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Q10「パンクにはなぜ『敵』がいるのか?」——『教養としてのパンク・ロック』第14回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第1章:なぜなにパンク・ロック早わかり、10個のFAQ

〈11〉Q10「パンクにはなぜ『敵』がいるのか?」

悪いのはパンク側 

 平たく言うと、これはほとんど「パンク側のせい」だと言える。まず(1)自らの姿勢や態度のせいで「次から次へと敵を増やした」から。(2)そもそもが「許せない敵がいたゆえに」反発心を胸に立ち上がったのがパンクスだったゆえ、態度が悪くて当然だったから――このふたつについて、説明しよう。

 前述したとおり、とくにロンドンで、テディ・ボーイズがパンクスを敵視していた。なかでもとくにセックス・ピストルズが、さらにはジョニー・ロットン(ライドン)が「とくに」目の敵にされて、幾度も襲撃された。テッズに代表される右派の不良とパンクスの対立は、60年代のロッカーズ対モッズの抗争よろしく、大衆紙ダネになる乱闘事件を何度も引き起こした。テッズに続いて、スキンヘッズもパンクスと対立した。

 と、こんな様相になってしまった最大の理由は、そもそものパンク側の「態度が悪かった」ことが大きい。なにかと喧嘩腰で、存在そのものが挑発的だったからだ。なぜならば、まず最初に自らの側に「反発する」精神や態度があってこその、パンクスだったから。「いま現在」目の前にあるもの、そのあれやこれや――あるいは、そのほとんど全部――に「NO」を突きつけるところから始まったのが、パンク・ロックだった。だからつまり、70年代の中盤において、アメリカやイギリス、とくにニューヨークやロンドンに「ごく普通に、いっぱいあった」ものに対して、パンクスは強く反発した。

 つまり、自分の側から「敵を作っていた」わけだ。ゆえに、そんな態度が気に食わないんだよ!――と、たしかに保守層ほどムカついて当たり前。かくして、まわりじゅうから攻撃されていたのが、オリジナル・パンクスだったと言える。とくにイギリスにおいては、その傾向が強かった。

 「労働者階級の反乱」

 そうなった理由は、ブリティッシュ・パンクスの出自からの影響を無視できない。ひとくちに言って、イングランドのパンク・ムーヴメントは「労働者階級の反乱」だと見なせる部分が大きかったからだ。これを僕は、大袈裟ではなく、1381年の「ワット・タイラーの乱」の大衆文化版ではなかったかと考えている(だからピストルズには、女王を「口撃」しなければならない必然性があった)。ワット・タイラーの乱(Wat Tyler's Rebellion)―― Peasant's Revolt=小作人の反乱とも呼ばれる――とは、百年戦争やペストなどで疲弊したイングランドにて、人頭税徴収に対する怒りを契機として農民が蜂起した大反乱で、最終的にはロンドンを占拠するにまで至った。指導者である神父のタイラーは王であるリチャード2世と直談判まで果たして、同国における農奴制を永遠に終わらせる端緒となる歴史的功績を残した(が、二度目の会見中に斬殺された)。

 70年代の英パンク・ロック躍進の立役者となった層には、労働者階級の家に生まれた者が多かった。たとえばジョン・ライドンは、アイルランド系労働者の家庭に生まれた。貧困と言っていい時期もあったようだ。しかしカトリックの学校に入れられて、そこで厳格なシスターに「罰」を受けたりしているうちに――のちの「パンクスとしての燃料」をせっせと仕込むことになった。だから彼のレコード・デビュー第一声、「アナーキー・イン・ザ・UK」における最初のライン「俺はアンチ・クライストだ!」というところには、かなりの度数で、伊達ではない怨念すらこもっていた。

 この時代、クラッシュのジョー・ストラマーのように労働者階級出身ではないパンク・ロッカーもいるにはいたが、ライドンが演じていた「ジョニー・ロットン」のキャラクターが、初期ブリティッシュ・パンクの典型例となったことは間違いない。つまり「労働者階級」かつ、「怒れる若者」だということだ。さらに彼の場合はここに「アイルランド系の」というただし書きも付く。ゆえにライドンは、複合的な意味で「被差別的立場にあった」と言うことができる。労働者階級(1)であり、アイルランド系(2)だったから。

  イギリスの階級制度は、当事者以外にはよくわからない点が多い。大雑把に僕は、江戸時代の日本の士農工商の区分と似たものとしてとらえている。幕末の日本では「農」つまり百姓が人口の8割を占めたというが、イングランドにおいては、各種の統計によると人口のだいたい半数から6割が「自分は労働者階級だ」との認識があるという。そのすぐ上には中流層があり、さらに上には上流層がある。一番上はもちろん王室で、そのすぐ下に貴族階級がある。

 労働者階級とはつまり無産階級、プロレタリアートであり、単純労働者や職人層が多い。19世紀の産業革命期直後、マンチェスターの労働者のあまりに悲惨な境遇を目にしたフリードリヒ・エンゲルスが、のちにカール・マルクスとともに『共産党宣言』を書いてしまうほど、その階層は重すぎる宿命を背負わされていた。エンゲルスは「マンチェスターでは、労働者の子供の57%以上が5歳未満で死亡している」と『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845年)に記している。1830年代末、マンチェスター、リヴァプールなど工業都市における労働者階級の平均寿命は(注:平均年齢ではない)、15歳から19歳という信じられないほどの低さだった、という。一方、農村に住む地主階級の平均寿命は50歳から52歳で、都市部の労働者階級とは大きな開きがあった(日本大百科全書(ニッポニカ)産業革命の項より)。

 つまり、これほどの「歴史的残虐」からの生き残りこそが、イングランドの労働者階級の子供たちだった、わけだ。そしてこの層こそが、元来、イングランドのロックの主力を担ってきた。それはビートルズを見ればわかる。

アイルランド系という桎梏

 ビートルズの4人のうち、ジョン・レノンを除く3人がリヴァプールの労働者階級の家庭に生まれた。レノンは中流と分類される生まれだったのだが、家庭環境の複雑さもあって、メンバーのなかで誰よりもツッパリ度数が高かった、と言われている。さらには、レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンの3人には、アイルランド系の血脈があった。リンゴ・スターにもアイリッシュ系の先祖がいた、という近年の研究報告もある。

 アイルランドとイングランドの関係は、ひとことで言うと、後者による前者への、絶え間のない蹂躙と搾取、弾圧と差別の歴史にほかならない。イングランド人によって、まるで奴隷のごとくひどい扱いを受けていたのがアイルランド人であり、あらゆる意味での理不尽な暴力が、まるで焼き印のように加えられ続けた。だから武装蜂起および闘争は続き、1921年にアイルランド自由国が分離したあとは、残された北アイルランド解放に向けての戦いが焦点となった。そしてパンク勃興時の70年代から、IRA(アイルランド共和軍)の爆弾テロが先鋭化した。北アイルランドでの激しい闘争のみに止まらず、英本土(ブリテン島)にも攻撃を拡大。ロンドンの鉄道爆破を始め「イングランド市民への攻撃を強化する」という宣言がなされたのは、ピストルズがデビュー・シングルを出したのと同じ年、76年の3月13日だった。そこから先は、98年のベルファスト合意が成立するまでは、たとえばロンドンで地下鉄に乗ったならば「不審物を見かけたらご一報を(=爆弾かもしれないので)」というサインが、乗客にとってお馴染みのものとなっていた。

 こんな背景のもとで「燃え上がって」いたのが、イングランドのパンク・ロックだったわけだ。だからその姿勢を目にした他者(おもに保守思想の持ち主)から、目の敵にされて攻撃されていたと言える。ふたたび日本に置き直して言うと、日本における在日コリアンや沖縄出身者のような出自(たとえばアイルランド系など)で、かつ、江戸時代であれば「百姓」に分類されるような家庭に生まれ育った(か、江戸住まいの職人長屋に生まれた)若者(=労働者階級)が、パンク・ロックの主力を成したわけだ。そもそものイングランドのロックを盛り立てていた層と同様に。

 しかしところが、たとえばビートルズが「売れてしまった」瞬間に、こうした様相は大きく変化する。中流も含む多くの人々が、我も我もとバンドを組み始めるからだ。高学歴のバンドマンも増えてくる。70年代にもなると、中流の家庭に生まれ、大学を卒業して、それでロック・バンドとして成功しているイギリス人アーティストが、なんと「主流」となっていて……そこに加えられた、強烈きわまりない「揺り戻し」こそがブリティッシュ・パンク・ロックだったのだ、と言うことができる。労働者階級の「反撃」だったのだ、階級闘争だったのだ、と。

 アメリカにおいては、そもそも前述のような階級構造が存在しないので話が違うのだが、ラモーンズについて述べたとおり、たとえばWASP層や共和党支持者「ではない」ところから吹き出してきたという点で、やはり遠からずの様相はあった。のちにはリベラル学生も多く参入してきたものの、初期の段階ではあくまでも「ストリートから」火の手が上がったのだという点も。

「長いもの」は敵

  と、このような大枠があった上で、ではパンクスは具体的に、いったいどんなものを「敵認定」していたのか、という点について見ていこう。思いつくままに列記してみると……。

 だいたいにおいて「長いもの」を、嫌った。音楽ならば、長い曲。長いギター・ソロ。それ以外の楽器のソロも全部、嫌った。長い髪も、嫌った。「広がっているもの」も嫌った。ベルボトムなど、パンツの裾が広がっていることを、嫌った。だからヒッピー経由のスタイルが全般的に嫌悪された(ヒッピーとは、そもそもの出自が「中産階級そのもの」だったからだ)。ハード・ロック、ヘヴィメタルもパンクスから嫌われた。プログレッシヴ・ロックは、もちろん大いに嫌われた……というよりも、なによりも、「パンクが登場した瞬間」に世間に存在したロックを大雑把にひとからげにして「オールド・ウェイヴ」と呼んでは切って捨てる態度が、パンクスの基本だった。

 つまり、こういった「切り捨てられる側」の様式や態度に属する人々や組織が、パンクスから「敵」として認定されたわけだ。旧態依然の「体制側」である、として。

 といっても「例外」はあった。ラモーンズの長髪は当然ながら嫌われなかったし、ジャーマン・ロック寄りのボウイのベルリン三部作も、嫌われなかった(とにかくボウイは、別格の存在として影に日向に崇拝されていた)。レッド・ツェッペリンは、微妙だった。ラモーンズは、じつはツェッペリンを好んでいた。ビートルズも大好きだった。ベイ・シティ・ローラーズももちろん、好きだった……でも、自分たちで「やれること」には、限界がある。そこで「やれることだけ」を凝縮して、それ以外のところは全部捨てて、そして「あのシンプルなスタイル」が完成したのだという。

 つまりパンクとは、一種の「みそぎ」めいた感覚に基づいた哲学的生活態度だった。それまでのロック文化にまとわりついてきた贅肉をすべて「削ぎ落とす」こと。「骨だけ」になったそれを、尖らせまくること。あまりにも削ってしまったため、血が流れたとしたら、それで字や絵を描いてみればいい(という行為を、実際にやる人も多くいた。カミソリを用いてステージ上で、自分の裸の胸などを切り刻んだ)――およそこういった意志のもと、宗教改革のように、ルネサンスのように、農民反乱軍のように、ロックンロールの大森林に火を放っては一度全部焼き尽くし、その灰のなかから、清く美しく「新しい」生命が湧き出てくることをじつは切望していた、のかもしれない。

 パンクスが「敵視」したロックスターたち

 ではパンク・ロックが世に出てきた1976年から77年あたりに「広い世間」で好まれて、ビッグ・ビジネスとなっていたロック/ポップ音楽とは、具体的にどんなものだったのか? 最初期のパンクスが文字通り「敵視」していたロックスターたちを、アルバム・ベースで見てみよう(以下、視認性を高めるために邦題を中心に記す)。

 この時期全般、とにかく売れていたのはフリートウッド・マックの『噂』だった(77年2月発売)。ロッド・スチュワートは76年6月に『ナイト・オン・ザ・タウン』を、翌77年11月には『明日へのキック・オフ』を出した(さらに、あろうことか78年11月には『スーパースターはブロンドがお好き』まで出してしまう。「アイム・セクシー」が入ったあれを)。クイーンは、75年秋から76年初頭にわたる「ボヘミアン・ラプソディ」大ヒットの余韻も冷めやらぬまま、76年12月に『華麗なるレース』を、77年10月には「ウィ・ウィル・ロック・ユー」や「ウィ・アー・ザ・チャンピオンズ」が入った『世界に捧ぐ』をリリースした。76年のキッスは『地獄の軍団』で、ボストンは『幻想飛行』で、ジャクソン・ブラウンは『プリテンダー』で、ピーター・フランプトンは『フランプトン・カムズ・アライヴ!』で、しかし、なんと言ってもアバの『アライヴァル』がすさまじかった(76年10月。「ダンシング・クイーン」を収録)。そして12月にはイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』までもが登場してしまう。

 77年の幕開けを告げたのは、ピンク・フロイドの『アニマルズ』(1月)だった(ジョン・ライドンが「俺はピンク・フロイドは嫌いだ(I Hate Pink Floyd)」と書かれたTシャツを着ていたせいでピストルズに誘われた話は有名――なのだが、これには後日談が。のちほどくわしく)。同77年には前述『噂』以外にも、邦題漢字系ではスティーリー・ダンの『彩(エイジャ)』があった。『太陽神』はアース・ウィンド・アンド・ファイアーだ。ビリー・ジョエルは『ストレンジャー』で、エレクトレック・ライト・オーケストラは、76年の『オーロラの救世主』に続き77年には『アウト・オブ・ブルー』まで出してしまう全盛期。そして77年11月、あの『サタデー・ナイト・フィーヴァー』のサントラ盤が発売されてしまって、世の中もう、ディスコのことしか考えていないような状態に――。

 というあたりを全部、最初期のパンクスは敵視したわけだ。つまりこれほどまでの「強者」たちに、なんというか徒手空拳以下で立ち向かっていった。

 なぜならば「これは、違う」と思ったから。強い反発を、感じたから。腹が立ったから。血管に直接エネルギーをぶち込んでくれるような「本来のロック」からほど遠い、巨大産業に庇護されて、工業製品のように市場に並べられ、生命力を欠いた、ただの模造品を延々複製したものだとしか思えなかったから。「体制側」に取り込まれ、人畜無害であることを聴き手に強要する「堕落の尖兵」に見えたから。

 そんなパンクスたちの、向こう見ずどころではない、まさに全員で連続して間断なくカミカゼ攻撃を繰り広げているかのような一大決起のありさまを、次章からは、時間軸に沿って観察していこう。

【今週の4曲】

 

Dreams (2004 Remaster)


パンクの敵ナンバー・ワンだったかもしれない。なにしろ売れた。売れ続けた。フリートウッド・マックの頂点であるアルバム『噂』より、スティーヴィー・ニックスに(今日まで同じイメージのままに続く)永遠の命を与えた大ヒット・チューンがこちら。 

 Abba - Dancing Queen (Official Music Video Remastered)

アバのこっちも売れた。2021年には本人たちがアバター姿でステージに復活してしまうぐらいの(つまり未来においても、そこまでの巨大資本を動かせるほどの)人気を得るに至った絶頂期の、なかでも屈指のヒット曲。ディスコでも大人気。

Eagles - Hotel California (Lossless Audio)

70年代のアメリカ、ウェストコースト・ロックの頂点にして極北。髪も髭も長く、曲も長い。そしてロック史に残る名曲であり、一大ヒット曲。パンクの敵というか、巨大な「壁」だったのかも。

Bee Gees Stayin Alive (Extended Remaster)

そして世間の「ディスコ景気」を決定づけたのがビー・ジーズのこの曲――というよりも、動画にも出てくる映画『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』だった。もちろんパンクスはディスコも敵視した。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

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