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6:パンク・ロッカー1977、怒涛のデビュー列伝——『教養としてのパンク・ロック』第20回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第2章:パンク・ロック創世記、そして、あっという間の黙示録

6:パンク・ロッカー1977、怒涛のデビュー列伝

 1977年、セックス・ピストルズが嵐を巻き起こしていたころ、英米ともに、数多くのパンク・バンドが動き始めていた。なぜならば、観客どころか傍観者の少なくない数に「俺にも/私にも、できる」と思わせるのが、パンク・ロックの一大特徴というものだったからだ。60年代の英米におけるバンド・ブームとは比較にならないほど、参入の際の「ハードルが低く」見えたところもポイントとなった。

 こんな印象が強かったからだ。パンク・バンドには「あまり楽器が上手くない」者が多いように見えた(じつはこれは、誤解なのだが)。さらには「一瞬の簡単な思いつきで、そのままバンドを始められる」ようにも、見えた(こっちは正解だった)。かくして「自分でやんなよ(Do It Yourself)」の大波が、多くの未経験者たちに楽器を手に取らせることにつながって、パンク・ロックおよび、関連する音楽性のバンドの大量発生時代がやってくることになる。77年が、その「波」の最初の年だった。

 言うなれば、パンクとは「解放者」の別名だったのだ。ロックの、ポップ音楽の、いや「若者風俗の」それまでの常識に、パンクは穴を穿ったのだ。さほど大きな穴ではなかったのかもしれない。だがしかし「穴は空くのだ」と知らしめた効果は、絶大だった。だからパンクは、被抑圧者に解放へとつながるイメージを伝達した。「俺も、私も、『好きにやっていい』んだ!」と。この覚醒が、それまで頭上を塞いでいた「蓋」の発見へとつながった。見つかったならば、安全ピンなどで「穴を空けて」しまえばいい――かくして蓋に空いてしまった穴からは、もちろん、パンク・ロックおよび、関連する音楽が勢いよく噴出してくることになる。

 そんな若者たちの動きの総覧として、ここではアルバム・デビューに焦点を当てて、時系列順に見ていこう。パンク・ロックおよび関連者たちのデビュー列伝、まずは、イギリス編から。

トップバッターはザ・ダムド

 数あるUKパンク・バンドのなかで最初にアルバムをリリースしたのがザ・ダムドだった。77年の2月のリリースだった。ちなみに彼らは、シングルも一番先に出していた(76年10月)。どちらもインディー・レーベルのスティッフからの発売だった。77年2月には、ウルトラヴォックス! もブライアン・イーノの支援のもとデビューしていた。

 ザ・クラッシュとザ・ストラングラーズのアルバム発売は4月だった。狭義ではパンクとは言えないものの、志は遠からずの「モッド・リヴァイヴァル」バンドのザ・ジャムが5月。ザ・ヴァイブレーターズが6月。ジャム同様の「狭義のパンクではない」系統の、エルヴィス・コステロが7月。ザ・ボーイズとザ・ブームタウン・ラッツが9月。ピストルズのアルバムが10月。11月には平均年齢が15歳ちょっとの全員ティーンのパンク・バンド、イーターのアルバムも出た。そして、ワイヤーが12月にアルバム・デビューする。

 さらにはアイルランド初のパンク・バンドとされる(つまりブームタウン・ラッツより古参の)ダブリン出身バンド、ザ・ラジエーターズ・フロム・スペースのデビュー・アルバムも77年だった。のちにネオナチ/白人至上主義者バンドの典型となるスクリュードライヴァーも77年組だった(このときはOiパンクのバンドだった)。

 これらのうち、コステロやブームタウン・ラッツはニューウェイヴと区分されることが多いアーティストだ。ワイヤーは普通「ポストパンク」区分だ。彼らの77年のファースト・アルバム『ピンク・フラッグ』からして、すでに「ポスト」と形容されることが多い。つまり「時代はとてつもなく速く」動いていた、ということだ。流速の異なる、いくつもの細い流れが、ときに交差しつつ海を目指して野を駆け下っていくかのように。

  またアルバム・リリースは翌78年1月なれど、この77年10月にXTCのデビューEPが出ていた意義は大きい。ニューウェイヴの旗手のひとつ、UK屈折ポップ巨人のレコード・デビューは、ピストルズのアルバムと同じ月だった。

 同様にアルバム・デビューは78年3月なれど、77年1月に初EPを出して気を吐いていたのがバズコックスだった。76年2月、ウェリン・ガーデン・シティでセックス・ピストルズのライヴを観て感銘を受け、結成されたバンドだ。同年6月4日には彼らの招聘により、ピストルズのマンチェスター・ライヴが実現。「お客は40人しか入らなかった」ものの、そのなかの少なからぬ数がバンドを組んだり、音楽やアートにたずさわっていく。のちにジョイ・ディヴィジョン、ザ・フォール、ザ・スミスとなる者たちも、この日の観客のなかにいた。

 この77年にバズコックスの最初のEP時にはメンバーだったハワード・ディヴォートが結成したバンド、マガジンも動き出す。マガジンも「ポストパンク」区分のバンドだった。

すさまじいまでの「ブーム」

 そのほか、77年にはアルバム・デビューまで至らなかったものの、パンクとニューウェイヴ、ポストパンクが交錯する地点で、多くのバンドが動き始めていた。スージー&ザ・バンシーズ、アダム・アント、リーナ・ラヴィッチ、ジェネレーションX、ジャパン、トム・ロビンソン、ザ・スリッツ、サブウェイ・セクト、レックレス・エリック、スローター&ザ・ドッグス、ヒューマン・リーグ、チューブウェイ・アーミー、ザ・ポリス、ジ・アドヴァーツ、Xレイ・スペックス、999、ザ・ラーカーズ、ザ・メンバーズ、ジョニー・モペッド、ソフト・ボーイズ、ザ・レインコーツ、テレヴィジョン・パーソナリティーズ、北アイルランドはベルファストからスティッフ・リトル・フィンガーズ、スコットランドはエディンバラからザ・レジロス、ザ・スキッズ、のちにデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズへと移行するザ・キルジョイズ、ビッグ・イン・ジャパン、のちにユーリズミックスとなるアニー・レノックスとデイヴ・スチュワートが在籍した最初のバンドであるザ・キャッチ、ディス・ヒートやギャング・オブ・フォーといったポストパンク前衛、ファンジン『スニッフ・ン・グルー』のマーク・ペリーが結成したオルタナティヴTV、パンク詩人のジョン・クーパー・クラーク、セックス・ピストルズを脱退した(追い出された)グレン・マトロックの新バンドであるリッチ・キッズ、のちにザ・キュアーとなるイージー・キュアー、Oiパンクの代表格となるシャム69……といったあたりがみんな、ライヴ・サーキットで活発な動きを見せ始めていた。

 すさまじいまでの「ブーム」だった、と言っていいだろう。イギリスにおけるこれら新星バンドの脈動は、すべてとは言わないまでも、そのかなりの部分が76年のセックス・ピストルズの大暴れに刺激されたものだと見ていいはずだ。さらにはクラッシュやダムドの奮起も、大きかった。ピストルズだけならまだしも、そのあとに後続が「いくらでも続く」というありさまが、多くの観客に「自分にもできるかも」という気持ちを抱かせたに違いない。マンチェスターの、伝説の「40人ライヴ」の事例のごとく。

「ニューヨーク・パンク」の第一陣は77年以前にデビュー

 アメリカのほうを見てみよう。すでにこちらは、イギリスに先行して「ニューヨーク・パンク」の第一陣が、77年以前にデビューしていた。古い順でいくと、パティ・スミスのデビュー・アルバムである『ホーセズ』は 75年11月だった。ラモーンズは76年4月、ブロンディが同12月だった。

 77年に入ると、リチャード・ヘルが在籍していたテレヴィジョンが2月、トーキング・ヘッズが9月にアルバム・デビューした。ヘルの新しいバンドであるザ・ヴォイドイズの初アルバムが9月、元ニューヨーク・ドールズのジョニー・サンダース率いるハートブレイカーズが10月――と進み、こうしたリリース・タイミングだったせいで、ヘルやサンダースがUKツアーの際にはピストルズらと同道することになる。デッド・ボーイズのアルバムも10月。そのほか、ザ・リアル・キッズのアルバムも77年だった。パワー・ポップとの境界線上にあるバンドも、すでに多く活動していた。

 パンク・ロックの変種というか、シンセ・パンクの先駆けと呼ばれるスーサイドのアルバムも77年の12月だった。アヴァン・ポップやノイズの文脈でも支持され続けるクロームのデビュー・アルバムは前年だった。

 そして、アルバム・デビューはまだなれど、すでにこの77年の時点で旺盛に活動していたバンドのひとつが、ザ・クランプスだった。ジャームス、X、ザ・ナンズ、ジ・アヴェンジャーズ、クライム、ザ・ウィアードス、ザ・ディッキーズ、ザ・ゼロス、ウェイン・カウンティ&ジ・エレクトリック・サーカスもいた。GGアリンも活動を始めていた。ペレ・ウブも、そしてもちろんディーヴォもいた。

 さらに、ロサンゼルスやサンフランシスコを中心としたカリフォルニア地域では、このころものすごい数のバンドが結成されていた。ニューヨークでも次の世代である「ノー・ウェイヴ」バンドが登場していた。対岸のニュージャージーでは、ザ・ミスフィッツの結成もこの77年だった。

英米以外でも 

 英米以外では、オーストラリアのザ・セインツが77年にアルバムを発表した。レディオ・バードマンも77年だった。西ドイツにてニナ・ハーゲン・バンドが結成されたのも、この年だった。

 さらにこれは「パンクのパロディ・ソング」と呼ぶべきなのだが、ベルギーのアーティスト、プラスティック・ベルトランのあのナンバーも77年のリリースだった。邦題は(なぜか)「恋のパトカー」とされた「Ça Plane Pour Moi(サ・プラン・プール・モワ)」がそれだ。調子がいい疾走系のナンバーとして、フランス語歌詞の意味もよくわからぬままに各国で流行、イギリスでも78年には8位にまで上昇した。楽曲としてのあまりの出来のよさを、のちにジョー・ストラマーが激賞していたことでも有名だ。同じトラックを使用した英詞版とも呼べる「ジェット・ボーイ、ジェット・ガール」というものある。

 と、こんな曲が普通に「ヒット」してしまうぐらい、いつの間にかパンク・ロックは――あるいは「パンクらしきもの」は――この1977年のうちに、国際的に広く認知されていたということだ。新しくて、とても勢いがある、ポップ音楽界の目立つ潮流のひとつとして。ちょうどサーフィンのように、みんながこぞって「乗っかるべき」波として。

アイドル化と、おそろしい速度での陳腐化

 とくにイギリスでは、この77年の時点において、パンク・ロッカーの一部はすでにティーン・アイドルとなっていた。たとえばティーン雑誌『スーパーソニック』では、ベイ・シティ・ローラーズやフリントロックといったアイドル・バンドの面々と並んで、ジョニー・ロットンやビリー・アイドルのピンナップ写真が掲載されていた。

 であるから、こんな状態になった場合に往々にして起きることが、やはり起こってしまう。つまり流行ったがゆえの「陳腐化」というやつだ。なによりも「速い」ことがパンクの要諦だったゆえなのか、おそろしい速度でそれは、当事者たちの身の上にも降り掛かってくる。77年に頂点をきわめて、そして、あっという間に底が抜けてしまう。

 ジョニー・ロットンがセックス・ピストルズを脱退してしまう。初のアメリカ・ツアーの最終日、78年1月14日のサンフランシスコはウィンターランド・ボールルーム公演を最後に、彼はバンドを去る。そして同18日、ニューヨーク・ポスト紙にて「もうセックス・ピストルズといっしょにやるのは、嫌になった」と表明。このときにピストルズの実質的な歴史は終わってしまう。初アルバムの発売から、まだ3ヶ月も経っていなかったにもかかわらず。

【今週(は大盤振る舞い)の11曲】

The Jam - In The City

作曲当時18歳だったポール・ウェラーが放った、鮮烈なるザ・ジャム77年のデビュー曲。この記念すべきナンバーが悪の軍団(別名・ピストルズ)の手に落ちて……という話題はのちほど詳しく。 

WIRE - Ex Lion Tamer (2006 Remastered Version)

ワイヤーのデビュー・アルバムより。ほとんどまるで、90年代初頭の米オルタナティヴ・バンドのお手本のような――77年時点において、頭ひとつ抜けた先進性が光っていた。

XTC - Science friction (Promo?, 1978)

XTCも最初はこんなにパンキッシュかつスカだった。才人アンディ・パートリッジすら目や歯を剥き出すほどの勢いながら、しかし「ひねり込み」技は間奏などにしっかり集約。ここまで削いでもまだ色濃く漂う、UK伝来の職人ポップ王道タッチ。記念すべきデビュー曲。

 

Buzzcocks-Boredom

こちらもバズコックスの自主制作初EPより。シンプルにして、しかしじつは芸もいっぱい。すでにしてポップ・パンク原点の輝きも。かつてこの曲のイントロ部を(おそらくは無許可で)日本のTV曲がジングル使用していましたよね。 

Your Generation - Generation X (Marc Bolan show - EQ'd)

まさにアイドル、まさにニュー・ジェネレーション……といった風情の若きビリー・アイドルがキメまくるジェネレーションXのスタジオ・ライヴ。マーク・ボランの番組でのフッテージゆえ、ボランによる(無駄に色気たっぷりの)紹介もお見逃しなく。ちなみにこのショウの初放送時(77年9月28日)すでにボランは帰らぬ人となっていた。同16日の交通事故による急逝だった。

X-Ray Spex - Oh Bondage! Up Yours!

女性ヴォーカルのパンク・バンド、第一期生斬り込み隊長と言えばこちら。紅一点、ポリー・スタイリンの「声」がすごい。でかい、よく通る、押しが強い……このパワフル・ヴォイスがサックスそのほかを従えたパンク・ロック、黎明期の姿。アフリカ系の父とスコッチ・アイリッシュの母を持つスタイリンの個性も注目された。

Richard Hell - Blank Generation

次はNYより、もう一度「ブランク・ジェネレーション」を。こちらはアンディ・ウォーホル製作の映画『ブランク・ジェネレーション』(80年公開)より演奏シーン。NYパンクの聖地・CBGBの店内も(やけに整然とした)状態で見ることが。

Johnny Thunders & The Heartbreakers - Born To Lose (video)

「チャイニーズ・ロックス」と並ぶジョニー・サンダースの代表曲――にして、自らのペンによるナンバー。「Born To Lose」とは「生まれてこのかた、負けっぱなし」といった意味。しかし違うスペルもあって、アルバム・スリーヴでは「Born Too Loose」(生来の怠け者)となっていた。どちらにせよ(普通は前者が正式タイトルとされている)かぎりなくダメな地平に居直った負け犬ソングの、地上最強クラシックがこちら。

Dead Boys - Sonic Reducer - live

デッド・ボーイズの77年、CBGBでのライヴも(妙に熱い)前説からたっぷりと。甲本ヒロトみたいなスティヴ・ベイターズの動き(逆)にも注目。

 

Suicide - Ghost Rider (Official Audio)


エレクトロ・ポップというよりも、シンセ・パンクな独自境地からスタートしたスーサイド、初期代表曲。誰よりも早く(70年代初頭より)自分たちの音楽を「パンク」と称していたスーサイドだったが、彼らのナンバー「ドリーム・ベイビー・ドリーム」を、のちにブルース・スプリングスティーンまでもがカヴァーした。

Plastic Bertrand - Ça Plane Pour Moi (Remastered)

そしてこれぞ問題(?)のプラスティック・ベルトランによる本家「サ・プラン・プール・モワ」。(歌詞の意味はわからずとも)これは売れるわ……というノリノリ・チューン。パンク時代に咲いた徒花数あれど、誰もが忘れじの「一発」。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

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