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第6回 藤本由香里が切り拓いた少女漫画評論の可能性|三宅香帆

少女漫画評論は、少ない?

ひとつの個人的な思い出話から始めたい。

もう一度断るが、ものすごく個人的な話なので、興味のない方は読み飛ばしてほしい。

で、個人的な話なのだが(三回目)、以前SNSに「少年漫画評論と比較し、少女漫画評論は全然ない」と書いたら、やたら怒られたことがある。

バカを言うな、少女漫画評論はたくさんあるだろう、少年漫画評論と比較して統計をとったことがあるのか、少女漫画評論を読んでないやつが少女漫画評論について軽薄なことを言うな、と怒られた。

私はけっこう驚いた。「少女漫画評論、全然足りない、全然まだ少ない」というのは少女漫画好きの共通見解……とまでは言わないが、少女漫画と評論の双方を好きな人はみんな同意しているものだと思い込んでいたからだ。

『進撃の巨人』も『鬼滅の刃』も『ONE PIECE』もネットや書籍で評論されているのはよく見たけれど、『大奥』や『暁のヨナ』や『のだめカンタービレ』が評論されているところを、私はあまり見たことがなかった。だから、「少女漫画はもっと評論されてほしいな」と思っていたのだ。なんなら小説並みに評論の俎上そじょうに乗せるべきジャンルだと今もなお考えている。

もちろん今、優れた少女漫画評論はたくさんある。『立ちどまらない少女たち 〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ』(大串尚代おおぐしひさよ、2021年)のように西脇順三郎にしわきじゅんざぶろう学術賞を受賞したり、『少女マンガ ジェンダー表象論 〈男装の少女〉の造形とアイデンティティ』(押山美知子おしやまみちこ、新増補版2018年)のように少女漫画論が著作として出版されているのは、ひとりの少女漫画読みとして大変嬉しいことである。

でも少女漫画というジャンルの豊潤さに比べ、評論は、それを語る言葉は、まだまだ足りない、と、私は思っている。

しかし世間的には、そうでもないらしい。

「なぜ世間と自分の間にこんなにギャップがあるのだろうか……」

そんなふうに思いつつ、私は一冊の本を読み返すため、手に取った。

藤本由香里ふじもとゆかり『私の居場所はどこにあるの?  少女マンガが映す心のかたち』(初版1998年、学陽書房)。

「女性による少女漫画評論」の、ひとつの出発点となる本である。

本書をはじめて読んだのは大学生の時だったが、それから、折に触れて読み返している。そして今回、「なぜみんな少女漫画評論は既にたくさんあると思うのだろう?」という疑問をもって読み返すと、あるひとつの仮説に思い至った。

――藤本由香里の少女漫画論の見通しは、あまりに広い。ものすごく広い。そしてあまりに広いがために、「この本一冊で少女漫画はまんべんなく論じられている」と思う人も多いのではないだろうか?

この「少女漫画評論はまだ少ないのではないか問題」について、『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』朝日文庫版の解説の執筆者である作家の三浦しをんは以下のように述べる。

まず、「少女漫画評論を一冊にまとめた本」というのが、世の中にはとても少ない。少女漫画の歴史と作品数と充実度を考えると、少女漫画評論の少なさは驚異的だと言えるだろう。
ただでさえ少ない少女漫画評論のうち、私がこれまでに読む機会を得たものは、限られた数でしかない。そのなかで、共感と納得と目から鱗感覚をもって読めたものは、さらに限られる。それが、橋本治氏の『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』であり、藤本由香里氏の『私の居場所はどこにあるの?』だ。

(『私の居場所はどこにあるの?』朝日文庫、p.444)

三浦は、少女漫画を論じる評論が少ない理由について「評論家に男性が多いからではないか(それゆえに少女漫画の読み手が評論側にまわることが少なかった)」「少年漫画と比べ、主人公もテーマも揺れが激しい少女漫画は、要素が複雑なので評論しづらいのではないか」という二点の理由を挙げる。

もちろんそのふたつの理由も確実にある、と私は思う。

ただ、少女漫画に限らず、「評論されやすいジャンル」と「評論されづらいジャンル」は、どう考えても存在する、というのが私の持論である。

少女漫画評論の歴史と藤本由香里

そもそも評論は「解釈」と「評価」が掛け合わせられて生まれたジャンルだと私は思う。

たとえばこうして一冊の本を紹介するにしても、ただの紹介に見えて、ここには「私はこの本をこういう意味で受け取りましたよ」という紹介者の解釈が入り込む。本をまるまるそのまま差し出すなんて無理で、どこを切り取り、どういう説明をもって渡すのか、そこにはどうしたって解釈が伴う。

一方、どの本を紹介するのか決める時、必ず「私は他の本よりもこの本を良いと思ってますよ」という紹介者の評価もまた入り込むのだ。評価して権威付けているわけじゃない、ただ紹介しているだけだ、という人もいるかもしれない。しかしそれでもやはり紹介するものを選んでいる時点で、そこには権威付けの行為が入ってきてしまう。

評論とは、解釈と評価の足し算だ。

そう考えた時、「評論しやすいジャンル」とはつまり「解釈と評価をしやすいジャンル」になる。

たとえば小説や映画は評論しやすいジャンルだと私は思っている。それはなぜなら、これまで解釈の言語化と、作品の権威付けが盛り上がってきた歴史(つまりは文芸批評や映画批評といったジャンルの興隆)があるからだ。つまりは解釈の評価の歴史が長いよね、という話である。

しかし評論しづらいジャンルというのは、いままで評論されてきた歴史が短い。歴史が短いからこそ、解釈する言葉も少なければ、評価する作品の目星も立てづらい。かくして評価しやすいジャンルとしづらいジャンルの差は生まれる。

少女漫画は、そういう意味で、評論されてきた歴史がまだまだ短いジャンルだと私は思う。もちろん歴史が短い理由としては、三浦しをんが解説で挙げていた理由もあるだろう。

しかし逆に言えば、評論の歴史が積み重なれば、少女漫画評論はもっと増える! と思うのである。

そういう意味で、女性による少女漫画評論のスタートラインとも言える本書が、絶版になっている場合ではないのだ。昨今増えてきた少女漫画評論の礎ともなる、藤本由香里の評論は、ふつうに手に取れるくらいの本にならないと、少女漫画読みとしては、困る!

まず本書のすごいところは、目次だけ一読しても、少女漫画というジャンルの扱うテーマの広さが見て取れるところだ。

恋愛、性描写、成熟、家族、居場所、時間、トランスジェンダー、レズビアン、女性愛、社会、組織、生殖、生命、進化……。

本書を執筆する以前の藤本が、筑摩書房の編集者として上野千鶴子うえのちづこ中島梓なかじまあずさの本を担当したという経歴からも、彼女自身の興味と、少女漫画という媒体の扱うテーマとぴたりと一致したことがよく分かる。

「少女漫画といえば恋愛」というイメージが今よりさらに強かったであろう90年代。ここまではっきり言語化されないと、その印象を覆すことは難しかったのだろうと想像できる

少女漫画は、時代の抑圧と願望の写し鏡だ

だが、母子家庭や離婚家庭が不幸だ、などとだれが決めたのだろう。「あそこは家庭の事情が複雑だから」というのは、小さな声でささやかれなければならないと、だれが決めたのだろう。不幸な家庭がそれぞれに不幸なように、幸福な家庭もそれぞれに幸福であっていいではないか。明るい母子家庭だって、明るい再婚家庭だって、あっていいではないか。少女マンガはいま、その実験をしているように思える。そしてその秘訣はどうも、親が、❘脳《・》天気でヒジョーシキであることのようなのだ。

(『私の居場所はどこにあるの?』朝日文庫、p.110)

「家庭」という章の分析である。

きわめて鋭い指摘だと思う。藤本は、当時の少女漫画において「親が、脳天気でヒジョーシキ」であることが、「明るい母子家庭だって、明るい再婚家庭」の秘訣である、と述べている。つまり、世間から不幸だと思われやすい「普通じゃない家庭」を楽しくするのは、「普通じゃない親」の存在なのだ、ということだ。

ヒジョーシキな、普通じゃない親とはどういう親なのだろうか。つまりは家父長制の抑圧を受けてない親ということだろう。

おそらく藤本がここで言いたかったのは、旧世代からの抑圧から自由になることこそが、これからの日本の家庭を多様にする鍵だという意味ではないだろうか。少女漫画による、家父長制への抵抗。それは「明るい母子家庭」「明るい再婚家庭」という形で現れていた。そう考えて自分の好きな少女漫画を思い返してみると、たしかに、明るい家庭には、「お母さん、非常識だよ!」「お父さん、ふつうと違うから!」と言われる親が不可欠なように思う。もちろん、子どもにとって家庭=親であるわけだから、それは当然っちゃ当然なのかもしれないけれど、でもそれにしたって少女漫画読者の抑圧と願望の裏返しのようにも見える。

つまり、現実で親に抑圧されればされるほど、少女漫画には、抑圧から解放された親が用意される。

一面的な「新しく明るい家族」つまりはいかにも昭和的な家父長制の抑圧というものに、当時から少女漫画はたしかに挑戦し続けてきた。少女漫画は時代を映す。時代によって女性たちの抑圧も願望も変わっていくが、その変化はちゃんと作品に残されてゆく。そしてその映されるスピードはきわめてはやい。映画よりも小説よりも漫画は時代の欲望を先取りすることがしばしばある(描き手の平均年齢の若さが理由のそのひとつではないかと私は思っている)。だからこそ少女漫画の内側に伏流するテーマを読み取ることは、女性たちの生きる時代を読み取ることでもあるのだ。

藤本はそのことに極めて自覚的な書き手である。そのため本書も、語り口は柔らかいし、漫画への愛をもって分析を綴るが、同時に冷静な目で時代を評論する。

藤本の扱うテーマは広く、そして、おそらく深掘りされるべきいくつもの研究の「初めの一歩」でもある。

家族の問題も、母娘の問題も、生殖の問題も、トランスジェンダーの問題も、むしろ今やっと論じられ始めたところに思えてくる。

ここから伸びてゆく枝葉が、2020年代となった今こそ、やっと茂ってきたところなのかもしれない。

だからこそ、藤本の評論をもって「これ一冊で少女漫画はじゅうぶん評論されている」なんて思うべきではないのだろう(そんなこと誰も言ってないよ! と慌てて否定されるかもしれないが)。私は本当にそう思う。

やっぱり少女漫画評論はこれからもっともっと伸びてゆくべき樹木だ。

読者としても、一書き手としても、本書が何度だって読み返され、そしてここから出た芽が、さまざまな人によって伸ばされることを切に願っている。


今回の絶版本

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著者プロフィール

三宅香帆

みやけかほ/1994年、高知県生まれ。書評家。京都大学文学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修士課程修了。2017年、『人生を狂わす名著50』でデビュー。おもな著書に、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(だいわ文庫)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)、ほか多数。最新刊は、自伝的なエッセイ集『それを読むたび思い出す』(青土社)。

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