Q9「『パンク』という言葉は、元来どういう意味なのか。語源は?」——『教養としてのパンク・ロック』第13回 by 川崎大助
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第1章:なぜなにパンク・ロック早わかり、10個のFAQ
〈10〉Q9「『パンク』という言葉は、元来どういう意味なのか。語源は?」
シェイクスピア作品中の「パンク」
ご存じのように、お察しのように、あまりいい意味ではない英単語だ。「ちんぴら」「不良」といったようなニュアンスの名詞ではあるのだが、決して「こわもて」のそれではない。どう考えても、かっこよくない語でもある。喧嘩は弱いくせに、騒ぎだけは起こす嫌われ者、とか。とにもかくにも「役立たず」とか……。
たとえば、こんな例がぴったりかもしれない。裏庭の花壇にいたずらする小学生たちを見つけた老女が箒を手に追い立てていく、そんなときの決まり文句が「このパンクスが!」というような。そんな程度の「迷惑な存在」が、一般的文脈内で使用される「パンク」の典型だ。英語における「パンク」とは、まずもって最初に「ダメな奴」というニュアンスが強い。
また、隠語としての「パンク」には、男娼という意味もある。刑務所などで、腕っ節の強い男にいいようにされ、性的に搾取されているような若造、といったニュアンスの使用法がアメリカにはある。そしてこの用法は、とても歴史が古い。起源はなにしろウィリアム・シェイクスピアの17世紀初頭のイギリスにおける使用例にまで、つながってしまうのだから。
1602年に発表のシェイクスピアの喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち(The Merry Wives of Windsor)』や、03年もしくは04年に書かれたと目されている『尺には尺を(Measure for Measure)』のなかに、「パンク(当時のスペルでは Puncke)」なる語が出てくる。このころの「パンク」は、娼婦や身持ちの悪い女をあしざまに表す語だった。
ゆえに後者『尺には尺を』の第五幕には、こんな台詞がある。放蕩者で粗忽者のルーシオが、公爵とマリアナの対話に分け入る。そして彼女を指して、こんなふうに言う。
「旦那様、彼女はたぶん『パンク』なんでしょう。あれらの多くは、処女でも寡婦でも妻でもありませんゆえ」
『尺には尺を』は、シェイクスピアが『終わりよければ全てよし』と同時期に書いた喜劇であり、いわゆる「問題劇」だった。ワーグナーが20代で書いた喜劇オペラ『恋愛禁制』が、この『尺には尺を』をベースにしたものだったことも有名だ。
さらにオックスフォード英語辞典によると、シェイクスピアより古い用例もある。1575年より以前に作曲されたと目されているバラッド『老王サイモン(Simon the Old Kinge)』にも、同じ用法での「パンク」の使用例が確認されている。
と、こんなパンクが、17世紀も後半になると、女性ではなく男娼を指す語へと、意味が変化してくる。とくに歳上の男性に買われる若い男娼が「パンク」と呼ばれた。アメリカの刑務所スラングは、じつはここの直系なのだ。ゆえに、パンク・ロックにおけるその用法は、必然的に男性同性愛のニュアンスを帯びてくることになる。ラモーンズが、この点に敏感に反応・感応していた――いや「ラモーンズが、そんなふうだったから」パンクという語が引き寄せられてきたに違いない、のだと僕は考える。
伝説の音楽誌『パンク』
ラモーンズのファースト・アルバムには、ニューヨークのゲイ売春シーンに材を得た、これも奇妙なナンバー「53rd & 3rd」が収録されている。マンハッタンのミッドタウンにて、男娼が客引きをする場所として知られていたのが「五十三丁目と三番街の交差点」だった。主人公であるヴェトナム退役軍人の元グリーン・ベレーの男がそこで客に拾われるのだが、カミソリで相手を襲う――というストーリーで、書いたのはこれまたディーディーだった。
ちなみにこの「53rd & 3rd」という曲名は、スコットランドのバンド、ザ・パステルズを率いるスティーブン・パステルらによって85年に設立されたインディー・レーベルの名称ともなっている。ラモーンズ諸作品への敬意の発露というのが命名理由のようなのだが、そこで選ばれたのが「なかでもこの曲だった」という点は趣き深い。
あるいはまた、70年代のアメリカにおける「パンク」使用の典型例は、刑事ドラマのなかにあった。『刑事コジャック』なんかで、犯人を追い詰めて捕らえるシーンで、鬼刑事たちの口を思わずついて出てくる言葉のなかに「パンク」があった。
「ついに大量殺人者をとっ捕まえた彼らは決まってこう言うんだ。『このうすぎたないパンクめ』って。学校の先公どもも同じこと言ってたネ。お前は最低だって意味さ」(『イングランズ・ドリーミング』より)
そんなふうに音楽ジャーナリストのレッグス・マクニールは語っている。マクニールは伝説の音楽誌、その名も『パンク』の共同創刊者のひとりであり、彼こそが同誌の名付け親であり、本人いわく、今日我々が知る「パンク・ロック」の名付け親でもあった。同誌で彼は編集者や発行人ではなく「常駐パンク(Resident Punk)」との肩書きのもと活躍した。
76年1月15日、まずは大判の紙を折り畳んだ形態にて、『パンク』の創刊号は発売された。同号のメイン記事はルー・リードだったのだが、しかし同時に、ラモーンズのインタヴューもフィーチャーされていた。76年4月に発行された3号目では、イラスト姿のジョーイ・ラモーンが表紙を飾った。
パンク時代とは、同時に「DIY(ドゥ・イット・ユアセルフ)」時代の幕開けでもあった。バンドを組むのも、レコーディングもツアーも、レーベル運営もすべて「自分たちの手で」おこなうという機運が、このころから急速に高まっていった。なかでもファンジンやフリーペーパーなどの手作りメディアの機動力は、シーンの活性化に大いに寄与した。既存の音楽メディアが出遅れているあいだに、DIY組は、あっという間にムーヴメントの渦中に飛び込んでいっては情報を発信した。『パンク』誌はその最前衛のひとつであり、同誌の素早い動きが、それら「新しいロックンロール」に名を授けることになった。
ストリートにおける文芸復興運動
もっとも、ロック音楽に「パンク」の言葉を冠するという行為は、『パンク』誌が最初ではなかった。既存の音楽誌が使用したことはあった。70年代初頭の音楽に対して(『クリーム』)、60年代のガレージ・バンドについて(『ボンプ』)などの例だ。ラモーンズも拠点としたニューヨークのクラブ〈CBGB〉周辺のシーンについて「パンク」の語を用いたのは『アクエリアン』だったが、しかしパティ・スミスはいいとして、ブルース・スプリングスティーンやベイ・シティ・ローラーズまでがその語の区分に含まれていたという。ゆえに「今日の我々が知るパンク・ロック」という意味で「パンク」を最初に使用したのは、レッグス・マクニールたちの『パンク』誌だったと見なされている。
「初期の頃の『パンク』紙には、パティ・スミスがランボーに、テレヴィジョンがジェラール・ドゥ・ナーヴァル(筆者注:ママ、日本語では通常、ジェラール・ド・ネルヴァルと表記される)に、リチャード・ヘルがニーチェにたとえられていた」(『イングランズ・ドリーミング』より)。
ニューヨークにおけるパンク・ロックとは、なによりもまず、ストリートにおける文芸復興運動だったのだ。好んで着用していたTシャツやジーンズ同様、ずたずたに切り裂かれた自我を抱えた貧しい若者たちが、まさにDIYで「嘘のないロック」を手作りしようとしたとき、ごく普通に罵倒語や侮蔑の言葉としてしか機能しない「パンク」が、まるで勲章か王冠のようにして、キッズの誇りのよりどころとして、高々と掲げられるようになったのは、決して偶然の産物ではない。まさにジョニー・ロットンが「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」のなかで歌ったように「俺らはごみ缶のなかの花、お前ら用の人間マシーンのなかの毒」だったのだから――自らをアイデンティファイするにあたって、これ以上ふさわしい言葉は、ほかになかった。
【今週の1曲と映像1本】
The Ramones - 53rd & 3rd (2016 Remaster)
Kojak's BADASS Moments From Season 1 | Kojak
(次週に続く)