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第5回 小説家のエッセイは読み継がれないと困る 桜庭一樹が滲ませるもの|三宅香帆

光文社新書

絶版になりやすいジャンル?

小説家のエッセイというのは、絶版になりやすいのか……? 

というのが、今回の連載のためにリスト化した「この本が絶版になっているなんて嘘だ! 名著なのに!」本の一覧を眺めていて思ったことである。

たしかに小説家の小説とエッセイだったら、前者のほうが絶版になりづらいのは仕方ないことなのかもしれない。本業だもの。とはいえ、小説家のエッセイが好きな私としては、切ないものがある。なぜなら私は「小説家のエッセイと小説家の小説をいっしょに読み、下種な妄想をして小説を楽しむ」、下種な読者のひとりだからだ。

たとえば不倫の小説を読んで、作者も実際に不倫していると思い込む、なんてのはさすがに読解力のない読み方だ。でも、作中で変に目立ってくる特異な恋愛観について、エッセイを読むと、「やっぱりこれは作者の恋愛観のひとつなのかも……」と思い始めるなんてこと、読書家なら一度は体験したことがあるのでは? 

こんなこと書くと私がいつも下種な読み方をしているのがばれてしまうが。この連載を読んでいる方のなかにも同じような読み方をしている人がいたら、私にこっそり「私も下種な読者の一人です」と教えてほしい。

優れた小説家にとって、追いかけたいテーマなんていうのは、結局そんなに多くない。

同作家の著作をいくつも読んでいると、「ああこのテーマがこの小説家が小説を書く理由か」とふっと分かることがある。それは他人には分かってもらえない欲望だったり、自分と世間のねじれだったりする。そしてエッセイは、その小説家が追いかけているテーマが滲む場所でもある。

作家のエッセイに不必要な暴露は必要ない。生い立ちを暴露したり作者の性癖を晒したりしなくても、単に今日あったことや好きな食べ物の話、尊敬している作家の話でも書けばもうじゅうぶん。「どういう人か」が見えてくるのだ。

小説家のエッセイに滲むもの

もちろん読者だって、エッセイに書かれてあることが純度百パーセントの真実だとは思ってはいない。しかし事実でなくとも、書くことには、小説家自身の人となりが滲む。というかその文章に閉じ込められた情報量の多さこそが、小説家を小説家たらしめているのだろう。

そんなわけで小説家のエッセイ、簡単に絶版になってもらっちゃ困る! 隠れ下種読者としては、エッセイ読めなきゃ小説家を追っかける楽しみ半減だよ! と出版社の肩をぶんぶん揺さぶりたくなる。

さて今回紹介するのは、悲しいことに絶版となっている、直木賞作家・桜庭一樹による読書エッセイ『少年になり、本を買うのだ 桜庭一樹読書日記』。電子書籍にすらなっていない、桜庭一樹の読書日記シリーズの第一弾だ。

本書は、小説家・桜庭一樹が読んだ本とその日常の記録――つまりは「読書日記」となっている。彼女は日々とにかく本を読んでいる。さまざまなジャンルの本を読むので、本書が日記のなかで紹介する選書ラインナップは、海外ミステリから国内エンタメ作品まで多岐にわたる。読むと「おっ、面白そう」と思える本が、読書好きならきっと一冊は見つかるはず。

たしかに普段、作家がどんな本を読んでいるのかは気になる。作家がリアルタイムで今読んでいる本たちを知ることができるなんて、ファンにとってはたまらない作品だろう。エッセイとしても面白いし、とある作家の読書日記として、有用な一冊となっている。

しかし、桜庭一樹はやっぱり小説家。

本書は一見ただの読書エッセイだ。しかし実はよく読むと、その行間から、彼女の小説のテーマが滲んでいるのだ。

桜庭一樹作品のテーマ

 どんな女を鏡の中に見たがるのか。ちらっと鏡を見てみる。わたし自身の戦いはというと、女の部分をそぎ落として、中性に近づこうとする奇妙な戦いであるようにも思える。

(『少年になり、本を買うのだ 桜庭一樹読書日記』創元ライブラリ、2009年、p.160)


「女性性」を削ぎ落すことが、ひとつの戦いである。……読書エッセイのなかで、作者はさらりとそう書いている。

ほかにもエッセイの中には、「我は女である、という、漠然とした、明けない病のことを思い出す」という一文も登場する。

そう、単なる読書エッセイと見せかけつつも、実は、本書には、作者の「女」であることへの逡巡が繰り返し描かれているのである。

――この話、もしかすると桜庭一樹の小説読者じゃなかったら、さらりと流してしまっていたかもしれない。が、桜庭一樹の小説読者としては、ちょっと読み飛ばせないポイントだ。なぜならそれは、彼女の描く小説そのもののテーマだから。

あなたが桜庭一樹の小説を読んだことのある方なら分かると思うのだが……桜庭一樹作品には「少女が初めて自分の性を意識する/させられる瞬間」が繰り返し描かれる。

少女だった頃はもう二度と戻らない。自分は性という力で世界に対して影響力を持ってしまった。しかしその影響力は自分や他人を救うほどの力はなく、結局自分は無力なままだと、思い至る。

そんなふうに、「女性性」というテーマは、桜庭作品によく登場するのである。

すると、エッセイで何度か描かれる「女性性という病を克服する」という話も、見逃せない。小説のテーマそのもののように思える。

そういえば本書はエッセイなのに、第一人称がいつからか「俺」に変化している。エッセイで第一人称が変わるというのは珍しいし、よく考えるとこれは本書を読み解くのに重要な要素ではないだろうか。というかよく見ると、本書のタイトル「少年になり、本を読むのだ」という言葉こそ、桜庭作品を読み解くカギでは――!? ……このエッセイを読んで、そんなふうに深読みしてしまうのは、きっと私だけではないはずだ。

作者はタイトルでこう言っている。「本を読むときだけ、『俺』つまりは少年になることができる」と。

フィクションに没頭するとき、自分は少年になることができる。呪われた、少女という性を脱ぐことができる。

――少女であることの呪い。それは彼女の綴る小説のテーマそのものだ。

つまりは小説でもエッセイでも、同じ話をしている。

作家とはそういうものなんだろうなと、私は思う。

『少年になり、本を読むのだ』とは?

本稿の私の主張はこれに限る。「小説家のエッセイを、簡単に絶版にしてしまっては困る」。その一点のみだ。

なぜならそれはエッセイとしての価値だけでなく、小説を読み解く鍵としても価値のある一冊になるかもしれないから。

今回例として挙げた『少年になり、本を買うのだ 桜庭一樹読書日記』は、一見、ただの小説家の読書エッセイに思える。しかしこのエッセイを読んでいると、実は『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop or A Bullet』『私の男』『少女七竈と七人の可愛そうな大人』『GOSICK』等、彼女の小説への理解が深まる。きっと作者はそんなこと意図していないのだろうけれど。

小説家のエッセイは絶版になってもらっちゃ困る。新しい読者が、人気の桜庭一樹作品に触れたとき、エッセイにも書店でアクセスできる状態であってほしい。私はそう願っている。

 しかし、女性の生き方探しっぽいストーリーなのに、周りが男の客ばかりなのが非常に気になる。すごく混んでたんだけど、わたしの座った列全員、ずらっと男の一人客だった。なんで俺、紅一点なの……?

(『少年になり、本を買うのだ 桜庭一樹読書日記』創元ライブラリ、2009年、p.26)

なんで俺は、女性なの……? ――少年になり本を読む日々を綴ったエッセイの中には、自分が「少年ではない」現実世界への戸惑いが描かれている。

それはきっと、これから桜庭一樹作品を読み解く上で重要な鍵になってくれるはずだ。

小説家のエッセイは、小説家の小説を読むのに役立ってくれる。下種な読み方かもしれないけれど、読者として小説を深く読み解きたいと願った時に、エッセイは必要不可欠な資料のひとつではないだろうか。

今回の絶版本

前回はこちら

著者プロフィール

三宅香帆

みやけかほ/1994年、高知県生まれ。書評家。京都大学文学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修士課程修了。2017年、『人生を狂わす名著50』でデビュー。おもな著書に、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(だいわ文庫)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)、ほか多数。最新刊は、自伝的なエッセイ集『それを読むたび思い出す』(青土社)。

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