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ドーハの奇跡! 日本vs.ドイツ試合後の現地リポート by小川光生

『サッカーとイタリア人』(光文社新書)の著者で、10月に訳書『セリエA発アウシュヴィッツ行き』(光文社)を上梓された小川光生さんによる、現地ドーハからのリポートです。

「これはもはや“奇跡”ではない」


 歴史的勝利を挙げたドイツ戦の後、日本代表の森保一監督は次のような言葉で対戦チームへ謝意を表した。

「ドイツには日本サッカーの選手を育ててもらっている。リスペクトと感謝の意を示したい。ドイツの皆様には、(日本サッカーの)発展に大きく貢献していただいた」

 個人的にこういうコメントは嫌いではない。サッカーとは基本的に“歴史”の積み上げだと思っている。各国の代表の特徴というのは、そのチームが創設以来積み上げてきた経験によって培われていくと信じているからだ。森保監督の発言は、ワールドカップという大舞台での日本とドイツという対戦の意味が分かった者の言葉であり、(ドイツ側がどう思うかは別として)新しい歴史(経験)を作り上げた者の言葉だと感じる。
 
 日本サッカーを育てたドイツ人としてまず最初に名前が挙がるのは、デッドマール・クラマー氏(1925年~2015年)だろう。1960年代初頭に日本サッカー界初の外国人コーチとして、日本代表の基礎を作るとともに日本サッカーリーグの創設にも尽力したドルトムント出身の指導者。1964年の東京オリンピックを控えた日本代表を指導するため来日したクラマー氏は、徹底的な基礎練習により釜本邦茂、杉山隆一ら多くの若手選手を鍛え上げ、代表の東京オリンピックのベスト8進出、続くメキシコシティー・オリンピックの銅メダル獲得の土台となるべきチームを作り上げた。その功績から、彼を「日本サッカーの父」と呼ぶ人は多い。

 私は静岡県の藤枝市の出身で、クラマーさんの愛弟子のひとりで同市在住の杉山隆一さんから、時折「父」の凄さを教えていただいていた。また母校・藤枝東高校のサッカー部全盛期である1960年代の監督であった長池実監督は、ドイツからサッカー戦術の原書を取り寄せ、辞書片手にそれを解読し、選手の指導にあたっていたという。1960年代、まだ日本サッカーがワールドカップとは遠い場所にいた時代、日本はドイツのフースバルの強い影響のもと、サッカーという競技の強化をはかっていたことは、周囲からも聞き及んでいた。

 その「父」の母国ドイツで成長し力をつけたスピードスター浅野琢磨(ボーフム所属)が、ドーハのハリーファ国際スタジアムの右サイドをドイツ代表のDFニコ・シュロッターベックを背負いながら突進する。シュロッターベックのマークを振り切った浅野は、今度は、世界屈指のGKマヌエル・ノイアーの守るゴールへ、角度のないところから右足でボールを蹴り込む。ボールはノイアーの脇を抜け、ゴールに突き刺さった。後半38分。大一番で日本がついに2-1とリードを奪う。

 スタジアムは大歓声につつまれた。近くに座っていた全身ドイツづくめの親子はいつのまにか日本側に寝返っている。ニッポン!ニッポン! 日本のウルトラスの掛け声に触発され、スタジアム全体が日本への声援の大合唱となる。ただまだ終了までには時間がある。ドイツ代表が死に物狂いの猛攻をしかけてくるのは明白だ。

 大合唱の中、私の脳裏には、なぜか昔読んだ日本のオリンピックチームへの声援のことが浮かんでいた。1936年のベルリン・オリンピック、サッカー競技の1回戦で日本がスウェーデンから3-2となるゴールを決めたとき、ヘルタ・プラッツ・スタジアムに詰めかけていたドイツの観衆は、日本に「ヤーパン!ヤーパン!」の大合唱を送ったという。いわゆる、“ベルリンの奇跡”の際にである。ドイツとの奇妙な因縁が頭をよぎる。

 当時のドイツはアドルフ・ヒトラー率いるナチ党が絶大な権力を掌握し始めたころ。1935年、つまりベルリン・オリンピックの1年前、ナチ主導のもと、ユダヤ人への差別を合法化した通称ニュルンベルク法が可決された。その後もヒトラーのユダヤ人への偏見は誇大妄想のように膨らんでいき、ナチ占領地のあちこちで、大規模なユダヤ人狩りが敢行されることになる。

 私が10月に上梓したマッテオ・マラーニ著の翻訳本『セリエA発アウシュヴィッツ行き』の主人公であるアールパード・ヴァイスは、日本代表がベルリンで“奇跡”を起こしていたころイタリアのセリエAで指揮官として辣腕をふるっていた。1929年、ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党の指導のもと整備された初の全国単一リーグのセリエA(1部)でインテルを優勝に導き、その後も、ボローニャに1936年、1937年と2度のスクデット(セリエA優勝)をもたらした名将。ドーハに旅立つ前、その本を上梓していたことも関係していたのだろう、私は浅野の逆転ゴールが決まったハリーファ国際スタジアムのスタンドで、巻き起こるニッポン・コールを聞きながら、なぜかふとかの悲劇の名将に想いをはせていたのだ。

 インテルとボローニャという2つの名門クラブで、合計3度のセリエA優勝を勝ち取っただけでなく、1937年6月のパリ万国博覧会カップの決勝で強豪チェルシーを4-1で破り、ボローニャに当時としては破格の名誉をもたらした名伯楽。そんな名将が、ただ一点「ユダヤ系である」という理由だけで、絶滅収容所に連行され、家族もろともその存在を消されてしまう。

 マラーニは著書の中で彼を「近代サッカーの父」と称している。当時支配的だった守備的な布陣「メトド」を捨て、攻撃サッカーに合わせた「システマ」を積極的に登用しイタリアのみならずヨーロッパ全体に先述の革命をもたらした監督としてのヴァイスを評価してのことだ。

 ドイツと日本、ドイツとヴァイス、そしてクラマーと日本……。2人の「父」と今目の前で死闘を演じている2国が、脳裏で奇妙な交錯を始める。

 今大会から導入された“完璧主義”の方針から7分もあったロスタイムは、日本のファンにとって30分にも感じる「苦悶の時間」となった。ドイツ代表はなりふり構わずパワープレーを仕掛けてくる。あともう少し……。ニッポン・コールはまだ続いている。

 もし、日本サッカーの父、クラマーが生きていたら、教え子たちの国の“孫弟子”たちが母国の代表を苦しめている姿を見てどんな想いを抱いたであろうか。そして、「近代サッカーの父」アールパード・ヴァイスなら、裕福な砂漠の国での見知らぬ国、日本とかつて彼と彼の家族を窮地に追い込んだ国との激闘を、どんな気持ちで眺めるのだろうか。また、元インテルの長友佑都、元ボローニャの富安健洋という2人の“遠い教え子”のプレーをどんなまなざしで見守るのだろうか。

 奇妙な脳内交錯のなか、私はゲームの終わりを迎えた。歴史(経験)がまたひとつ塗り替えらえた。マスコミはまた、この勝利を「奇跡」と呼ぶのだろうか。ただ、クラマーとヴァイスは、そうは呼ばないと思う。クラマーならば、おそらく、これは日本のサッカーの(特に技術面での)成長の証と目じりを下げ、ヴァイスならば、前半、十分には機能しなかった中盤を解体し、スピードのある攻撃型の選手を次々と投入、試合の流れを変えた森保監督の采配を称賛するのではなかろうか。そして、たぶん、「2人の父」はどちらもこう断言するはずだ。「これはもはや“奇跡”ではない」

 スタジアムから(悪評が目立つが現実にはそれほど悪くない)ファンビレッジへの帰り道、世界中のサッカーファンや現地の人々に「日本おめでとう!」と声を掛けられ、「何かが変わった」ことを思い知らされる。歴史的瞬間に立ち会えた喜びはもちろん大きい。ただ、これは奇跡なんかではない。奇跡にしてはいけない。日本製だというドーハの最新式の地下鉄の車内で、私は想像の中で、サッカー史に残る「2人の父」の声をまだ聴き続けていた。(了)


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