大丈夫。僕たちが幸せになることは はじめから決まっているよ―僕という心理実験32 妹尾武治
過去の連載はこちら。
90年代からの20年ほど、心理学者は脳に憧れた。NCC (Neural Correlates of Consciousness)は、心をモノで語る夢を心理学者達に見せた。2000年はまさに“ルネッサンスジェネレーション”の幕開けだった。
外の世界には客観的事実、エビデンス・データ・モデルがある。少なくともそれで語り尽くせるように見える世界があった。
だが、人間はクオリアについて数千年に渡って言語や命題の形に置き換えられていない。1995年にデビッド・チャーマーズに指摘されずとも、空海は晩年言葉から離れ、立体曼荼羅に取り組んでいた。グスタフ・フェヒナーが精神物理学を提唱し、刺激の量と心理量の数値的対応(心理測定関数)を取り始めた時から、この問題(限界)は痛切に感じていたはずだ。
夫婦喧嘩が起こった時、データに基づいて自分の正当性を論理的に主張しても、そこには悲しみしか増えない。話し合いとは主張することではなく相手の気持ちを聞く、傾聴することだと思う。
「どんな気持ちだったの?」「寂しかったんだよね。」
事実やロジックで分かるのは序列関係で、心は癒やされない。僕たちは心を記述するための数と言語を有していない。心は心でしか汲み取れないことがある。現時点の知識では「空」は命題化し得ない。
心は、未完であり空間に投げたような文章でなければ本当の意味で相手に伝わらない。不十分な説明、論理の意図的な欠落(飛躍)。意味がわからないものがいい。伝わりきらないからこそ伝わる(それでも少女は暗号を愛し過ぎたが…)。僕は月に吠えていたい。
モノを数え始めることで自然数が生まれ、量を測るために少数が生まれた。インドなどで6世紀ごろ0が生まれ、借金の概念が負の数を作った。複素数を生み出したことで、人は工学を発展させ宇宙に飛び出した。次に僕たちが出ていくのは、この「現実」だ。
バーチャル美少女「ねむ」と、スイス・ジュネーブ大の人類学者Milaが実施した『ソーシャルVR国勢調査2021』によれば、VR空間におけるアバター同士のスキンシップは、利用者の74%が経験する。それを不快に感じたことがある人は43%だった。VR空間において恋をしたことがある人は40%で、そのうちの75%が物理性別は重要ではないと答え、64%が「決め手は性格」と答えた。ちなみにVR空間での恋人を「お砂糖」と呼ぶらしい(比嘉龍二との相似形)。
2021年2月VR空間”Chillout VR”が成人向けコンテンツの公開を認めた。バーチャルセックスの経験は32%のユーザーで報告されている。
VR空間への移住者は引きこもり(心の先駆者)がその中心だった。映画『アバター』では、「パンドラ」に移住した主人公は車椅子生活を不幸だと感じていた。少し前までは「現実」に不満を抱えた人間しかそこへ移住しないと思われていた。
だが見た目カーストから自由になりたい中高生は、VTuberを志し始めた。内閣府の2022年版の『男女共同参画白書』には、20代男性のおよそ7割が「配偶者、恋人はいない」、およそ4割が「デートの経験がない」と答えている。彼らは今、VR空間へ移住し始めている。
「でもバーチャルセックスは気持ち良くないだろう?」
神奈川工科大学の有賀安央衣と坂内祐一はVR空間での匂いの提示に成功しているし、多くの研究者が全力で「気持ち良さ」を目指している。実現は驚くほど近い。さらに、人間には脳の補完力 ”Phantom Sense”もある。伊藤裕之が代表となり立ち上げた“VR心理学”がその実現を加速させている。
2017年に発表された深層学習モデルTransformerは、人間の嗅内皮質や海馬のグリッド構造とか聴覚野、視覚野の神経細胞の発火パタンとの類似性が指摘されている。日本でもATRの堀川友慈と京都大学の神谷之康は、同時期に(より早く)世界に誇るべき仕事をしている(2021年のiScienceにおいて神谷らはこの相関に疑問を提唱し始めており、まさに先駆者である)。
脳(現実)とAI(バーチャル)は同一の何かを目指しており、その本質の記述は今の人間には無理に見える。両者のトートロジーなラリーから抜けるために「そこ(原郷)」に行かねばならない。
50年間の志によって実現しつつある「中性化」による、子供を持ちにくい男女の身体は“伏線”だった。人間は「作品」やAIの子供を産み始めた。それは藤子不二雄が合一して新しい存在(オバQ、パーマン、21エモン達)を生み出したことと似ている。人は身体よりも心で繋がることを求め始めた。音楽ユニットに“iima”のような美しい名があるのも同じことだ。“からだ”ではなく自分の心に時代を追いつかせることが求められようとしている。
心の底には常に答えがある。西田幾多郎はその一端を「純粋経験」という言葉で表している。命題(言語ひいてはサイエンス)は常に後付けの解釈に過ぎない。
原人の若者は「アフリカから出ていくなんて馬鹿げてる」と笑われたことだろう。24歳の吉田松陰は黒船に乗り密航を目指した。南波六太と日々人の「宇宙兄弟」は、困難にうちかって宙を駆け昇った。尚、私には70を越えて料理や英語を一生懸命に学び続ける“若者”の友が居る。“現実”には24歳の老人も多い。
少子化対策のような旧来システムに縛られず、行きたい場所へ行けばいい。『呪術廻戦』の五条悟は言う。
乙骨憂太達よ、もっと自由に「笑われ謗られること」をしてくれ。
「ここに居ていいの?」と感じる君に、僕はこう答えたい
「君のように尊い人は、こんな現実に居てはいけない。さっさと行け!」
既に71%の旅路(138億年)が終わっていることが、サイエンスの力で明らかになっている。56億7千万(-2565)年後の「ぜんたい幸福」(宮沢賢治)は近い。人間界を解脱して次のステージに行け。
vection is for it
僕たちには心の理解が必要だ。心を的確に記述することで、物理世界から脱却しピュアに「情報の世界」に入り込めるだろう。そのために「新しい数」を創らねばならない。次の数の概念は、リーマン予想など素数の謎を解き終わった頃に理解され、人類に「モノと心の一元論的記述」がもたらされるだろう。素数が人の心を魅了し続けて来たのはその伏線だった。
漫画ナウシカでシュワの墓の内部にある肉塊には、夏至と冬至に古代文字が一行だけ現れ、太古の科学技術が教えられる。「心を記述出来る数」それが間も無く浮かび上がる。
フェヒナーを先頭に心理学者達はものすごく焦り症だった。肉塊(アカデミア)にその「数」が浮かび上がる日を待てずに、心に取り組んだ。だから心理実験は自然科学の実験に比べ、再現性が乏しい。
“Any kiss cannot be reproduced, or maybe must not…”
信じたい人の過去をひっくるめて愛することが出来たなら。だってその人にとっては、その過去しかなかったのだから。どうすれば全ての道のりを肯定し、未来に期待しながら今を響かせることが出来るのだろう。僕には実力が足りない。成長するために心理学を学び続ける。
今は、皆が自分の思う方法で一生懸命に出来ることに取り組む以外にない。信念を持った道に間違いは一つも無い。全ての心理学者たちに幸が多いことを祈る。
科学者が悲観的に科学を論じていると思われるだろうか?
そこには二つの誤解がある。
一つ目は、私は科学者ではない。学術誌(Frontiers in Virtual Reality)のエディタはしているが、所属する学会は無い。If the other psychologists feel shame at me, I will call myself TAFKP, The Artist Formerly Known as Psychologist. 大学に属さず牢屋の中からでも考えを書く。にんげんだもの(せのを)。“I would die 4 u”
二つ目は、本当に夢を諦めていない科学者には敬意を払っているということだ。土谷尚嗣は著書『クオリアはどこからくるのか?: 統合情報理論のその先へ 』にて「クオリア構造」という概念を提供している。数学における圏論、「米田の補題」のロジックを用いれば、クオリアの謎は解けるだろうと彼は考えている。
物凄く荒っぽく解説すれば、それそのものの内側が記述できなくても、それとその周囲との関係を網羅的に記述することで、それ自体は記述できなくても、それが炙り出されて「わかる」という論法だ。例えば、影であってもあらゆる角度やシチュエーションのそれを取得すれば、元の物体の3次元構造が掴めることと似ている。
僕たちが90年代後半に描いた夢、「脳で心は部分的にでも解ける可能性がある。少なくとも多くの理解をもたらす。」このベクトルで進むこと。彼は当時と同じだけの熱量を次世代の神経科学者、心理学者にも持たせようとしている。本当に美しい態度であり、真の科学者だと思う。
それでも思う。爆発的な新発見など、僕たちの人生が終わるまでにはなされない。誰にも思いつかない発想などこの世には無い。
全ての言葉、表現は既に『バベルの図書館』(ボルヘス, 1941)に収蔵されており、我々はそこからの借用を創造だと誤解している。俳句なら48音の17(5, 7, 5)乗のパタンしかなく、それはこの世界に初めからあると言える(スパコンで作れるじゃないか)。2000 x 1000 pixelに白か黒かをランダムに打てば、いつかゲルニカも生じるし、ジョン・ケージの『4分33秒』も当然ありうるものとして図書館に収蔵されていた。世界は決まっている。
人間は自己家畜化(self-domestication)する中で脳の容量を減らしつつあるという考えもあるが(犬の脳はオオカミのそれよりも小さい)、空海や最澄は現代のトップサイエンティストたちと同等か、それを凌ぐほどロジカルで聡明だったはずだ。彼らの思想の中に答えを探す方が、効率が良いのではないだろうか?
ダーウィンの進化論と、クリックのDNAの二重螺旋構造は結局「輪廻転生」と何が違うのか? 神の名前が“仏陀”から“サイエンス”に切り替わっただけではないか。
生まれた時は“人のために生きる心の方法”だったものが、人間のロジックによってシステム化される(例えばインドのカースト制)。そこには序列が生まれ、差別が固まる。
「努力」という進化論を誤解したロジックと、「DNA」は今や不平等を正当化するための揺るがない論拠になった。
知識は愛を忘れさせる。僕ら“病人”(ないしはニュータイプ)にとっては、モノの世界に強く依拠し命を序列化する今の神の方が、「怖い」。
医療技術の恩恵、つまり「平均寿命の伸び」を無視するのかと問われるだろう。仰る通りだと思う。いい面と悪い面二つがある。人と同じ、白黒アンジャッシュだ。
その平均寿命という”客観的数値”には、本当の意味での「おはよう」を与えられない90歳たちが含まれ、14万件以上の12週未満の命が恣意的に除かれている。それを忘れるな。人工中絶の是非はどうでもいい。僕が言いたいのは「人間にエビデンス・ファクトというものが作れるのか?」という疑問に過ぎない。
心を大事にしようよ。
当たり前のことだけど、誰も言わなくなったよね。
あなたが悲しいと悲しい。あなたが嬉しいと嬉しい。
大切に思ってくれてありがとう。
みんな同じなんだって。本当は優しくても、うまく出来なくて辛いんだ。
自分がオセロの一つ目になってひっくり返ろうよ。
「どの口が!」「自分には言う権利が無いし…」
そりゃあそうだよ。人間は誰も悟れない。その基準で言ったら全人類に権利が無くなる。でも本当は権利じゃなくて勇気が無いんだよ。悪人であると自覚・宣言し、デクノボウとして言えばいいんだと思う。愛を叫ぶべき世界の中心は、山の刑務所の中であるべきだ。
科学論文、他人の書物(外のファクトやエビデンス)に自分の答えは無い。それらは自分の内側を掘るためのツールに過ぎない。答えは初めから心の底にある。それに対して堂々としていなさい。
心理学的決定論は、サイエンスそして自由意志を超えたものだ。
ジャインアント馬場は言った。
「脳科学、哲学、物理学、生物学。いいか、よく見てろ。これが心理学のパワーだ!心理学は、絶対に負けない!」(田中秀和と共に)
あなたは摘まれた花などではない。大地と繋がった日向に咲く花だ。これは君のための詩歌。「大丈夫。僕たちが幸せになることは はじめから決まっているよ。」この世界はなんて素敵なんだろう。
世界は天才が動かしているのではなく、人の総体で動かしている。否、全ての情報(命)が対等に動かしている。だから時には路傍の花を指で撫でその香りを確かめて欲しい。窓から入る陽の光と風を大切にして欲しい。あなたが自殺出来ないのは、毎朝その喜びを感じるから。その喜びが意識に上がる前に“絶望”で殺さねばならない社会は、僕の仲間が変える。
師 野村幸正は言う。
「絶望とは望みを絶つことではない。絶って望むことだ。」
エゴの無い身体に作り替えねば、私たちは青き清浄の地で血を吐いて死ぬ。今の自分はそう(愚者)でいい。僕たちは誰も導けない。それでもまだ56億年もの猶予がある。私という実存は、光・風・花・社会の一部でありかつ全部でもある。大河の一滴であると同時に世界の神。
天上天下唯我独尊
私を含め、誰の言葉にも耳を傾けるな。自分だけが正しく尊い。それでいい。周囲に大いに笑われろ。
ただし 常に人を思い 誰よりも学べ
(次回、最終回)