人間は、そして生命は情報である―僕という心理実験Ⅵ 妹尾武治
トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmidt
妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。
過去の連載はこちら。
人間は、そして生命は情報である―僕という心理実験Ⅵ 妹尾武治
人間は自己情報量の総量を増やすために生きている
ダーウィン以降、適応度という概念がもてはやされた。簡単に言えば、ある個体のDNAをどの程度の割合で後世に残せるか・増やせるかという概念である。
今、もし我々が他者の脳内にある自分の情報の量を数値化して示せるとする。シンプルに「自己情報量」と呼ぼう。全ての人間の脳、場合によっては他の生物の脳(例えば飼い犬など)も含めた、自己情報量を算出することが出来るなら、人間はその自己情報量の総量を増やすために生きているのではないか。それが新しい意味での「本能」と言えるものになる。適応度が下がったとしても自己情報量の総量が増える行為であれば、人間はその選択をしうる。
※自己情報量の概念はリチャード・ドーキンスが1976年の著書『利己的な遺伝子』で提唱した概念「ミーム」(脳内に保存され、他の脳へ複製可能な情報)とほぼ同義だ。しかし、「ミーム」が多義的でありかつ広範な意味を持ちすぎる現状では、それを用いるよりも新しい言葉で定義を狭めておくことに意義があると判断し「自己情報量」と言う表現を用いている。
心理学者は脳内の情報を数値化する試みに取り憑かれて来た種族である。グスタフ・フェヒナーは感覚知覚の量をどうすれば数値に変換可能かを提案し、それ以降「心理物理学」が発展した。心理学者が求めて来たもの、数値化された形で人類の眼前に表すことを目指したものは、もしかするとこの「自己情報量」だったのかもしれない。
情報として考えれば、木も水も山も土も人間も犬も猫も、全ては等しい。どんなに醜い殺人鬼も、ノーベル賞受賞者や金メダリストも皆等しく情報に過ぎない(もちろんその量は異なるが)。
DNAの二重螺旋構造の解明でノーベル賞を得たフランシス・クリックは多くの人の脳内でこれからも生き続ける。凶悪な犯罪者も今後長く誰かの脳の中に残ってしまうだろう。人が罪を犯したり、意地悪を他者にしてしまうのも他者の脳内に自己をコピーしたいという本能によるものなのだろう。男児が好きな子に対して意地悪をしてしまうのも、適切で成熟した愛情表現を身に付けていない中で、その子の脳内に自分のコピーを残すための、やむに止まれぬ方法なのだろう。
一方で大半の人間の情報は、それほど長くは残り得ない。
そもそもフランシス・クリックだとしても、私だとしても皆さんだとしても、138億年という分母から見れば、その残り方の時間的違いなど、超微量の誤差にさえならないくらいの差だ。つまり全ての命は情報という観点で見ればほぼ等しい。
古来より仏教では世界は一つであるという。全てであり無であり「空」である、色即是空だと。それは「情報としての生命の等質性」を意味し続けて来たのだろう。あなたは身体を超えて、全てのものと繋がっている。(西洋的な知に傾き過ぎた現代人には、東洋の知への揺り戻しが必要だと言われることがある。しかし東西という概念すら邪魔になる。「僕らは同じ地球人じゃないか。」ジャン・ロック・ラルティーグ)
悪人正機説を主張した親鸞は、一部の特権階級だけのものになっていた仏教を広く一般の人たちへと広めていった。当時の仏教は、今で言えばサイエンスだろう。現代人は科学を信仰している。そして難しいサイエンスは、今一般の人には扱えないものになりつつある。
しかし世界の本質はごく単純だ。“皆平等であり全てが大切にされるべきだ”という、ただそれだけのことだと思う。
永遠の命とは、情報として残り続けること
人間は今、朽ちる炭素の体から金属のパソコン端末へ自己の情報を移そうとしている。情報としてより強く安定して残るためにだ。永遠の命とは情報として残り続けることであり、身体の永遠性の事ではない。
東京大学大学院工学系研究科の渡邉正峰准教授は人間の意識を機械へと移植することに本気で取り組んでいる科学者だ。映画『トランセンデンス』でジョニー・デップが演じたマッド・サイエンティストは、現在では決してマッドなどでは無いのだ。
驚くかもしれないが、生物の脳細胞の働きを機械へ移植することには人類は既に成功している。
線虫の一種であるカエノラブディティス・エレガンスは神経細胞がわずかに302個しかない。この全ての神経間結合を解析し、それをそのまま丸っと、ソフトウェア上で再現することに人類は既に成功している。この仮想の脳神経回路の活動でレゴ・ロボットを制御することにさえ成功したという研究報告がある。
人間の脳と規模こそ違うが理論的には同一のことが既に実現しているのである。意識のアップロードは遠い未来の話ではない。
Hondaの研究では、遠隔地の人型ロボットASIMOを脳波で制御する技術(ブレイン・マシン・インターフェースと呼ばれる技術)が開発されている。これ以外にも、脳波によって遠隔地のロボットアームを動かす技術は世界中で既に成功している。自分の脳の活動によって離れた身体を動かすことが既に実現出来ているのだ。
映画『アバター』では足が不自由な主人公が、自由に動けるアバターを手に入れ、自身の脳の活動によってそれを遠隔操作し、広大な大地パンドラを駆け巡る。物語の終盤で、主人公は元々の自分の身体を捨て、遠隔操作のアバターの方を自らの実体として、意識をアバターに注入する。
意識の内容を遠隔操作対象に移してしまうことは、既にHondaの研究を含めて人類は成功している。ALS患者さんの意識内容をAIや機械を通して、表出しやすくする技術の進歩も先進諸国で研究が進んでいるが、同一の考え方だと言える。
「どこでもドア」は手の届くところに
先の線虫の技術と、遠隔操作のブレイン・マシン・インターフェース技術が組み合わさることで、人間は自分の脳内の情報を瞬時に光通信によって、遠隔地に運ぶことが出来るようになる。これはドラえもんのどこでもドアと同じであり、それがもう手の届くところまで来ているのだ。
かつて、テレパシーと呼ばれていたものの一部は、電話によって実現された。携帯電話によって、世界中の人が気軽にテレパシーを飛ばし合う状況が生まれた。
一度当たり前だと思った技術は、超能力には感じられない。それはなぜか? 恐らく、人間には世界の本質が直感的に理解出来ているのだ。存在の本質は情報であり本当は物質には縛られない、と。
「どこでもドア」はまだ実現していない。しかし、それが本質的には成立しうる技術であることを我々は知っている。だから驚くほど自然に、従来は超能力とされていたものが、ごく当たり前のものとして受け入れられる。
「携帯電話とGoogle Mapがなかった時代、我々はどうやって海外旅行をしていたっけ?」
「ハチ公での待ち合わせって、どんなものだったっけ?」
「おじいちゃんが子供の頃は、東京から博多に行くのに6時間もかかっていたんだよ。」
「そんなバカな!今は1秒じゃん!」なんて未来は当然やってくる。博多用の身体と東京用の身体を用意出来れば、内側の精神(情報)は光の速度で移動出来るのだから。
「子どもの夢と願望はすべての人間の基本。」藤子・F・不二雄
(続く)