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【新連載】すべては日本ファンタジーノベル大賞から始まった――エンタメ小説家の失敗学3 by平山瑞穂

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第1章 入口をまちがえてはならない Ⅰ

日本ファンタジーノベル大賞受賞

「はじめに」で述べたとおり、僕の小説家としてのキャリアは、二〇〇四年、『ラス・マンチャス通信』で第16回日本ファンタジーノベル大賞を受賞したことに始まる。しかし思えば、僕はこの最初の一歩からしてまちがえていたのではないか、と疑われる節がある。少なくとも、作家デビューを果たすこの入口の陰に身を潜めていたミスマッチが、のちのちまで禍根を残すことになったのではないかと思えてならないのだ。

 その前に、結果として僕を世に放つことになったこの「日本ファンタジーノベル大賞」という文学賞について、ひととおりの解説を施しておく必要があるだろう。

 創設は一九八九年、読売新聞社と三井不動産販売(のちに清水建設)が主催し、作品の選考から受賞作の刊行にまで至る実務に関しては、「後援」として新潮社が担うという、ややわかりにくい構図のもとに成立していた公募型の文学賞である。創設時は、一般企業が資金などを提供して文化・芸術活動を支援するという「メセナ」が花開いていた時期に当たる。一見、文芸には縁遠く思える企業が主催に名を連ねているのは、そういう背景によるものだ。

「ファンタジー」とはいっても、この賞が標榜していたのは、いわゆる「剣と魔法」「龍退治と姫の救出」といった、古典的ジャンルとしてのそれではなかった。歴代の選考委員が、「これまで読んだことがないような風変わりさ」を求め、それを高く評価したこともあって、受賞作にはひと筋縄ではいかないような奇作・怪作が並ぶことになった。

 作家としては、SF寄りの佐藤亜紀、北野勇作、池上永一などを輩出する一方、のちに『リング』シリーズで世界的名声を獲得する鈴木光司、畠中恵、森見登美彦、二〇二一年に直木賞を受賞したことが記憶に新しい西條奈加など、多彩な顔ぶれの出身母体となっている。応募条件として「プロ・アマを問わない」とされているが、実際には、僕自身がそうであったように、この賞の受賞がデビューに結びついたという意味で、「新人賞」として機能するケースが多いようだ。

 余談ながら、その後人気作家として不動の地位を占めるに至る恩田陸も、広義でのこの賞の出身者である。受賞には至らなかったものの、最終選考には複数回残り、このまま埋もれさせるには惜しいという選考委員の推しもあって、受賞しないまま作品(『六番目の小夜子』)が刊行され、デビューに至ったのである。

 ただし、バブル経済による潤沢な資金を背景としていたメセナも今は昔、創設時と同じ形での運営を続けることは次第にむずかしくなり、二〇一三年度の第25回をもって、この賞はいったん休止している。

 その後、二〇一七年に、一般財団法人新潮文芸振興会主催、読売新聞社後援という形でリニューアルスタートし、賞としての基本理念は継承されているが、複雑な事情から、「第26回」以降の回数を引き継ぐことはできず、現在は「日本ファンタジーノベル大賞2020」、「日本ファンタジーノベル大賞2021」、と年度ごとに看板をすげかえることで存続している。

 厳密には、この賞には下位分類として「大賞」と「優秀賞」の違いがあり、僕は二〇〇四年度の「大賞」だった。ちなみに同じ年度の「優秀賞」を獲得したのは、原作も映画も大ヒットとなった『陽だまりの彼女』や、最近やはり映画化されて話題になった『いとみち』を手がけた越谷オサムである。

 そのように、この賞の出身者がその後、世間に広く認知されるめざましい活躍をするケースもざらにあり、受賞した当時は、いずれ自分もそこに顔を連ねることになるはずだと意気込んでいた。受賞作である『ラス・マンチャス通信』についても、同じくこの賞の出身者でありながら、僕が応募した際には選考委員の一人になっていた鈴木光司から、「選考委員になって、いちばん面白かった作品」との絶賛を頂戴していたほどだったのだ。

 しかしそもそも、僕はなぜ、数ある公募型の文学賞の中から、この「日本ファンタジーノベル大賞」を、デビューへの入口として選んだのか。本章のテーマにつなげるためには、少々時間を遡って、そこから語らなければならない。

実は純文学志望だった

「はじめに」に書いたとおり、僕ははっきりと作家を目指しはじめてから作家デビューできるまでに、実に一三年もの月日を費やしている。

 小説家になりたいという志向はもともとあって、高校生の頃から散発的に執筆を試みてはいたのだが、作家デビューを目指そうと本気で思い立ったのは、大学を卒業して一般企業に就職してからだった。実際にサラリーマンになることで、それがいかに自分に向いていないかを思い知らされ、かくなる上は作家になるよりほかにないとあらためて思い定めたのである(そのわりに、結果としてその後、兼業時代も含めて足かけ二〇年もサラリーマンを続けることになってしまったのだが)。

 もちろん、本気で作家を目指すと決めた以上、ただ漠然とその夢を追ってちまちまと原稿を書いては捨てていたわけではない。僕は雑誌『公募ガイド』などで各賞の募集に関する情報をチェックしながら、さまざまな新人文学賞に実に勤勉に作品を応募しつづけた。ただし、その時期の大部分、僕が応募する賞は、いくつかの特定の賞に限られていた。

 それは、群像新人賞、文學界新人賞、新潮新人賞、そして文藝賞――すなわち、『群像』(講談社)、『文學界』(文藝春秋)、『新潮』(新潮社)、『文藝』(河出書房新社)、という四つの文芸誌が主催している新人賞である。こうした文学新人賞に心得のある人ならわかると思うが、この四つはいずれも、「純文学」をメルクマールとする文芸誌だ。つまり僕は、あくまで「純文学作家」としてデビューすることを目標としていたのだ。

 そもそも、「純文学」と「エンターテインメント文芸」とは、どこがどう違うのか。それをひとことで説明するのはむずかしい。かつてなら、「純文学VS大衆文芸」というわかりやすい対立軸が存在したが(たとえば「川端康成VS吉川英治」)、現在はその区分がきわめてあいまいになっている。

 その違いについて説明を求められた際には、僕はなかばたわむれに、「明瞭な起承転結があるのがエンタメで、オチがないのが純文学」とか、「作中で“何が起きたか”に関心を持つのがエンタメで、なにかが起きたとして、それが“いかに起きたか”に着目するのが純文学」などと定義してみることもあるのだが、いずれもそれだけですべてを説明し尽くせるものではない。

 まして現代では、純文学出身でありながらときにエンタメ的な手法もこともなげに駆使する吉田修一、逆にエンタメ出身でありながらしばしば純文学的な側面をちらつかせることもある湊かなえや桜庭一樹など、越境的な活躍をする作家もめずらしくなくなっている。

 読む側としては、それが純文学なのかエンタメなのかなど、意識していない場合が多いだろう。それをいうなら、(これは僕が他の著作でも言っていることなのだが)新作が出るごとに何十万部、何百万部と売れる村上春樹が、本質的には純文学の人であるということを、いったい何割の読者が正しく認識しているだろうか。

 そういう意味でも、「純文学かエンタメか」という問いには、もはや実質的な意味がなくなっているように僕には思える。それでもなおその区分は、読者の思惑や受け止め方とは無縁な形で、少なくとも業界では、確固たる拘束力を保持しつづけているのである。講談社や新潮社などの文芸大手において、純文学系の作家を担当するかエンタメ系の作家を担当するかで、編集部自体が別に設けられていることを見ても、それはわかる。

 この点は非常に重要なので、頭の片隅で意識しながら続きを読んでほしい。(続く)

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