見出し画像

1:産業化したニューウェイヴが、パンクを消し去った——『教養としてのパンク・ロック』第27回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第4章:パンクが死んでも、パンクスは死なない

1:産業化したニューウェイヴが、パンクを消し去った

パンクの死因

  第2章において僕は、UKのいわゆる「オリジナル・パンク」の興隆と、「あっという間の」終焉について書いた。だがしかし、誰もが知るとおり、21世紀のいま現在においてもなお、世界のいたるところに「現役」のパンク・ロッカーたちはいる。一体これは、どういうことなのか? ここから解説していきたい。

 ひとことで言うと、あるとき「復活」があったのだ。まるでちょうど、イエス・キリストの再臨のように。一度完全に「死んだ」と思われていたパンク・ロックは、意外な形を含む「ありとあらゆる形態で」地上の至るところで、同時多発的に、墓場から蘇ってくることになる。おもに80年代に、それは起こった。

 という劇的な「復活のありさま」を記す前に、まずは「パンクの死因」を見てみる必要がある。「UKのオリジナル・パンク」は、イギリス音楽シーン特有の「流行の変遷」の激しさによりマーケットから弾き出されてしまったのだが、そのとき「弾いた」側の中心にいた勢力こそが、じつは「ニューウェイヴ」だった。ニューウェイヴの拡大が、結果的に、崖っぷちへとパンクを追い立てていくことになった。

1:産業化したニューウェイヴが、パンクを消し去った

 名前の列記からいってみよう。カルチャー・クラブ。デュラン・デュラン。スパンダー・バレエ。デペッシュ・モード。ワム! アダム&ジ・アンツ。ヒューマン・リーグ。ABC。ユーリズミックス。ヤズー。OMD。シンプル・マインズ。バナナラマもいた。サイケデリック・ファーズもいた。エコー&ザ・バニーメン。カジャグーグーからリマール。さらにはあのビリー・アイドルが、全米で愛される(ちょっとパンキッシュな)アイドル・ロッカーになった――こうした顔ぶれに象徴される、イギリスのアーティストたち、米ヒット・チャートの上位エリアを幾度も幾度も絨毯爆撃するかのように「侵攻」していった面々の大多数が「ニューウェイヴ」と称される勢力だった。つまりニューウェイヴは、とてもよく売れた。

 そんなUK発のニューウェイヴ・アーティストたちの80年代におけるアメリカ市場への「来襲」は「第二次ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれた。とくに1982年から85年のあいだの波は巨大だった。「第一次」のそれとは、言うまでもなく、ビートルズを筆頭にブリティッシュ・ビート・バンドが活躍した60年代の大旋風を指す。つまりそれ以来初めての、大西洋の向こうからアメリカへと渡来した「売れるポップ・スター」の大波だった。これらのアーティストはもちろんイギリス本国でも、欧州大陸でも、日本でもよく売れた。プリテンダーズら先駆け組も、しっかりヒットした。

 もっとも、ニューウェイヴ・バンドの全部が全部、商業的に成功したわけではない。あるいは「商業的に成功するため」に売れ線を狙って結成されていた、ものばかりではない。ちょっと整理しておこう。

「ニューウェイヴ」とは何か

 ロンドンを中心に「ニューウェイヴ」と認識されるバンドが増えた時期とは、パンク・ロックの音楽的スタイル確立からひと呼吸遅れたぐらいのタイミングだった。第3章の2項で述べたとおり、ブルース抜きの「悪いバランス」のもと、いたるところ「穴だらけ」だったパンク・ロックに、一番最初に「付け足し」を加えたのがニューウェイヴだった、と言えようか。モノクロームだったパンク周辺の音楽風景を、フルカラーへと一変させたのがニューウェイヴだった。

 たとえば、シンセサイザー。オルガン。各種エフェクター。とにかくサックス。そしてホーン・セクション。リズムマシーン。はたまたパーカッションやヴィブラフォン。音楽性もソウルにファンク、ジャズ、もちろんレゲエにスカ(は大きな市場を得た)、ボサノヴァにサンバ、カントリー、ロカビリー、各地の民謡、戦前のポピュラー音楽などなど、あらゆるものを雑食的に取り込んだ。それから女性コーラス隊、女性ヴォーカル。色鮮やかな、あるいは凝りに凝ったコスチューム。もちろん男も化粧して――というのが、ニューウェイヴと言われて僕が最初にイメージする像だろうか。パンク同様に既存の音楽や文化的エレメントをサンプリングしては吸収していったのだが、その摂取範囲の広さも物量の多さも、パンクとは桁違いだった。こうした「胃袋の強さ」もまた、ニューウェイヴの特徴だった。

 つまり、パンクの発想にて一度「骨だけ」になったバンド・アンサンブル概念やリズム認識の上に、ありとあらゆる「付け足し」を、無造作にプラスしていった結果「壮麗に、華々しく大仰に、ポップに」なってしまった音楽こそがニューウェイヴだった。

「ポストパンク」との違い

 ここで重要な点は、のちに詳述する「ポストパンク」との概念上の差異だ。「パンク後」を引き継ぐロックのサブジャンルとして、ポストパンクとニューウェイヴは比較的近い系譜のなかにある。もっと言えば、僕の記憶では、70年代後半の時点では「ポストパンク」という語は、一般的にはほとんど流通していなかったような気がする。最初は基本的に「なんでもニューウェイヴ」だった。そして80年代に入る前後ぐらいに、突如浮上してきた概念が「ポストパンク」だったのではなかったか。

 そんなポストパンクとニューウェイヴとの違いの最たる点を述べるならば、前者が「硬」で、後者が「軟」と言おうか。ポストパンクのほうは、パンクの精神性をなんらかの形(反発でも構わない)で「引き継いでいる」ものだと考えていい。「仏作って魂入れず」では、ダメなのだ。しかしニューウェイヴとは、言うなれば「その逆」だった。見た目さえ「仏みたい」だったら、とくに魂は問わない(どうせ見えないんだし)――といったような、ある種の大雑把さ、機能性のみに着目した外見至上主義みたいな特質が、あった。「男が化粧すること」に一切の理由付けを必要としない、といったようなものこそが「ニューウェイヴ魂」だったと言えようか。

 もっとも、たとえばエルヴィス・コステロのように、パンク・ロッカーよろしく切れ味いい批判精神や政治意識のもとで「激情」を吐き出すアーティストも少なくなかったのだが、しかしそれは、ニューウェイヴの必要条件ではまったくなかった。アイロニカルに政治的なフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのレコードとフロック・オブ・シーガルズが「同じ棚」に隣り合わせで並んでも、とくになにも問題ないと誰もが思うような概念こそが「ニューウェイヴ」の本質だったから。パンクを知らない、もしくはパンクには一切興味がないアーティストでも、ニューウェイヴになることは容易だった。

「最も最初の」世代のニューウェイヴ・アーティスト

 そんな「ニューウェイヴ」という語は、具体的には、1977年という「聖なるパンクの年」の夏ごろには、すでに十分に人口に膾炙していた。『イングランズ・ドリーミング』のなかで、ジョン・サヴェージはこう述べている。「8月になってパンクは、ニュー・ウェイヴと呼ばれるようになりビッグ・ビジネスになった」と。

 77年のこの当時の、つまり「最も最初の」世代のニューウェイヴ・アーティストというと、まず前述のコステロ(まさにこの8月に、前月発表のデビュー・アルバムがヒットしていた)。そのほか、XTCやスクイーズも「パンク・ロックとは呼べないものの、しかし、近い文脈で『新しい』もの」として、極初期ニューウェイヴの称号を得ていた。

 さらには「この線を狙って」成功するバンドも多くいた。かつてボウイやグリッターが「転んで」グラムになったような経緯だ。なかでも特筆すべき成功者となったのが、78年にアルバム・デビューしたザ・ポリスだった。パンクの精神性はとくにないのだが、クレバーにレゲエを導入した「冷たいニューウェイヴ・タッチ」の音楽性は、国際的に大きなヒットの連発へと成就。スティングに生涯セレブリティの座を約束するまでに至った。 

77年秋の日本の状況

 僕の手元に、興味深い資料がある。77年当時の日本において、パンク・ロックとニューウェイヴが「どのような仕分けで」認識されていたかを示すものだ。あるいは「ニューウェイヴがパンクを駆逐していく」そんな過程の描写ともなっていたかもしれない。これを僕は、発行後ずっとあとになってから手に入れた。

 当時の平凡出版(現マガジンハウス)から発行されていた雑誌『ポパイ』の第19号(1977年11月25日発行)にて「パンクはスウィングしなけりゃ意味がない……」と題した、見開きページの記事が掲載されていたものが、それだ。副題は「Between "Punk" and "New Wave"」。まさにこの両者の語義について考えるという記事であり、筆者は日本最初のパンク・ジン『ZOO』(のちに『DOLL』となる)編集長の森脇美貴夫だった。当時の日本のレコード会社各社の担当ディレクターからコメントをとっていた点が、資料的価値が高い。いくつか紹介してみよう。

 まずは、ラモーンズやランナウェイズ(原文ではラナウェイズ)をリリースしていたフォノグラムの北沢氏のコメント。パンクとニューウェイヴの違いについて。

「最初はパンクって言っていたのネ。だけどなんかウサンクサイって感じで受け止められたり、マイナーなイメージを持たれたりして(中略)なかなかうまくいかなかったわけよ。パンクの音って単純だからネ、難しかったんだなァ。いまじゃニュー・ウェイヴってことになっちゃったけど、多分ムーヴメントとして定着してきたからだろうね。今後ウチから出すデッド・ボーイズやリチャード・ヘルは、たぶん流れに従ってニュー・ウェイヴってことになるだろうね……」

 なんと、そんな、とあなたは驚くだろうか(僕は驚いた)。「ってことになるだろうね」でヘルの『ブランク・ジェネレーション』までもがパンクでなくなった、とは……。

 続いて、ザ・ストラングラーズを「ニュー・ウェイヴ」として紹介した、キング・レコードの担当者、加藤氏の発言。

「パンクって言葉はある種の風俗的状況だと思うし、ニュー・ウェイヴをもっと大きくした文化的な動きを意味してるのかな……。パンク・ロックって、ふだんの言動や歌詞もストレートだし省略できないとは思うけど……」

 と全体的に、拒否反応とまでは言わないものの、パンクという言葉から腰が引けている感じは否めない。こうなった理由のひとつは、この前年の76年にラモーンズなどの「パンク第一陣バンド」の日本盤がいくつか発売されたものの、いまいち売れなかったことが響いていたようだ。さらには、すでに書いたとおり、76年末からのピストルズの大暴れは遠く離れた日本にも伝わっていて、そこですでに、パンクはある種の「流行情報」として消費され尽くしていた――ようにも見えていたのだろう。スキャンダルにまみれた「街の風俗言語」として。そんなところから、同記事の終盤あたりでは、筆者である森脇が「パンクを核心とするニュー・ウェイヴは日本に上陸したばかりでどこへ流れて行くのか?」と疑問を投げかけていた。「パンクはニュー・ウェイヴの核心」という見出しもあった。

 つまり77年の秋の時点において「すでにここまで」ニューウェイヴはパンクを包囲していたわけだ。おそらくこの記事の執筆・編集時期は、あのセックス・ピストルズのアルバムがついに世に出る、77年10月28日の前後だったのではないかと想像できるのだが、にもかかわらず、こんな調子だったのだ。また記事中で森脇は、当時ピストルズの日本盤をリリースしていた日本コロムビアの弱腰姿勢を批判している(「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」の日本盤シングル・ジャケットは、オリジナルのグラフィックは採用されずに「文字だけ」のものとなり、歌詞の記載もなしという扱いだった)。

 ともあれ「パンクではなく、ニューウェイヴと言ったほうが売りやすい」と考えるレコード業界人が日本にいた――のだが、じつはここの大枠については、本国イギリスはもちろんアメリカでも、さしたる違いはなかった。クラッシュが孤軍奮闘したものの、アメリカで成功できるUKパンク・バンドはこのころほとんどいなかったし、またアメリカで成功できる自国のパンク・バンドすら、もちろんいなかった。しかしたとえば、ブロンディが「ニューウェイヴ化」して、ジョルジオ・モロダーのミュンヘン・ディスコ・サウンドを導入した「ハート・オブ・グラス」(78年、『名曲100』にランクイン)は、特大のヒット曲となった。

MTV開局の影響

 だからニューウェイヴが目立てば目立つほど、売れれば売れるほど、とくにイギリスにおいて、パンク・バンドの居場所はなくなっていった、とも言える。流行の座から追われることを意味したのだから。そしてさらに、アメリカでのMTV開局(81年)とほぼ軌を一にしてどんどん本格化していった第二次ブリティッシュ・インヴェイジョンが、米英両国のポップ音楽産業構造を根底から変えていくことになる。ミュージック・ヴィデオの重視、つまり「TVで流れて売れる」ようなポップ・ソングへの大規模シフト現象が起こる。

 こうした世相を反映して、ザ・カーズやベルリンら「アメリカ製の」ニューウェイヴ・バンドも次々に売れた。MVを駆使したマイケル・ジャクソンやマドンナやプリンスの成功とも相まって、ニューウェイヴ組はMTVで百花繚乱の艶姿を競う。そしてやはりというか、「転向」してきたデヴィッド・ボウイが今度は「ニューウェイヴ調ダンス・ポップ」アルバムの『レッツ・ダンス』(83年)を制作し大成功、彼の生涯最大のヒット作となる。

 そんな大騒ぎの影響下で、パンクスから忌み嫌われていたプログレッシヴ・ロックの大物たちも続々と「復活」する。イエス、ジェネシス、ピーター・ガブリエル、エイジアらが「シンセサイザーやエフェクターによる派手な効果音が目立つ」ニューウェイヴ通過後のポップ・ソングを連続して発表。もちろん気が利いたMVも制作して、MTVで流しまくって、ヒット・シングルを連発していく。唯我独尊のピンク・フロイドは79年に『ウォール』を出してしまう。

 またパンク勃興期には「オールド・ウェイヴ」とパンクスから侮蔑されていたヘヴィメタルも、あろうことか「ニューウェイヴ」オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル(NWOBHM)として蘇生。アイアン・メイデンやデフ・レパードなどが登場して大人気となる。ここからの飛び火がアメリカの、俗に言う「ヘア・メタル」(モトリー・クルー、ツイステッド・シスター、ポイズンほか多数。グラム・メタルとも)組をも活性化。その全盛期を80年代に呼び寄せてしまう。そしてこれらの状況、メインストリームの音楽シーンの構造そのものは、90年前後にオルタナティヴ・ロックとヒップホップの連続爆発によって吹き飛ばされるまで、基本的になにひとつ変わらずそのまま爛熟を続けていくことになる。

 つまり、80年代米英音楽シーンの商業的大隆盛、言うなれば「ブロックバスター化」が囂々と音を立てて進行していく傍で「ただパンク・ロックだけが」割を食らっていた、というわけなのだ。この一大地殻変動を誘発した「最初の一撃」は、まぎれもなくパンク勢が放ったものだったにもかかわらず。たとえばフリートウッド・マックや『ホテル・カルフォルニア』に象徴されるような70年代ロックの王道に、最初に強烈に「噛みついた」のはまぎれもなくパンク・ロックだった。一見磐石だった70年代中盤までの「現代」に深々と切れ目を入れる「ポストモダン」の一撃、これがあったからこそ、ニューウェイヴの発生はあり得たし、その全盛期を下支えしたのもパンク・ロックだった――にもかかわらず。

「お役御免」となったパンクは、70年代末のここで一度、ほぼ死滅してしまうまで追い詰められることになる。少なくともメジャー・シーンでは。

【今週の8曲】 

Elvis Costello & The Attractions - Pump It Up

これぞニューウェイヴ、これがニューウェイヴ。曲想やアレンジはもちろん、MVも。足首が折れそうなコステロの謎ステップ、キーボードは椅子なし中腰で、そして遠近感のない白バック……のちに巨匠バート・バカラックと共作する人になるとはとても見えない、若きコステロと仲間たちが超売り出し中だった78年の狂い咲き。

 The Police - Next To You

あのザ・ポリスにも初々しい時代があった(当たり前)。79年2月、デビュー直後の彼らがハットフィールド・ポリテクニックにておこなったライヴの動画がこちら。当時のパンク/NW組の誰にも負けぬ、嫌みなほど高い演奏力を「わざと」シンプルな構造のナンバーにぶち込んでいるがゆえの圧縮感がすごい。

Blondie - Heart Of Glass

これがパンクのわけはなく、しかし、ニューウェイヴなら可能だった「エレクトロニック・ディスコ」路線。ジョルジオ・モロダーのミュンヘン・サウンドをなぞって79年初頭に大ヒットしたシンセ・ポップの華。「ニューウェイヴの時代」の到来を先導した蠱惑的名曲。

Japan - Quiet Life

ジャパンもシンセ・ポップ化した。79年の第3作アルバムと同名のこのナンバーや、モロダーを起用した「ライフ・イン・トウキョウ」などで(本国UKでも)大きく人気を伸ばす。ベルリン時代のボウイでお馴染みハンザ・スタジオのレーベルで原盤を作った。

Visage - Fade To Grey

80年発表。MCUのあのヒーローにちなんだ芸名にして、ロンドンのクラブ・シーンの流行創出者としても有名だったスティーヴ・ストレンジ渾身の、ヴィサージ最大のヒット曲がこちら。ここからNWのサブジャンル「ニュー・ロマンティック」が開花していった。ピエロのような彼のメイクはボウイの真似ではなく、どちらかというと「逆」で、ゆえに御大のたっての希望で「アッシェズ・トゥ・アッシェズ」MVにはストレンジと仲間たちも黒衣姿で出演している(その際彼はブルドーザーに轢かれそうになったらしい)。 

Depeche Mode - Just Can't Get Enough (Official Video)

ニューウェイヴ発祥バンド屈指の成功者として、のちに世界のスタジアムを沸かせ続けた彼らのデビュー・アルバムからのカット。81年、この隙間だらけの軽いシンセ・ポップが「時代の音」だった。そしてじつは、未来も大きくクリエイトしていた。

Culture Club - Do You Really Want To Hurt Me

邦題はなぜか「君は完璧さ」(シングルのジャケットに使われた写真がよく撮れていた。まるで美形のように……)。レゲエを軽く、ソウルも軽く取り入れつつ、センチメンタルな旋律を朗々歌うボーイ・ジョージにキッズは魅せられた。大躍進の始まりを告げる82年作。

Duran Duran - Rio (Official Music Video)

ニュー・ロマンティックこと、日本で言うところの「ニューロマ」勢がスーツを着るようになったのがこのころ。だからほとんどロキシー・ミュージック。しかしスーツでヨットは無茶すぎる……のだが、それをやってしまうほどの(?)勢いに満ちていた82年作。「セイリング」で大西洋を超えたロッド・スチュワートよろしく、「ブリティッシュ・インヴェイジョンの大本命」として、カルチャー・クラブと足並みを揃え、デュラン・デュランが大きく羽ばたいていった地点の記録。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!