縛る。もし我々が中動態の言語を復活させ、それを活用できるようになれば、自由意志の考え方にも変化が生まれ「自由意志があるともないとも言えない中間地点」という第3の解釈に実感をもたらす可能性がある。そしてそれは人間を真実に近づける気がしている。

21世紀初頭に中動態という言語表現に(特に日本で)注目が集まっているのは必然であり、決められた道であるように感じている。私たちは今、もう一度「言葉の力」を信じ直す必要に迫られている。

マーク・トウェインの人間機械論『What is Man?』

今から100年以上も前の1906年に、心理学的決定論の相似形となる思想が世間に発表されている。著者は『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』で有名なマーク・トウェインだ。

1835年生まれのトウェインはアメリカのベストセラー作家だったが、その晩年にこの本を匿名で発表している。それはこの本の思想があまりにも世間一般の常識とかけ離れており、危険思想として攻撃対象になることを恐れたからだった。

まして、トウェインは人道派とも言える熱い言葉を読者に投げかけ続けた人だった。浅薄な理解では、それらの言葉に対して真逆とも言える人間機械論。それを丁寧に解説し、真意である逆説的な幸福論を人々が受け入れてくれるには、余命が足りない。そんな風に思ったのかもしれない。

今年、この本をベースにした漫画本に対して、コラムを寄稿させてもらった。その漫画では老人と青年が対話する中で、人間の自由意志が否定され、人間は環境からの刺激の奴隷であり、自己中心的な欲望を実現するためだけに動く「機械にすぎない」ことが論証されていく。 人間社会には美しさなどなく、現実の欲望のみが真実の社会動機であるという非常に悲観的な人間観・社会観が堂々と展開されている。

だがしかし、トウェインの真意は、この絶望の先にあった。人間は絶望からスタートすることで、本当に歩き始めることが出来るのだ。

妹尾さんのコラムが掲載されています。

巨人の肩に乗った小人

私の考え方は特段新しいものでは無いことを知っておいてほしい。私がしたことは、彼の思想に最新の科学的な補強要素を与えただけのことだ。そして、その思想を現代風に少しだけアレンジし、難しい言葉ではなく誰にでも伝わる言葉で世間に問うただけのことだ。

どんな芸術家、作家、学者も完全なオリジナル作品など作れない。

例えば天才絵師の俵屋宗達の『風神雷神図屏風』は傑作中の傑作だが、この完全に独創的に見える構図やポーズも、三十三間堂の「風神雷神」木彫像と、鎌倉時代の「松崎天神縁起絵巻」から引用されたものだと考えられている。どんなクリエータも、過去の人間が積み上げたものにほんの少しだけ追加して自分の考えを足す程度のことしか出来ない。

学者は巨人の肩に乗った小人だと言われる。人類は少しずつ見える範囲を増やしてきたが、一人が増やせる視線の高さなどたかが知れている。私は読者を騙して、自分の考えを自分だけが到達したオリジナルな考えだなどと喧伝するつもりは全くない。むしろ私の本を契機により深く研究の歴史について興味を持って欲しい。

そして同時に、もはやサイエンスの必要性を感じていない。騙す側も”科学的エビデンス”を使う時代になった。誰かの役に立ちたい、共に考えたい。その気持ちだけに信じる価値が生まれる。そんな時代が来る。僕はそう信じている。(続く)

前著の解説動画の一つです。


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