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食べる西洋美術史|馬場紀衣の読書の森 vol.44
食事の席を描いた絵画はたくさんあるけれど、まずはレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』が思いだされる。捕縛される前日、キリストはエルサレムで12人の弟子たちと食事をした。身振りと表情によって表現された使徒たちのそれぞれの感情は、キリストがこの席で発言した衝撃的な内容によるものだけれど、私には彼らの会話よりもずっと気になることがある。世界でもっとも有名な晩餐の、そのメニューだ。食べることへの情熱がそれほどない人でも、テーブルの上になにが並んでいるのか「見よう」と目を細めたことがあるにちがいない。
食べ物や食事は西洋美術においては常に中心的なテーマであった。古代世界ではすでに食物がさかんに表現され、墓室には宴会の情景が描かれていたが、中世にキリスト教によって食事に神聖な意味が与えられると、食事の情景が美術の中心を占めるにいたった。この伝統が近代にも継承され、現代もなお重要な主題であり続けている
古今東西、食事は宗教的で社会的な側面をもっている。聖書のなかに飲食の場面がおおく登場するのも、食べること(飲むこと)が儀礼と深く関係しているためだ。だから西洋絵画に描かれた食べものをじっくりと見ることは、それだけで充分に意味がある。
こうした絵の楽しみ方が画家たちに失礼だと困るのだけれど、お腹を空かせているときに鑑賞するなら「静物画」がもっとも良いと思う。私は静物画ならどんなものも全部好き。みずみずしい野菜も、熟れすぎた果物も、逆さに吊るされた小動物も、美味しそうなものも崩れたものも。食べものの絵というのは、人の姿が描かれていないぶん、視覚だけでなく味覚や嗅覚を強く感じることができるし、美しい果物や野菜が本物そっくりに描かれた静物画を前にしているときの感覚は、見る、というよりも愛でる、に近い。人物や動きがないのに、わびしいという雰囲気がないのもいい。
静物画の伝統は、古代にはじまり中世にいったん途絶え、中世後期からルネサンスに復活した。15世紀にネーデルラントでふたたび生まれたとき、静物表現はキリスト教的な意味に染められていた。葡萄(ワイン)とパンはキリストの象徴、リンゴは原罪、ザクロは復活、といったように、単なる「もの」の表現ではなく宗教画のように意味を担う芸術となったのだ。17世紀になると「目に見える具体的な物や人に抽象的な概念を重ねる」寓意的な静物が増えていく。そうした寓意的主題のひとつに、「五感の寓意」がある。たとえばフランスのリュバン・ボージャンの絵では、視覚は鏡、聴覚はリュートと楽譜、嗅覚は花瓶の花、味覚はパンとワイン、触覚はトランプとチェス盤と小銭入れによって表現される。
人類の歴史の中で、豊富な食料がいつでも手に入るようになったのはそれほど昔のことではない。いつ飢饉に襲われるかわからない時代に人々は絵のなかの豊富な食材になにを見たのだろう。鮮やかな織物のうえの豪華な食卓にひっくり返った杯が転がっているとき、あるいはグラスにワインが半分しか満たされていないとき、この本がその理由を説明してくれる。
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東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。