「国連」で働くとはどのようなことか?|高橋昌一郎【第14回】
世界に羽ばたく国際公務員
1917年(大正6年)3月、会員制の経済団体「日本工業倶楽部」が設立された。初代理事長は、三井財閥の総帥・団琢磨である。当初は政府の政策決定に寄与していたが、1946年に「日本経済団体連合会」と「経済同友会」が発足した後には、実業家・財界人の社交クラブとしての役割を担うようになった。今でも続いているのが、日本工業倶楽部の設立者の一人である衆議院初代議長・中島久万吉が「実業家・財界人の人格形成」を目的に設立した「素修会」である。
さて、前置きが長くなったが、その日本工業倶楽部素修会に2度、私は講演に伺ったことがある。タイトルは「科学的認識の限界と可能性」と「理性の限界とインスピレーション」だった。質疑応答の際、さすがに第一線で活躍する聴衆の質問は鋭かった記憶がある。講演後の懇談会では、普段会う機会がない実業家・財界人と雑談ができて楽しかった。たとえば、「僕は本当に損切りが下手でね、今日も株で大損しましたよ」と、大手銀行の頭取が冗談を言ったりする。
そこで印象に残ったのが、大手商社の会長が次のように語ったことである。「最近の新入社員は、まったく訳がわかりませんな。入社後、どこに行きたいか希望を聞くと、私らの時代はニューヨークとかロンドンとかパリと言ったもんだが、今では東京本社と言うんだ。いったい何を考えて商社に入社したんだ?!」
実は、日本を離れたくないという学生の安定・定着志向が高まっている。大学・大学院の高等研究機関に単位を伴う長期留学をする日本人は2004年をピークに減少し続けている。とくに最近の数年はコロナ禍の影響で短期も含めた海外留学そのものが大幅に減少している。就職後も転勤は嫌だという学生が多い。それらの学生とは正反対に、世界に羽ばたいて国連の「国際公務員」として多種多彩な分野で活躍する10人が、国連に対する思いを綴ったのが本書である。
現在、紛争の火種が残るベオグラード国連事務所長を務める山下真理氏は、父親が日本の外交官、母親がフィンランド生まれという国際的環境で育った。小学校はハンブルグと東京、中学校はボンとボンベイ、高校は東京で、その頃から「国際的な仕事をしたい! 平和に関係する仕事をしたい! 自分にあった環境で働きたい!」と希望するようになったそうだ。彼女は上智大学に進学して模擬国連大会に出場し、タフツ大学大学院を経て、国連競争試験に合格した。
一方、インドや東ティモールで40年以上「国連児童基金(ユニセフ)」 の活動をリードしてきた浦元義照氏は、「宮崎県の片田舎で生まれた高校生」だったが、1年間のアメリカ留学をきっかけに世界に開眼し、翌年には寝袋を持ってヨーロッパ各地を放浪したという。本書の10人は爽快な冒険的人生を歩んでいる。
本書で最も驚かされたのは、国連と関連専門機関に勤めている日本人職員約千人のおよそ半分が「ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO)」制度で採用されているという事実である。国連関連機関の一般公募は、高度な語学力と専門分野の知識が要求され、世界中の応募者との競争になるので、採用されるのが難しい。ところがJPOは、日本政府の奨学金で2年間国連の仕事を経験し、35歳までの日本人同士の競争で選ばれる仕組みなので、一般公募よりも採用され易い。この制度で毎年50~60人の日本人が採用されているそうだ。
国連の意義は益々重要になっていく。大国の暴挙を監視して国際平和を実現するためには、国連が不可欠である。日本の若者には、世界に羽ばたいてほしい!