6:フェミニスト・パンクもオルタナティヴ・ロックも、ポストパンクが加速した——『教養としてのパンク・ロック』第32回 by 川崎大助
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第4章:パンクが死んでも、パンクスは死なない
6:フェミニスト・パンクもオルタナティヴ・ロックも、ポストパンクが加速した
かつて「女性」は主役になれなかった
多種多様なるポストパンクの動きのなかで、後世への影響という点で絶対に無視できないのが「女性アーティストの躍進」だ。たとえば2020年代の今日において、米英ポップ音楽界のメインストリーム領域で女性アーティストが大活躍しているのは「当たり前のこと」となっている。22年の11月には、ビルボードHOT100チャートの1位から10位までの全部をテイラー・スウィフトの新曲だけが占めるという、もちろん史上初の異常事態すら出来した(21年9月のドレイクが9曲までは達成していたのだが、抜かれた)。自作自演、自らプロデュースもビジネスのコントロールもおこなって大成功をおさめるような、ポップ界における最強者の位置にある女性アーティストは今日少なくない。
しかし元来のポップ界は、違った。そんな場所では、まったくなかった。そのほかの広い社会のほとんどすべてと同様に、女性は「主役」とはなれなかった。意思決定システムはすべて男性が支配して、女性は女性だというだけで差別され、搾取されるのが当然だとされていた。だから音楽産業界も、同質の構造にて成り立っていた。
たとえばエルヴィス・プレスリーは「若い女性の歓声や嬌声を集める」存在だった。つまり「モテる」男として、女性から投げ銭めいた収益を吸い寄せるマシーンだ。その状態を見た「若い男性」はエルヴィスにあこがれる。エルヴィスのレコードを買って学び、俺も女にモテたいからバンドを始める――となって「搾取」の構造が再生産されていく。もしくは女性には(もっと悪いことに)成功を夢見るだけで才能はないバンドマンを支える糟糠の妻となることを、一方的に求めたりする――といったものが「ごく普通」の光景だった。
ロカビリー時代の50年代から活躍した女性シンガー・ソングライター、ワンダ・ジャクソンのような例外も少数あったものの、ポップ音楽業界において女性パフォーマーは、基本的に「お人形さん」シンガーであることのみを求められた。おもに男性である「他者が作った」曲を歌わせられる人でしかなく、振り付けも服装も、まず最初に「男にとって喜ばしいもの」であることが絶対的な条件であり、決して逸脱してはならない戒律でもあった。何十年ものあいだ、これが「ごく普通」だった。
60年代、70年代と時代が下っても、キャロル・キングやジョニ・ミッチェルといった幾人かの才人が孤軍奮闘するばかりで、大枠にはさしたる変化はなかった。それに彼女たちサヴァイヴァーのほとんどはソロ・アーティストであり、「女性バンド」の影はきわめて薄かった。ベースを手に歌い高い人気を得たスージー・クワトロや、メンバー全員が若い女性であるランナウェイズといった「例外」もたまにはあった。これを「フェミニスト・パンクの予兆」ととらえる向きもある。だがしかし、ビートルズのように、ストーンズのように、あるいはセックス・ピストルズやクラッシュのように、ロック史に残る大冒険に身を投じては一定以上の成功をおさめた「ヒーロー集団」としての女性ロック・バンドなんて――いまとなっては、信じられないことに――70年代の「そのとき」まで、まったく誰の頭のなかにもなかった。実例のひとつさえも、なかった。
フィメール・ロッカー時代の幕開け
こうした一見「固まりきっていた」歴史に激震を与え、前提事項を一気に「ぶっ壊した」のもまた、パンク・ロックだった。あらゆる意味で「勢いに満ちた」女性メンバーのみで、あるいは女性を中心メンバーとして構成されたバンドが、我も我もと世の中に暴れ出たのが、ちょうどポストパンクの興隆と軌を一にする時期だったのは、偶然ではない。なにしろ既存の価値観のほとんどすべてに楯突くことやDIY精神は、そもそもがパンク・ロッカーの十八番だったのだから。それを「女がやって悪い」わけがない。かくして、きわめて先鋭的なフィメール・ロッカーたちがシーンで大暴れする時代が幕を開けることになる。
ザ・スリッツの名を、最初に挙げるべきだろう。「割れ目たち」――つまり女性器を意味する卑語を戦闘的にバンド名として掲げた、女性陣だ。76年にロンドンで結成された彼女たちは「世界最初のオール・ウィメンズ・パンク・ロック・バンド」だったのだと、ヴォーカリストのアリ・アップはのちに僕に語ってくれた。バンド結成時、アリは14歳。77年にはクラッシュの前座としてライヴに登場するものの、ようやくレコード・デビューに至ったのは79年9月だった。このときリリースされたアルバム『カット』のプロデューサーは、ポップ・グループも手がけたデニス・ボーヴェル。だから簡素かつとんがったパンク・ロックがレゲエと衝突しつつも「新しい流れ」として合一していくその斬新な内容が、高い評価を得た。またアルバム・ジャケットにフィーチャーされた写真もセンセーショナルだった。(これもポップ・グループのジャケットのアサーロ族のように)フンドシだけを身に着けたメンバー3人が全身に泥を塗ったくって屹然と立つその裸像に、世の大衆は衝撃を受けた。
そこにザ・レインコーツが続いた。スリッツとの最大の違いは「徹底的なDIY精神」だ。ヘタウマというよりも、ヘタヘタかもしれないスカスカした音が「でも、そこがいいんじゃない? なんか自由な感じするし!」といったような。こうしたあっけらかんとした価値観が、旧態然としたロック・ファンの度肝を抜いた。童謡のような、子供が描いた絵本のような、しかし「破壊力抜群」のポップは、この後長く続くインディー・ポップ界隈の流儀および態度の標準型となった。これをたった1枚で決定づけた彼女たちのセルフ・タイトルド・デビュー・アルバム(79年11月)をリリースしたのは、ラフ・トレードだった。
男性パンク・ロッカーはフェミニスト?
当時の男性パンク・ロッカーの大勢が、いかほどフェミニストだったのかは、よくわからない。セクシスト呼ばわりされる者が少なからずいたことだけは、間違いない(ロックンロールの悪しき伝統とは、そういうものだから)。そんななか、スリッツをサポート起用したクラッシュのみならず、ピストルズのほうも「女性パンク・ロッカー」にとても親和的だったことは特筆されるべきだろう。たとえば(伝記ドラマ『Pistol』の内容ほどではないが)プリテンダーズのクリッシー・ハインドはピストルズ・メンバーたちと親しかった。またシド・ヴィシャスが「運命の恋人」となるナンシー・スパンゲンと出会うまで童貞だったという説もよく聞く。ジョン・ライドンの妻はアリ・アップの母親であるノラ・フォスターだ。ライドンは14歳年上の彼女と、79年よりずっと仲睦まじく寄り添い続けている。2020年、ライドンはノラがアルツハイマー病を発症していること、つねに自分が側にいてフルタイムの介護をしていることをメディアに明かしていた。愛があるから当然のことなのだ、と(介護そのものは、のちに複数人による体制へと変化した)。
ジョン・ライドンが、未来においてもなお貫き通す「愛のかたち」を手に入れたのも、パンク・ロックとポストパンクの暴風雨が吹き荒ぶ真っ只中だったわけだ。あの大騒動の「主役級」が当時こんな感じだったことと、同じタイミングで女性ロッカーが次から次へと決起していったことのあいだには、浅からぬ関連性があったと僕は考えている。女は使い捨て、グルーピーをとっかえひっかえ、なんていう男根主義的ロックンローラーのステレオタイプをも、ごく自然に、パンク・ロッカーたちは打ち砕いていたのだ。
極右集団からの攻撃
スリッツ、レインコーツに続いたのは、モデッツ、ドリー・ミクスチャーたちだった。さらには全員が女性ではないけれども、ヴォーカリストなど女性をメインに押し立てた編成ということで、バーミンガムのオー・ペアーズ、ウェールズはカーディフのヤング・マーブル・ジャイアンツらも静かな話題を呼んだ。これら全員、決して大きなヒットを飛ばしたわけではなかったものの、かなりの確率で「聴いた者には、衝撃を与える」ようなレコードをリリースしては気を吐いた。
リーズにて79年に結成されたデルタ5もそんな猛者のひとつだった。しかし女性3人で男性2人という編成の「ポストパンク・バンド」が生き抜いていくには、そのころのリーズは、決して理想的な場所ではなかった。というよりも、かなり最悪に近い「戦闘の最前線」だった。
ブリティッシュ・ムーヴメント(BM)なる極右集団の拠点のひとつが、リーズだったのだ。この組織は、ナショナル・フロントどころではない、あからさまな「ネオナチ」だった。リーズではこの者たちが、あろうことかピストルズの「ノー・フューチャー」を勝手にパクって、意味をすり替えては「共産主義的バンドを排撃する」ために使用していた。こんな奴らがのさばると、イギリスに「未来はなくなる」からという理由で、襲撃者を募っては敵(左翼系の学生やバンドなど)に襲いかかっていたのだ。このBMはもちろん人種差別主義者で男性優位主義者でもあり、ゆえに、リーズ大学に通う友人同士が中心だったポストパンク勢にとっては、非常に危険な集団だとも言えた。ギャング・オブ・フォーは共産主義者みたいだったし、ザ・ミーコンズも同様で、デルタ5はイギリス版堕胎禁止法であるコリー法案に反対する集会やチャリティー・イベントに積極的に参加していたからだ。
「そういったことすべてがデルタ5の音楽に入りこんでいる」と同書著者のグリール・マーカスは記している。アマチュアっぽい、学生っぽい、ときには子供っぽく感じられるような手触りの「インディー」音楽であったとしても、これは「遊びではない」のだ。ポストパンクの最前線とは、ある意味パンク・ロックやハードコアのそれよりもずっと厳しい、まさに「戦場」と呼ぶべき場所だった。しかしそこで一歩も引かない者こそが――当たり前だが――のちの世に「ヒーロー」と称えられるだけの足跡を残せる、場合もある。この時代のポストパンク・フェミニストたちの激闘に次ぐ激闘こそ、その称号に値するものだったに違いない。
メジャーシーンでの動き
一方でまた、プリテンダーズ、X・レイ・スペックス、もちろんスージー・アンド・ザ・バンシーズといったメジャー領域での成功者も忘れてはならない。アンダーグラウンドとオーヴァーグラウンド両方でのポストパンク女性陣の闘いは、もちろん広い世界に波及していった。80年には2トーンから女性7人組のザ・ボディスナッチャーズもデビューした(そしてすぐにザ・ベル・スターズになった)し、元祖キャバレー・ヴォルテールが所在したスイスはチューリッヒ出身のリリパット(元の名をクリネックス)も名曲を残した。
アメリカでは80年代に入ってすぐに女性ロッカーがヒットを連発するようになる。元ランナウェイズのジョーン・ジェット(「アイ・ラヴ・ロックンロール」)やゴーゴーズ(「ウィ・ガット・ザ・ビート」)らのヒットは、ポストパンク女性軍団が暴れまくっていたことからの遠い反響が影響したのだと僕は考えている。
ポストパンク女性バンド陣の足跡は、21世紀の今日においてもなお、若き女性ロッカーたちにとっての道標、ガイディング・スターとなっている。ロサンゼルスのポストパンク・リヴァイヴァル女性3人組バンド、オートマティック――ドラマーのローラ・ドンペはバウハウスのドラマー、ケヴィン・ハスキンスの娘だ――は、デルタ5の「マインド・ユア・オウン・ビジネス」を2019年にカヴァーしている。シカゴ出身のこちらも女性3人組、2022年に全員10代の状態でアルバム・デビューしたインディー・ロックのホースガールは、メンバー個々のフェイヴァリット・レコードとして、リリパットのコンピ盤『クリネックス/リリパット』やヤング・マーブル・ジャイアンツの『コロッサル・ユース』などを挙げていた。
「ライオット・ガール(Riot Grrrl)」運動
もうひとつ、80年代のアメリカには重要な流れがあった。正真正銘、徹頭徹尾の「フェミニスト・パンク・ロック」シーンの誕生へと向かっていくベクトルだ。
このころのUSハードコア・シーンは、あらゆる意味で著しく「マッチョ化」していた。ライヴ会場のどこを見てもむくつけき「男ばかり」で、大音声のもと、暗闇のなかで筋肉と筋肉が衝突し、汗と汗が混じり合って蒸気になっているような――「ただそれだけ」になっているような体育会的な状況に「対抗」するところから生まれたのが、「ライオット・ガール(Riot Grrrl)」運動だった。90年代における、フェミニスト・パンクの一大ムーヴメントだ。中心バンドのビキニ・キルを率いたキャスリーン・ハンナ――のちにレ・ティグラを結成、ビースティ・ボーイズのアドロックのパートナーとなり、彼の世界観にも大きな影響を与えた――彼女がまだオレゴン州ポートランドに住んでいたころ、ひどく幻滅する出来事があり、そこからアイデアのもろもろが生まれていったのだという。
そのときハンナは、とあるパンク・ロック・バンドのライヴに行ったのだが、とてもまともに観ていられるものではなかった。なにしろ、場内のそこらじゅうで「男どうしが殴り合っているばかり」だったから……たしかに、ヘンリー・ロリンズやミスフィッツのグレン・ダンジグみたいな体格の若い男が何十人も飽きずに暴れ続けているようなライヴ会場、僕だってできれば立ち入りたくはない。
そんなところから「ならば、自分たちでやればいい(=DIY)」とハンナは気づく。そして90年にビキニ・キルは生まれた。もちろん「フェミニズムを歌う」ために。そして91年、彼女たちも一部となって始まった運動が、ライオット・ガールだった。ワシントンDCとオリンピアにて「女性だけ」が集い、パンク・ロック・シーンに蔓延する性差別に対抗するための会議を開いたのが最初だ。そして女性同士がフェミニズムやパンク・ロックについて研究し語り合い、お互いに助け合うという、ひとつの潮流が生まれた。「ライオット・ガール」系と呼ばれる、フェミニスト・パンク・ロック・バンドの数々だ。また、なにからなにまでDIYだったので、レーベルやファンジン、カレッジ・ラジオなど「友人のネットワーク」をベースにそれぞれが連携し合って、かくあるべきフェミニズム・パンクの音楽シーンを、文字どおり「いちから」手作りしていった。ビキニ・キルに続いて、ブラットモービル、スリーター・キニー、チーム・ドレッシュなどが活動を始めた。
パンク・ロックが「アメリカのメインストリームを制した」歴史的瞬間
そんなライオット・ガールたちの人的ターミナルとなった場所のひとつが、米西海岸はワシントン州のオリンピアだった。同地にあるエヴァーグリーン州立大学は、女性学やジェンダー研究、環境学などで知られる大学であり、80年代後半、キャスリーン・ハンナはここで学んだ。同大にはさらなる名物がひとつあり、それが〈KAOS-FM〉と名付けられたカレッジ・ラジオ局だった。もっとも出力は1250ワットもあったから、日本で言うならばコミュニティ・ラジオ(原則20ワット以下)規模ではなく、ほぼ県レベルで受信可能なFM放送局ぐらいのパワーはあった。このステーションに、ハンナが入学するずっと前の77年、15歳にして出入りする「低い声の」少年がいた。のちに同大に入学する彼が、アメリカのインディー界に「この人あり」と呼ばれることになるアーティストにしてレーベル運営者、キャルヴィン・ジョンソンだった。そして彼のレーベルである「Kレコーズ」のロゴが、あのニルヴァーナのカート・コベインの左前腕に刻まれることになる。
80年代後半から90年代初頭、コベインはオリンピアによく出没した。ジョンソン周辺のインディー人士と交流し、ともに件のラジオに出演もした。さらにコベインは、同じくオリンピアに所在するインディー・レーベル「キル・ロック・スターズ」からレコードをリリースしていたビキニ・キルのドラマーであるトビ・ヴェイルとデートした。このヴェイルは、「ライオット・ガール」の特殊な綴り(Grrrl)を考案した人でもあった。だからコベインは自然とキャスリーン・ハンナとも親しくなった。そしてある夜、ハンナがコベインの部屋の壁に勝手に落書きしていった内容が、ニルヴァーナにとって、いや「オルタナティヴな魂を宿したロック」にとって、史上空前のヒット曲へとつながった。
ハンナはこう記していた。「カートって『ティーン・スピリット』みたいな臭いがするよね」――この「ティーン・スピリット」というのは、ティーン少女向けの安価な制汗デオドラント・スティックの商品名だったのだが、もちろんコベインは、そんなことは知らなかった。ハンナがなぜこう書いたのか、その理由も彼はよくわからなかった。コベインからは本当に、そんな臭いがしたのか(件の製品からは「キュート&ガーリー」な香りがするタイプもある)。それともハンナは「あなたって、まるでティーン女子みたいな」かわい子ちゃんだよねえ、とからかったのか――そこはまったくわからない。ただコベインの脳内には、この「言葉の響き」が残っていた。そして「素晴らしくいい曲」が出来たと思った彼は、ハンナの落書きそのままをタイトルに採用して、歴史が生まれた。「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」(名曲ベスト100にランクイン)が、そこに誕生した。
そしてご存じのとおり、このナンバーおよび収録アルバム『ネヴァーマインド』(91年、名盤ベスト100にランクイン)の、すさまじいまでの大ヒット、大流行によって「80年代に支配的だったポップ音楽」のほとんどすべてが吹っ飛ばされてしまう。オルタナティヴ・ロックの大流行という、まるで語義矛盾みたいな事態が出来、元来は「とにかくアンダーグラウンドに冷たかった」アメリカのポップ音楽界がなんと震源地となって、その波濤は全世界を席巻していく。「スメルズ・ライク~」はビルボードHOT100の6位にまで上昇。92年1月には、ついにアルバム『ネヴァーマインド』が全米1位を記録する。つまりこれが、広義のパンク・ロックが「アメリカのメインストリームを制した」歴史的瞬間だった。この事件を前にして、あのジョン・ライドンまでもが快哉の声を上げた。シアトル・タイムズ紙上で、彼はこう述べていた。「俺らやクラッシュ、ほかの誰もなし得なかった快挙だ」と。
【今週の12曲】
The Slits - Typical Girls
The Raincoats - No Side to Fall In
Dolly Mixture - Dream Come True
Young Marble Giants- Wurlitzer Jukebox
Delta 5 - Mind Your Own Business
Kleenex - 'Beri Beri' + 'Nice' (1978)
Automatic - NRG
Horsegirl - "Anti-glory" (Official Music Video)
Bikini Kill - Rebel Girl
Sleater-Kinney Dig Me Out @ 924 Gilman Punk Prom 5/30/97
Beat Happening - Indian Summer (Official Video)
Nirvana - Smells Like Teen Spirit (Official Music Video)
(次週に続く)