人体、5億年の記憶|馬場紀衣の読書の森 vol.51
ささやかなことだけれど「体」と「からだ」では、表記以外にもちがいがあるように思う。眼があり、脳があり、左腕と右腕があり、左脚と右脚があり、やはり左右に5本ずつ指がついている、そんな左右対称の構造をもつ「体」。たいしてその中央ともいうべき場所にある「こころ」をも含んだ「からだ」。そういえば「身体」という表記もある。こうした表記の揺れには、カラダのというものの曖昧さがよく表現されているように思う。そして私がつねに惹かれてやまないのは「からだ」なのである。
「からだ」について書きながら、「こころ」についても考える。こころとは、からだにあるものなのだ、というのは著者の言葉。その根底にあるのは、解剖学者・三木成夫の思想だ。こころを知るには、からだを知ればいい。三木は、体の基本形は一本の管であると考えた。口という入り口からはじまり、出口へと至る一本の管。
本書によれば、からだは動物的なものと植物的なものとに分けることができるという。動物的なものとは、筋肉、骨、神経、脳などで、これらには近くで起こっていることの情報を把握する能力がある。つまるところ「意識」である。いっぽう、植物的なからだは内臓という一本の管に集約される。このからだにも世界の情報を察知する能力が備わっている。内臓には生命の記憶が刻まれており、これが「こころ」の正体なのだという。三木によれば、人間は動物的なからだ(意識)が大きくなりすぎたために、植物的なからだ(こころ)の存在をほとんど忘れてしまっているらしい。だからこそ、自分のからだに目を向けることに大きな意義がある。
興味深いのは、この一本の管が魚では真っ直ぐなのに、両生類、爬虫類と進化するなかでねじれていくということ。哺乳類の消化系ともなれば、ご存知のようにらせんの形にねじれていて、いったいどうしてお腹に収まっていられるのか不思議なくらいだ。三木はこの形を「宇宙の根原形象」と考えた。じっさい、らせんは植物の蔓や髪や爪やDNAの構造などさまざまな生命の形態に共通して見ることができる。空を見上げれば夜空の星雲に、地球の自転と公転を組み合わせた動きもらせんになっている。なんだか自分のからだが宇宙の構造に飲みこまれていくような感覚。私たちもまた世界の一部なのだと、改めて考えさせられる。