#05_ただ「いる」ことが許される、「ゆるく弱い居場所」の可能性をあきらめない|小松理虔
居場所とはそもそも何だったか
ここ最近、「居場所」という言葉をよく耳にするようになった。新聞やテレビなどでコロナ禍で深刻なダメージを受けた人たち、とりわけ子どもたちの現状について語られるとき、彼らの「居場所のなさ」が取り上げられているのを頻繁に目にするからかもしれない。
コロナウイルスの流行で学校が休みになると、子どもたちは家で時間を過ごす。けれど、その家には、仕事を休まざるを得ない父や、雇用状態が不安定な状況になってしまった母…がいることも増えた。みながストレスを溜め込んでしまった状態では、家族の間に一触即発の緊張が生まれかねない。実際、コロナ禍で児童虐待の通告が増えたというニュースもあるくらいだ。
思えば、我が家の小学1年生の娘も、感染拡大で夏休みの学童が休みになり、家にいる時間がだいぶ増えた。お気に入りの水族館にも行けず、友達にも会えず、おまけに天気も悪かったもんで外でも遊べない。それでストレスが溜まり、ぼくや妻へのイライラが強くなったように感じる。それに対応するぼくたちも、娘の面倒を見るために家にいなければならず、心のゆとりをなくしているので、以前なら「はいはい」と流せたことに怒鳴ってしまうというようなことも残念ながら増えてしまった気がする。娘よ、申し訳ない。
コロナウイルスは、子どもたちから学校という居場所を奪い、大人たちから職場という居場所を奪った。職場が失われたことで家という居場所すら奪われてしまった人たちも多く、路上で生活せざるを得ない人たちの苦境や支援者たちの動向も広く報道されている。かつては家、職場や学校、さらには公民館や集会所など、地域にはさまざまな居場所が分散していた。ところが、「人との距離をとる」「人流を避ける」の掛け声が大きくなり、公的な場所が休館になったり閉鎖されたりして、人はどこかに身を寄せ合うことが難しくなった。従来から公的サービスを減らす自治体も少なくなかったし、残念なことに、公園やベンチからも居場所は奪われてきたのが実情だ。そのしわ寄せや矛盾は、社会的な弱者に強く及んでいる。
あなたは「居場所」と聞くと、どんな場所をイメージするだろうか。自分が存在できる場所、ということだけでなく、どことなく、自分の存在が守られているような意味が込められているように感じられないだろうか。社会から断絶することなく、命を守ることができ、安心できる。そんな居場所が社会から失われているのだとすれば、社会にとって大きな打撃だ。そこで今回は、正直どこに着地するかわからないのだけれど、居場所のこと、コミュニティのこと、場のことを、本連載のテーマである「地方」と絡めて考えてみたい。
じつは、ぼくにも居場所をつくろうとした過去がある。2011年5月。震災発生から間もない時期に、親友とふたりで立ち上げた「UDOK.(うどく)」というスペースだ。地元の商店街の空いた20坪ほどのテナントを借り、何をするでもなく、仕事のあとに集まって酒を飲んだり、それぞれ好きなことをしたり、表現活動をするために開いた。名前は、四字熟語の「晴耕雨読」の「雨読」からとった。晴れた日は畑を耕し、雨の日に読書をして知を蓄えるように、日中は仕事をし(晴耕)、夜間や休日、余暇の時間を使ってクリエイティブな活動(雨読)をしよう、その雨読の時間を過ごす場所だから名前も「UDOK.」にしようというわけである。
最初はふたりから始まった活動だが、月に5000円ずつ支払うと好きに使っていいという仕組みにした。すると、次第にいろいろな人たちが集まってきた。会社員をしながら音楽活動を続けるDJ、原発事故によって地元から避難してきた音楽家、独立を目指す写真愛好家……などなど個性豊かなメンバーばかり。といっても、クリエイティブな才能だけが集まったわけではない。その才能と困難は紙一重。家庭や職場で、あるいは個人的にさまざまな困難を抱えた人もいたし(困難があるからこそ創作活動を続けているという人も多かったように思う)、あるトラブルに見舞われ、家に帰りたくない、今日はUDOK.に泊まっていく、なんて相談を受けることもしばしばあった。ぼくは、UDOK.を「さまざまなアクションを起こす場所」と考えていたのだけれど、「居場所」のように感じてくれていた人もいたのかもしれない。
ところが、そんなUDOK.も、2015年にぼくが独立し、この場所がぼくの「仕事場」になると、場の意味が大きく変わった。あの頃はいろんな人が遊びに来てくれたけれど、今は「リケンさんの仕事の邪魔をしないでおこう」と遠慮してくれているのだろうか、ふらりと訪ねてくれる人も少なくなった。そのかわり、打ち合わせにくる人はやたらに増えた気がする。無目的な滞在が許された居場所は、いつの間にか、目的をはっきりと見据え、任務を遂行し、成果を求められる人たちが仕事のために来る場所になったということか。「無目的」な場所も「有目的」な場所も、どちらも居場所ではあるけれど、両者の中身はにて非なるもの…かもしれない。
ぼく以外だれもいない真っ昼間の仕事場で、ああ、今日もだれも来ないなあ、ここでメンバーたちと無駄話したり、酒を飲んだりした日々が懐かしいなあと物思いにふけっていた頃、同じ福島県内の白河市にゆかりのある大学生から、白河で開催されている「白河若者会議」というイベントに参加して欲しいと連絡があった。
連絡をもらった時は、うっ、若者会議かー。キラキラした若者が社会課題を解決するためにこんな事業をやりたいとか、こんな夢があるとか、そういうことを話す会だっぺ? 事務所でぐずぐずしてるオレなんて出る幕ないっしょ、とか思っていたのだが、「参考までに」と添付されていた前回の実施要項を見て、ぼくは驚いた。
前回のテーマは「復興を背負わされた若者たち」。震災復興を担う若者ではなく、復興を「背負わされた」若者が、社会について、地域について考えた、というのだ。
なんでまたそんなテーマになっちゃったのよ、と主催する学生に聞いてみると、彼らの話は全然キラキラしてなくて、むしろ、重苦しいテーマを真っ正面から、しかしできるだけポジティブに考えようとしている様子だった。ぼくも、そういうトーンなら大丈夫そうだと逆に力をもらったような感じになり、それで参加を快諾したのだ。まだその時には、白河若者会議でも「居場所」に関する議論になるとは思ってもみなかったわけだが。
若者と考える居場所
白河若者会議は夏の盛りの8月11日に開かれた。まず、白河出身の大学生、小林友里恵さんが登壇して、若者たちと大人たちの分断について問題提起するところから始まる。大人たちは若者たちに「社会課題に関心を持て」という(福島であれば、震災が生み出した課題にコミットしろという感じだろうか)。けれど若者たちは「自分には関係がない」「自分たちのせいじゃない」と考えてしまいがちで、そこに地域の大人と若者との間に溝が生まれてしまう。なぜだろう。小林さんは、若者論や教育論の著作の多い評論家の芹沢俊介さんが提唱した「イノセンス」の概念を用いて問題を解きほぐしていく。
写真提供:Shirakawa Week実行委員会
子どもたちは、この世に誕生するとき、本人の意思とは関係なく、ある意味で暴力的にこの世に産み落とされる。つまり子どもは根源的になんら自己に対して責任がない「イノセント」な存在だといえる。けれど、子どもは成長の過程で誕生という暴力を受け止め、自己の存在に責任をとっていかなければいけない。そのためには、他者から自己の存在がまるごと受けとめられる体験が必要だ。芹沢さんはそう考えた。そうでなければ、子どもはイノセントな自己から脱皮できず、自らの責任の主体となることができないからだ。
小林さんは、このイノセンスの概念を、福島の若者たちにも当てはめて考えていく。若者たちはイノセントであるがゆえに、復興とか社会課題なんて関係がない、自分たちに責任なんてないと考えてしまう。しかしそれは自然なこと。大事なことは、若者たちがそのイノセンスを乗り越えることだ。そのためには、自分の存在が丸ごと許容される場所、自分が存在していていいんだと感じられる場がなければいけない。問題は、学生のほうのみにあるのではなく、それを受け止める地域社会の側にもあるのではないか。そう、小林さんは考えた。
そして小林さんは、哲学者や心理学者の言葉を引用しながら、こんなことを問いかけた。若者自身が、名前を持った固有の存在として社会に存在できるようになって初めて若者たちは自らのイノセンスを解体できるのではないか。必要なのは、若者たちを、大人たちが作った「被災地の若者」という役割に当てはめることじゃない。若者自らが社会に対して自由に意見を表明できる場をつくることだと。
小林さんの話を聞いて、ああ、これは「居場所」をめぐる問題だなと思った。いや、福島に限っていえば、居場所はあったのだ。ただ、その居場所には大人たちが用意した役割しかなかったということかもしれない。多くの子どもたちは大人たちに動員され、放射線だ物理だ地域だ産業だと、必要に以上に「学ぶこと」を押しつけられてきた。いや、時に大人以上に説明することを求められ、復興の希望の光であることを背負ってきた。つまり若者たちは、自分たちの葛藤や悩みや苦しさを吐露する間も場もなく、つまりイノセンスを解体される機会がないまま、「福島の未来ある若者」を演じようとしてきたのかもしれない。
若者と地域の大人たちの意識のギャップも大きかったことだろう。若者が必要だと思う居場所と、当事者ではない大人たちがなんらかの目的や意図、思惑を込めて作った居場所との間には大きなギャップがあったはずだ。小林さんもまた、そのギャップに苦しめられた一人だったのかもしれない。大人として、重く受け止めなければいけないな、とぼくは思った。
写真提供:Shirakawa Week実行委員会
小林さんの次に登壇したのは、スウェーデンの若者政策を研究している国立青少年教育振興機構の両角達平さん。両角先生の話も大変刺激的だった。先生によれば、スウェーデンはとにかく地域活動を行う組織が豊富で、学校にも地域にもいろいろな場があり、政府もそれを積極的に支援しているそうだ。なんと、若者の7割がなんらかの「若者団体」に参画しているという。
また、学校だけでなく、地域に「ユースセンター」を整備するなど「場づくり」にも積極的なのだという。若者団体の活動テーマは多様で、宗教について考えるグループもあれば、共通の趣味でつながるグループもある。音楽を楽しむバンドもあれば、サッカーを楽しむグループもある。日本のサークルとか愛好会にも似ているのかな。
ユースセンターの多くは設計も特徴的で、入口の近くにフリースペースが作られ、奥のほうに目的別のルームが作られることが多いそうだ。これなら何かをしたいと思っている若者も、特別やることはない、ただそこにいるだけでいいという若者も、一緒にごちゃまぜに存在できる。さらに、若者たちの活動を支援する「ユースワーカー」という専門職も多く、さまざまな相談事に応じているという。日本にも「障害福祉」や「高齢者福祉」はあるけれど、スウェーデンの若者政策は、それにも似た充実度、なんというか「若者福祉」と言っていいのではないかと思うくらい力が入っているのである。
両角先生によれば、スウェーデンでは、若者団体の運営こそ民主主義の実践の機会になり、学生団体は社会に必要だという共通の理念があるのだという。民主主義か! すげえ!
そこには壮大な「仕掛け」もあるようだ。じつは、若者団体に充てられる補助金を得る要件に「民主的な組織運営」というチェック項目があり、民主的な運営ができているか、独裁的な運営になってないかとか、長年ある派閥が会長職を独占してないかとか一部の人たちの意見だけで活動を決めてないかとか、そういうことを地方の支部組織や全国組織がチェックする体制になっているのだ(日本政府にも欲しい!)。
そしてそれ以前に、誰もが、ただ、そこにいられる。そこにいていいんだ、用がなくたって来ていいし、座ってるだけでもいいんだというメッセージは、自分の尊厳や言葉が守られるという安心感につながるし、誰かの存在そのものが守られるということもまた、民主主義の根幹を支える大事な要素なのではないか。両角先生はそんな話もしてくれたと記憶している。
小林さんの問題提起と両角先生の若者政策の話を聞いて、するすると話がつながった。若者たちに必要だったのは、自由に発言でき、社会との接点がもてるシンプルな居場所(まさにスウェーデンのユースセンターのような)だった。それなのに地域の大人たちは、若者よ、社会に興味を持とう。さまざまなことを学んで復興を発信してくれ、そのためにいろいろな場を作ってやるからさ、と考えてしまった。「社会になんて興味ない」という言葉を吐き出せる場所が必要だったのに、「社会課題に興味があります」と言わせる場所を作ってしまった。
このギャップは、こんなふうに言い換えられるかもしれない。若者たちにとって必要なのは、文字通り、そこに「いる」という意味での居場所だった。けれども大人たちは、学生たちにそこで何かをやってほしいと期待し、「いる」だけではなく「やる」ことを求めてしまった。高校生たちを思えばこそ、「やる」経験は彼らのためになるはずだ、彼らの「やる」ことを支える場を作ろうとしすぎてしまったのかもしれない。「いる」と「やる」をめぐる、居場所への期待。そのギャップが白河で明らかになった。
いや、「いる」と「やる」とのギャップは、ぼくの居場所だったUDOK.にもすでにあった。ぼくは、地域のなかで自分の才能やクリエイティビティを発揮できる場所として、まさに「やる」場所としてこの場所を開いた。共感してくれたメンバーもまた、この場所を「やる」場所として捉えていたからこそ、毎週末のようにイベントを開き、腕を磨こうとしたのだと思う。まさに「やる」ことで、ここはだれかの居場所になり、コミュニティが生まれたわけだ。
一方で、この場所を「いる」ための場所と考えていたメンバーもいたはずだ。特別になにかをするわけではなく、みんなと何かをしたり、おしゃべりがしたいからこそ来るという人たちがだ。ところが、ぼくは「やる」場所と考えているから、ここに来るからには何かをすべきだ、なにもしないための場所ではない、ボヤッとするのなら家でいいじゃないか、などと考えてしまっていた。ここをシンプルな「居場所」と考えていた人を排除してしまっていたのかもしれない。
会議のあと、白河若者会議のメンバーが「溜まり場」として使っているカフェ「EMANON」にお邪魔した。白河市の中心部にあり、高校生たちが気軽にチャリで来れるロケーションにある。古民家をリノベーションした内装が謎の居心地よさを引き立てていて、実際、若者会議の実行委員のメンバー全員がいい顔をしていた。ああ、白河の高校生たち、ここでジュース飲んだり、おしゃべりしたり、漫画、いや参考書を読んだりしてるんだろうなあ…などとすぐに想像できた。
高校生は無料で利用できるそうだ。また、大学生インターンが店員をしているので、疑問が湧いたらすぐに相談ができる。そして何より、ここでは自分たちの存在が守られる、話を聞いてもらえるという安心感が生まれることだろう。だから、進路についての悩み、社会に対する正直な思いや、震災復興への違和感なども語られる。そういう体験が、まさに先ほど紹介した「イノセンスの解体」につながるということだ。みんなでアイスキャンディーを食べながら、とりとめもないおしゃべりに花を咲かせていると、「ユースセンター」というのは、まさにこのような場所のことをいうのだろうな、と深く理解できた。
ゆるく弱い居場所
白河からいわきへと帰る車のなかで、ぼくはまたうじうじと居場所について考えていた。白河の若者が問題提起したように、たしかに若者には居場所がない。しかしそれは大人にも当てはまる。いや、もっと正確にいえば、我々には、「居場所がない」か「強い居場所しかない」かそのどちらかしかないように思われたのだった。
大都市では「孤独」が社会問題化している。日本でも、イギリスに次いで世界で2番目となる孤独・孤立担当大臣(坂本哲志さん)が任命されたのを知っている人はいるだろうか。居場所がないがゆえに人とつながれず、支えきれず、たとえば東京には人口は集中するけれど出生率が上がらないから人口も増えない、という悪循環も生まれている。多くの人たちは会社というコミュニティに属するだけでそれ以外の居場所や逃げ場がなく、地域や福祉とつながるチャンネルもそう多くはない。「孤独を楽しむ」といっても、それだけの資本やリソースがなければ楽しむだけの余裕は生まれないだろう。
一方で、地方は「強い居場所」ばかりだ。よく言われるように、地方は地縁的・共同体的なコミュニティが強く、個人よりも集団が大事にされる向きがある。つまり大変同質性が強い。同質性の強さゆえに結束は生まれるけれど、自分たちの組織を外敵から守ろうという「排他性」も生まれてしまい、これに参ってしまう人たちも少なくない。全国に散らばる「地域おこし協力隊」の皆さんが、ブログなどで「協力隊をやめました」みたいな文章を書いてるのをたまに目にするけれど、だいたいはこれが原因だろう。
もはや日本人には、都市に出て孤独という暴風のなかに放り込まれるか、逆に、地方に引っ込んで風通しの悪さや息苦しさに悶え続けるか、どちらか一方の地獄を選ぶほかないのではないかと絶望的な気持ちになってしまう。その間にある、ちょうどいい感じの「ゆるく弱い居場所」があるといいのになあ。
そこで思い出したのが、京都大学・こころの未来研究センター教授の広井良典さんが『人口減少社会のデザイン』(2017年・東洋経済新報社)という本で紹介する「都市型コミュニティ」というものだ。
広井さんはこの本の中で、コミュニティを「都市型コミュニティ」と「農村型コミュニティ」という2つの類型に分けて解説している。前者は、組織や地縁に縛られず、あくまで個人をベースにつながり合うもの。後者は地縁的・共同体的な一体意識によって成り立ち、集団の中に個人が埋め込まれるようなものだとしている。ただ、広井さんは「都市型コミュニティ」が都市部に根づいているとは言っておらず、さらに、この2つは対立する概念ではなく相互補完的なものであり、都市部の人たちにとっても、地方で暮らす人たちにとっても、「都市型コミュニティ」を作っていくことが孤独を和らげる力になると書いている。ここが重要だ。鍵は、集団から外れた「個と個のつながり」をつくること。
では、そんな「個人と個人がつながる関係性」は、いかに作り得るのか。広井さんは、すでに地方で生まれつつある。地方を目指す人たちの多くが、それぞれの土地で都市型コミュニティを形成しているという。地方には、これまでの世代が求めてきた経済的・金銭的成果ではなく、自分らしい生き方を求めてやってくる人たちが多い。彼らは自分らしい生き方や、自分らしくいられる居場所を求め、あるいはその居場所を自分でつくるためにこそ地方にやってくる。よそ者の彼らが、地方が陥りがちな「同一性」に風を吹き込んでくれるというわけだ。
U・Iターンしてくる若い世代が、田舎のまちにスタイリッシュなスペースを開いたり、よそ者たちが集まることのできるイベントを企画する、なんてことは実際多いし、地元の慣習や人間関係、コミュニティのことを良くも悪くも気にしないよそ者だからこそ、同質性の強い地域に風を吹き込むことができるのだろう。
その点、地方には利点が多くある。まず家賃が安い。商店街にも空き物件が多い。新しいことを始めるハードルは地方のほうが断然低いとぼくは思っている。東京や大阪の一等地で同じことをやっても家賃すら払えないだろうし。
また、地方では、農業や漁業など一次産業に就く若者に支援金が支給されたりもする。新しく何かを始める人たちへの支援が充実しているのだ。そして地方は食との距離が近い。食を通じて新しい「個人と個人がつながる関係性」が生まれれば、自分の食卓の豊かさに直結する。うまいものをひとりではなくみんなで、消費者だけでなく生産者と一緒に食べる。それだけで、だいぶ生きている心地がするものだ。地方にも「個人と個人がつながる関係性」は作れる。そしてその関係性が深まることで、地方の魅力を最大限に享受することができるというのは、ぼくも強く実感しているところだ。
それを支える環境も生まれてきた。ローカルライフをポジティブに紹介するメディアの存在などは大変心強い。各地の取り組みがメディアで紹介されたり、トークイベントやシンポジウムが開催されたりすることで、地方の既存のコミュニティの力を借りずとも、プレイヤー同士が横につながり、ノウハウを共有したり販路をシェアしたり、新しいネットワークを生むことにもつながっている。都市ではなく地方でつくる「個と個のつながり」に希望を見出したい。
ただ、それでもなお、ぼくは「地方こそ個人と個人がつながる」「地方だからこそ簡単に居場所をつくることができる」と声高に叫ぶことができないでいる。なぜだろう。後悔や反省があるからだろうか。ぼくも、港町の商店街でテナントを借り、「個人と個人がつながる関係性」を築いて、めちゃくちゃ魅力的なローカルライフを発信してきたつもりだ。けれど、冒頭で書いたように、一生懸命やろうと思えば思うほど、それが仕事や業務になり、いつの間にか効率や成果を強く求めるようになってしまって、自ら作り上げたはずの「居場所」を、すっかり「仕事場」にしてしまった。「いる」場所は「やる」場所になり、ぼくは、だれかを排除する側に回ってしまった。そんな反省があるので、地方の居場所最高! ともいえなくなってしまう…。
「やる」化するコミュニティで、「いる」を取り戻す
場をつくる。そこになんらかの目的をつくる。なにかの目的のために動いていけば、やる気のない人はいて欲しくないし、スキルがない人はこないで欲しいと思ってしまう。やるからには限られた時間で効率をよく物事を進めたくなるものだし、売り上げは多いほうがいい。「やる」コミュニティは、いつの間にか目的遂行型になってしまい、その目的から外れる人たちを排除したくなる。
もちろん、「やる」ことによって仕事が生まれ、それによって生活の糧が生まれるという面もある。ぼくたちの社会は「やる」ことで回っている。効率よく成果を出し、生産性で勝負することで資本が回り、それを膨らませることで富を蓄える社会に生きているわけで、「やる」ことすべてを否定することはできない。「やる」コミュニティも必要だ。
大事なことは、「やる」場所に身を置きながらも、「いる」ことの価値を積極的に認めること。言い換えれば、「いる」と「やる」を行き来することではないだろうか。大前提として、そもそも人って何もせずそこにいていい。むしろ、そこを基本線にしたうえで、「やる」場所と「いる」場所を混在させたり、「やる」コミュニティも「いる」コミュニティも、小さく多様にたくさん作っていけたらいい。選択肢が多ければ、「やる」と「いる」を実際に行き来することができる。「やる」一辺倒だった人たちも、「いる」の重要性に気づくことができるかもしれない。
小さく多様に、やるコミュニティも、いるコミュニティも、つくっていく。そんなときにも、地方の魅力は発揮されると思う。先ほど書いた家賃の安さや食との距離の近さばかりではない、地方ならではの魅力があると思うのだ。
まず1点。地方には幸運なことに自然が多い。山や海、湖や川。そこに生きる動物たちや植物たちは、何かを主張することはなくそこにあり続けている。彼らはただ、そこにある。自然や動植物に触れることで、「ただ、そこにいる」という根源的な価値に気付く機会を得られるかもしれない。自然の中に入ると、普段ぼくたちが身を置く「生産」や「効率」の世界から離れることができる。それに、山や川や海はだれも拒まない。山や川がぼくたちの居場所になり、孤独を癒してくれることもあるだろう。
そしてもう1点。さきほど、地方では人と人の距離が近いがゆえに「食」に関わる人とつながりやすいと書いたけれど、地域でつながるのは「食の担い手」だけではない。「福祉」に関わる人たちに出会う確率も高くなっていると感じるのだ。ここ数年、地域に開かれた運営を目指す法人が増えていることも手伝ってか、福祉に関わる人たちとの関わりが増えた。ぼくは、それもまた地方の魅力だと言ってしまっていいのではないかと思っている。
たとえば、福島県の猪苗代町には、障害のある人たちの表現を重点的に展示する「はじまりの美術館」という施設があり、作品鑑賞を通じて障害や福祉について思索を深めることができるようになった。ぼくの地元のいわき市にも、就労移行支援事業を展開する「ソーシャルデザインワークス」という法人ができ、障害の有無や国籍、性別などに関係なく参加できるイベントが開催されるようになった。UDOK.の近所にも「ワークセンターしおさい」という事業所があり、障害のある人たちがつくるこだわりの「麺」を購入することができる(うどんがとにかくうまい)。
静岡県浜松市のNPO法人「クリエイティブサポートレッツ」という法人では、日々の福祉の現場に一般の人たちを受け入れ、それを体験してもらう「タイムトラベル100時間ツアー」という企画を行っている。ぼくは、ひょんなことからレッツの活動に参画することになり、100時間どころか1年間にわたって福祉の現場を体験させてもらうことになり、その体験記が一冊の本になって出版されたというわけのわからない経験がある。そんな経験がなければ、ぼくは「いる」ことの価値を積極的に考えようとはしなかっただろうしし、白河若者会議の議論にもそんなに共感できなかったと思う。
福祉の拠点や福祉の担い手とつながることで、ぼくたちは、居場所とはなにか、「いる」とはいかなるものかについて学び、考えを深めることができるはずだ(結果として「社会包摂」のようなものも一歩進むかもしれない)。地域の居場所をさらに豊かなものにすることにもつながるだろう。福祉との連携。これが地方で進むと、いろいろな人が生きやすくなると思う。
写真提供:Shirakawa Week実行委員会
都市と地方の間、「いる」と「やる」の間
コロナ禍で、ぼくたちの命も暮らしも、そして居場所も深く傷つけられた。ワクチンで身を守れるようになったとしても、これまでに受けた傷を短期間で回復できるわけではないだろう。ぼくたちの社会は、長い長いケアの時間に入っていくのだと思う。そのとき、居場所があるかどうかが回復のための鍵になるはずだ。
まずは第一の場としての家。そして第二の場としての職場。これを守るために、国や自治体にも支援を拡充してほしい。さらに第三の場、いわゆる「サードプレイス」としての居場所も求められていくはずだ。傷の回復には、悩みや困難を吐露しあったり、励ましあったり、あるいは声を出して笑いあったりする他者の存在が必要だ。思えば、東日本大震災直後の被災地にも、居場所やたまり場の必要性が盛んに論じられたし、実際に、さまざまなコミュニティスペースが生まれた。災禍で受けた傷を回復するため、地域のなかに多様な居場所を作っていけたらいい。
コロナ禍では、「密を避けるために地方へ」「密を避けてワーケーション」という文脈で地方がもてはやされてきた。もちろんそういうメリットもあるだろう。けれど、いざこうして長々と居場所の話を書いてきてみると、地方が求められるのはむしろこれから。感染の流行がひと段落し、回復過程に入ったあとのように思えてくる。
ただ、本稿では「同質性」という言葉などを用いて地方に批判的な光も当てた。ぼくたちが目指すべきは、都市で孤独という暴風のなかに放り込まれるのでも、地方に引っ込んで風通しの悪さや息苦しさに悶え続けるのでもない、その間にあるところに、自分なりの選択肢を選択肢を見出していくことではないだろうか。
抽象的な表現になるけれど、その選択肢は「間」のグラデーションのなかにある。都市と地方の間、個人と集団の間、孤独と同調圧力の間。より本稿に照らせば、「いる」ことの根源的な意味をもう一度噛み締め、「いる」と「やる」の間を往復する。その中にこそ「ちょうどいい居場所」が見つかるのではないかと思う。二項対立ではなく、その間をしつこく行き来することによって、ちょうどいい居場所を探る事が必要だと思う。
もちろん、居場所づくりにはコミュニケーションスキルも要る。場合によっては福祉や医療につなげるような動きが求められることもあるだろうから、国や自治体はもっと「居場所」の価値を認め、それを運営する人たちにも支援をして欲しい。いや、なにも、何十億円とかけて福祉センターのようなものを作れと言ってるわけじゃない。まちづくりの担い手たちに福祉のセミナーを開催したりするだけも違うだろうし、街角のちょっとした空き店舗に、公園の隅に作った掘っ建て小屋にだって居場所は立ち現れる。
もちろん、あなたがその担い手になっちゃってもいい。地方の「シャッター街」や「耕作放棄地」や「空き家」、いやいや、地方の壮大な余白を活用して、気軽に、お手軽に、楽しく、民主主義を支えちゃおうじゃないか。
写真/小松理虔
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著者プロフィール
小松理虔/こまつりけん 1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。ヘキレキ舎代表。オルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、いわき海洋調べ隊「うみラボ」では、有志とともに定期的に福島第一原発沖の海洋調査を開催。そのほか、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。『新復興論』(ゲンロン叢書)で第45回大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著本に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。