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本当の「多様性」とは、平均値から大きく外れた異端をも内包すること―僕という心理実験24 妹尾武治

トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmid

妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。

過去の連載はこちら。

第2章 日本社会と決定論⑯―僕と少年Aは地続きだ

透明な存在

「今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。」
 
酒鬼薔薇聖斗事件で、少年Aは自分を透明だと言った。
 
自分を透明と表することの意味。これがわかるか、わからないか。もし全くこの言葉が理解出来ない(例えばただの厨二病だと切り捨てられる)ならば、あなたはある程度幸せに生き続けられるだろう。反対に今まさに自分も「透明だ」と感じている人もいるだろう。
 
私もそうなのだ。僕と少年Aは地続きだ。そのことが恐怖となって、毎夜襲ってくる。自分の中の透明性、少年A的な要素。これに怯えて過ごしている人。自分で自分を殺す必要に怯える人。祖母の書棚の一番手に取りやすい所に、少年A関連の本が3冊並んでいた。彼女もまた自分の中の異常性に向き合い、怯えて来たのだろう。そして、何かは連鎖した。
 
自分の「透明さ」が小さ過ぎて気が付かない人。それを意識せずとも黙殺出来る人は幸せだろう。おそらくはマジョリティとして人生を謳歌出来るだろう。しかし、なんらかの作用で脳を歪められ、それでもなんとか生きていきたい人の中には、黙殺出来ない大きさの透明な自分がいるはずだ。

いや「透明な自分」というよりも、自分の体が部分部分で透けているような感覚を覚えているのではないだろうか。

僕は、両手両足ははっきりと見えるが、腹部に透明な自分を見出してしまう。そういった部分的に透明な人間を社会が寛容に受け入れることが出来たなら、この世界はもっと「楽な」ところになるだろうに。
 
かつて少年Aと呼ばれた男性が、今、自分の透明性をどのように評価するのか。とても聞きたい。それは社会にとって極めて有益な情報になりうると思う。あれから25年が経過している。
 
本当の意味での多様性とは、マジョリティが想像出来ないほどの異端を内包することである。マジョリティ側の人間が、隣にいてほしくない、はっきり言って「死んでほしい」「消えてほしい」人間と共に社会を構成出来るのか?

現在、社会が掲げている「多様性の時代」なんて、本当の意味で多様なんかではないのかもしれない。朝井リョウ著『正欲』について触れながら、この点の議論を深めたい。

朝井リョウ 『正欲』

朝井はこの小説で「想像を絶するほど理解し難い、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、マジョリティ側はしっかり蓋をする」と述べている。“多様性”はそんな人たちがよく使う言葉だと。マジョリティは、常に自分が受け入れる側という前提を敷いており、マジョリティの言う“多様な存在を理解する”とは、
 
「我々まとも側の文脈に入れ込める程度の異物かどうかを確かめさせてね」
という意味だと朝井は主張する。「多数派であるということに安住し自分について考えない、自分の存在を疑わないおめでたい存在がマジョリティである」と。
 
自分の想像力の外にある“多様性”には気がつけないし、気がついたら抹殺しにやってくる。
「自分が想像できる多様性だけ礼賛して、秩序を整えた気になって、気持ちよくなる。」
「どんな人間だって自由に生きられる世界を!ただしマジヤバいやつは除く!」
 
朝井は人間を二つに分けるとき「明日死にたくない人」と「明日死ぬかもしれない人」という概念を持ち出した。「無敵の人」(失う家族や財産がないことから、犯罪を行う抑制的な要因が無く、極めて残忍な行為が可能であるとされる人物を指す、ネットスラング)は後者であろう。僕は、どちらかと言えば、後者に属していた。だからこの世がとても息苦しかった。毎日を積み重ねていけなかった。
 
なるべく静かにしているし、薬も飲んでいる。恐怖を与えないように日々注意を払っている。道では向こうから来る人のラインに乗らないように左右に移動する。マンションの扉も出来るだけ静かに閉めている。エレベーターも同乗しないようにしている。周りに嫌われぬように、心理学を沢山学んで来た。それでも悪夢のせいで、深夜に大声で叫んで飛び起きてしまえば、一気に全てがおじゃんだ。許してほしいという気持ちで、また同じ修行を1からやり直す。
 
異常犯罪者側の人間がギリギリの淵で、それでもまだ正常者側にいるつもりなのだ。否、異常性を喧伝しながら、正常者と異常者の両者に対してのマウントを取っているのだ。これはそういう連載だ。

「私は寺の中で狂人扱いされている様な主観的考へを持ったこともありました。私は自分はつまらぬ人間だといふ事を感じ乍も、亦英雄だという人よりは偉い自分だといふことも時々考へが起こるのであります。」

林養賢

1950年7月3日 金閣寺放火事件 第3回供述書より

朝井は脳を聖域だという。つまり何をどう感じ・思い・考えても誰にも手出しされないはずの場所だと。例えば唯識という引き出しを持つこと、自分が神であるという考え方の引き出しはあなたを守ってくれるだろう。そして、その考えは侵されてはならない。
 
『正欲』の主人公は「社会を恨むことにもう疲れた」「私は私が気持ち悪い」と言う。異常者とされた人間が最期に示す過剰な暴力は、彼らがそれだけマジョリティ側から殺されかけ、日々恐怖を抱いてきたことと表裏一体なのでは無いだろうか?
 
心理学的決定論
これ以上、誰かを傷つけない自分を一日でも早く実現するために。


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