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第4回 あなたは福田和也のように面白くない小説を面白くないと言えますか?|三宅香帆

光文社新書

作家を採点?

作家に点数はつけられるのか。

そんなヒリヒリする問いかけに対し、本書の筆者は、「つけられる」と即答する。

何かを書いて発表したことのある人の多くはきっと、この答えに驚き、そして戸惑いを浮かべるのではないだろうか。

なぜなら文章は、人によって好みも違えば、しっくりくるタイプも違う。小説というごく個人的な表現媒体なら尚更だ。作家がそれぞれオリジナリティを発揮した物語を書いてくれるからこそ、読者は安心して様々な小説に手を出すことができる。

その個性豊かな物語を同列に並べ、値をつけるなんて。おかしなことをしているのではないか? そもそも人によって好みが違うのに、点数をつけて小説同士を比べる必要がどこにあるんだろう? そう感じる人は多いだろう。

しかし本書の筆者――福田和也は、当時活躍していた作家の作品に対し、平等に点数をつけた。

その採点と、採点基準を集めたのが、本書『作家の値うち』である。

俎上そじょうに載せられた作家は100人。純文学とエンターテイメント小説それぞれ50人ずつ。福田和也は気鋭の純文学批評家だった(なんせ三島由紀夫賞の選考委員になったりしていたのだ)が、本書を書くまで、エンターテイメント小説を批評する機会に恵まれなかったらしい。本人はそのことを「エンタメ系の小説は、厳しい評価を下してはならないとする出版社が多いため、自分は批評を書く機会を与えられなかった」と述懐している。でもエンタメ小説も関心を持っているし評価もしたい、だから今回取り上げたのだ、と言う。

ちなみに取り上げる作家については、2000年刊行当時に活躍していた現役国内作家に限る、というのも特徴のひとつだろう。本書が刊行されたのはいまから20年以上前。そのため今の大御所たちが新進気鋭作家の扱いを受けていたり、評価の文章のなかに出版不況の影がそんなに見えなかったり、昨今とかなり状況は異なる。

しかし時代が変わっても、本書が読者に抱かせる「なんじゃこの本は」という驚きは変わらない。

なんせ江國香織と、藤本ひとみと、五木寛之と、高橋源一郎と、川上弘美が、同じ点数基準で採点されているのだ。

小説読者としてはものすごい違和感。

当時の読者たちも同じようにまずは眉をひそめたのではないだろうか。本書の持つ独特の違和感、つまり目次を見た時の「えっ、この作家とこの作家を、同じ基準で、採点……?」という驚きと戸惑いは、今も昔も変わらないだろう。

しかし一方で読み進めると、独特の快感がある。小説たちが、まるで学校のテストのように採点されている。小説に付随する、なんとなく不可侵で、「変なこと言ったら怒られそう」という権威性が、ぼろぼろと剥がれ落ちてゆく気がしてくる。

そう、最初は怪訝けげんな顔で読み始めていた読者も、なぜか、読み進めるとどんどん面白く読んでしまう。

それがこの『作家の値うち』。不思議な本なのだ。

なぜ『作家の値うち』は面白いのか

ただ作家の作品たちを採点するだけの本『作家の値うち』は、なぜ面白いのか。刊行されてから20年以上経った今、一小説ファンとして、あらためて考えたい。

まず、読者の下世話な野次馬根性に応えてくれる。この点は外せない。

「あの大御所作家に対してこんなに悪口言っていいの!?」という、他人の犯行を盗み見るような快楽がある。

たとえば例として挙げたいのが、高橋源一郎への評。『作家の値うち』には、作家の代表作を採点するとともに、作家への総評も掲載されている。その評こそが、本書の持つ魅力の真髄と言っても過言ではない。

「現在、高橋源一郎の作品を読むごとに痛ましいことがあり得るだろうか。かつて燦然たる輝きを放った作を世に問いながらも、あまりに早すぎる自己模倣への後退と、その後の惨憺たる文化人活動。無論こうした運命が高橋を襲ったのは、作家・文化人を極度に甘やかし、軽佻さを善しとした時代の科もあるだろう。その点で高橋は、現在の日本文学のみならず、文化全体の「疲弊」と「不毛」を象徴する存在である」

(福田和也『作家の値うち』飛鳥新社、2000年、p.180)

……し、辛辣しんらつ

しかしこのあたりは批評家・福田和也にしか書けない評のようにも思えてくる。

2000年の高橋源一郎といえば、まだ『日本文学盛衰史』も書いていなければ、『ニッポンの小説 - 百年の孤独』も書いていない。小説家としてはたしかに高橋源一郎パロディ期(といっていいのか?)の真っ只中だなあという印象が、勝手に私の中にもある。

福田和也はこの高橋源一郎パロディ期が許せなかったらしい。

彼の作品をこう採点する。

『さようなら、ギャングたち』……91点。「文句のつけどころのない現代文学の傑作」
『優雅で感傷的な日本野球』……60点。「パスティッシュ、パロディーが巧みであればあるほど、作品自体は退屈なものとなってしまっている」
『ペンギン村に陽は落ちて』……33点。「『Dr.スランプ』を題材としたパロディー、パスティッシュ。ただそれだけの代物」
『ゴーストバスターズ 冒険小説』……21点。「「恥知らず」の一言」

なんとも正直な採点だ。

しかしたしかにプロの感想を読むとき、私たちのなかには少しばかり下世話な心が覗く。

自分が言いたいけど言えないような、辛辣な感想を言ってほしい。スキャンダラスな、作家と批評家の戦いが見たい。この批評家がどの作家を好きで、そしてどの作家を嫌っているのか、知りたい。

普段称えられている作家が、まな板の上に乗り、切り刻まれる様子を見たい。

そういう読者の野次馬根性に、本書は全力で応える。作家に対する歯にきぬ着せぬ、なによりも正直な言葉こそ、批評家の役目だといわんばかりに。

そう、本書の面白さは「大御所作家を俎上に載せること」だけではない。同時に「大御所作家を採点する、批評家自身も試されていること」もまた、面白さを生んでいるのだ。

結局、「評価」とは「好み」なのか!?

実際、福田和也はこのように綴る。

今日、多くの読者を集めている作家たちのうちどれほどの人が、時代を超え、世代を超えて記憶されていくのか。埋もれている作家たちのうち誰が時間の経過とともに再発見されるのか。この点は読者のみならず批評家の眼力が問われる事柄でもある。

(『作家の値うち』p211)

作家の本当の値うちは、一時期の爆発的なヒットだけではなく、時代を超えて読み継がれることで決まる。福田はそう述べる。

だからこそ、福田が「値が高い」と採点した作家たちのうち、実際にどれほどの作家が、ちゃんと時代を超えて愛されているか。現代の読者は「採点の採点」をすることができる。

とくに発行から20年以上経った今なんて、再読には恰好のタイミングだ。

現代の読者――つまり私でありあなたであるわけだけど――は、少しいじわるな目線で本書を楽しむことができる。福田の高く評価した作家たちは、本当に時代を超えて読まれているのか? 福田の批評家としての「値うち」は、どのようなものなのか? 批評家として彼は本当に実力があったのだろうか?

そんな目線で本書を読むと、彼がものすごく評価した作家への賞賛には、自然に目が向く。

「現存作家の中で最高の実力と資質をもつだけではなく、近代日本文学のあり方そのものを変えた大きな存在である。(中略)の名前に指を屈することで、辛うじて日本文学についての希望を、未来を描くことができる、という感慨すらある」

……高橋源一郎へ厳しい評価を下したのと同じ人だとは思えないほど、強い賞賛だ。これが誰を評した文章かといえば……。

村上春樹なのである。

『1Q84』のお祭り騒ぎとか、今のノーベル賞獲る獲る話題ブームの前の村上春樹に対して、これだけ迷いなく評価できるのはすごいな! と私なんかは素直に感心してしまう。

この人の目はけっこう信頼できるな! そう思いはするのだが、しかし一方で本書を読むと、福田和也自身の好みというものも分かってくる。

福田和也の審査基準、もとい小説の好みは、まとめるとこんな感じだ。

①だらだらと長くないこと。
②登場人物の動機を幼少期のトラウマで片づけないこと。
③繰り返し同じテーマを追いかけていること。

なぜかこの3つの好みから外れていると、福田の採点はやたら辛くなる。長い小説に対してはそれだけでNGを出すし、幼少期のトラウマにも厳しい。そしてずっと同じことをやっている作家には「この人の書きたいテーマがはっきり見つかってて良い」とし、いつも異なるものを書いている作家には「なにがやりたいのかよくわからん」という評価を下しがちだ。

と、いう彼の好みを踏まえると、たしかに村上春樹の、『作家の値うち』が評価する『ねじまき鳥クロニクル』以前の作品は、この三点をすべてクリアしているのである(『ねじまき鳥クロニクル』はまあ長いが、三巻分けて出版されたから良いということだろうか……ちなみに評価は「最長にして最大」)。いや、これはやっぱり批評家としての審美眼云々というよりも、村上春樹が福田和也の好みだっただけでは? という気もしてくる。

ちなみに『ねじまき鳥クロニクル』は96点、ものすごい高得点を叩き出している。本書最高得点。そして『ねじまき鳥クロニクル』と同じ96点を出しているのが、古井由吉ふるいよしきち仮往生伝試文かりおうじょうでんしぶん』、石原慎太郎『わが人生の時の時』。評価の理由が気になる方はぜひ読んでみてください。

個人的には『きらきらひかる』と『姑獲鳥うぶめの夏』が同じ点数なことに微笑みました。分かる気がする。

面白くないという読者は必要か?

さて本連載の第3回で、文芸評論家・斎藤美奈子の批評を紹介しながら、「感想において、面白くないものを面白くないと言うことは、はたして必要なのか」という問いをぼんやり扱った。

面白くないものは触れなければいいのではないか。面白いものだけ、面白いと言っていればそれでいいのではないか。読者はただ楽しむだけでいいのではないか。ただの一介の読者が、小説に批判的な意見を述べる必要はあるのだろうか。「面白くないものを、面白くないと言う」ことは、首肯されることなのだろうか?

第3回で紹介した斎藤美奈子は、はっきりと「面白くないものは、面白くないと言う」批評家だった。そしてその行為こそが、彼女の批評の面白さを担保している。彼女が面白くないものには触れませんという書き手であれば、私は彼女の書くものを読みたいとは思わないだろう。なぜなら批判も含めた批評精神が、彼女への信頼につながっているからだ。

これについて今回紹介した福田和也は、「面白くないものは、面白くないと言う」ことこそが作家と読者の間には必要な行為なのだ、という主張までおこなっている。

たしかに優れた作家と優れた作品は存在している。しかしまた一方であまりにも下らない作品が世間に流布している。その状況をシニカルに眺めるのではなく、進んで疑義を呈して覆す強い意志こそが、書き手と読み手の双方に好ましい緊張をもたらすのだ、ということを私は信じている。

(『作家の値うち』p232)

一見、なんだかまたラディカルなことを言っているように思えるけれど。でも考えてみれば、読者であれば「なんでこんな下らない作品が流行ってるんだ!?」と世の中に対して思ったことが、きっと誰しも一度はあるのではないか。それは小説に限らない、いろんな作品に対して。

そこでシニカルになるのは、簡単だ。「最近ってこういう作品流行ってるよね、なんか嫌な世の中になったなあ、昔はよかった」と言うのは容易なのだ。

しかしそれは本当に良き読者なのだろうか。

世間にとっての良き読者とは、何なんだろうか。

クレーマーになってなんでもかんでも批判するのは、なんだか違う気がする。でも、シニカルな消費者になることもまた、それだけで終わりたくない気がする。

読者としての無駄な自意識だと斬り捨てるのは簡単だけど、福田和也の『作家の値うち』を読むたび、私は真摯な読者とは何か、という問いに想いを馳せてしまうのだ。

今回の絶版本

前回はこちら

著者プロフィール

三宅香帆

みやけかほ/1994年、高知県生まれ。書評家。京都大学文学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修士課程修了。2017年、『人生を狂わす名著50』でデビュー。おもな著書に、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(だいわ文庫)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)、ほか多数。最新刊は、自伝的なエッセイ集『それを読むたび思い出す』(青土社)。

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