時代を動かし、時代に翻弄される編集者たち……【第4回】世界の編集者の読書論(3)――アメリカ、イギリス|駒井稔
イギリスのパーティでの思い出
出版における最大のマーケットは英語圏ですが、その英語圏であるイギリスとアメリカの「出版社回り」は、翻訳に携わる編集者であれば必ずすべき仕事であることはすでに書きました。ブックフェアに参加するだけでなく、出版社や版権エージェントのオフィスを訪問して、これから刊行される本の説明を聞くのです。
印象に残っているのが、出版社で開かれるパーティです。日本の出版界のパーティはホテルなどで開催されることが多いのですが、欧米では、自社の広い部屋を開放して、ケータリングサービスを利用したシンプルな形式が主流でした。とてもアットホームな雰囲気が印象に残っています。
そのなかでも忘れがたいのが、あるイギリスの出版社のパーティです。
会場はロンドンの中心からかなり離れた場所にありました。土地勘のまったくない場所に行くのですから、タクシーに乗って行くしかありません。予想よりもずいぶん離れた場所にそのビルはありました。住宅街のなかにあるビルという印象でしたが、もう日が暮れていたのでそれ以上のことは分かりません。
会場は日本の出版社の大きめの会議室くらいの広さでしたが、立錐の余地もないほどの混み具合です。東欧圏から来た編集者と初めて言葉を交わして、どんな作家が読まれているかを聞いたりしているうちに、ひとりの女性に紹介されました。
その女性はロシア人でした。編集者か、版権エージェントだったかは忘れてしまいましたが、彼女が「私がロシアでハルキ・ムラカミを紹介したの」と誇らしげに語る様子は今でも目に浮かびます。彼女のハルキ熱は凄まじいもので、私の顔に盛大に唾を飛ばしながらしゃべり続けるのです。
村上春樹さんがロシアでたくさんの読者をもっていることに驚きましたが、後でロシア文学者に聞いてみると、私たちの想像以上に人気があるようです。
最近、村上さん原作の「ドライブ・マイ・カー」が映画化され、アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞しましたが、その作品で村上さんは、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」に触れています。この映画で劇中劇として演じられている「ワーニャ伯父さん」は、古典新訳文庫の浦雅春さんの訳文を使用したものです。
読んでから観るか、観てから読むかは自由ですが、個人的にもチェーホフの一番好きな戯曲ですので、映画と原作の両方を味わうことをお勧めします。
村上さんの作品では、『1Q84』にチェーホフの「サハリン島」も登場するので、ロシア人の一方的な思い入れではなく、ロシア文学が村上さんの琴線に触れる部分があるのでしょう。
しまいには私が疲れてしまうほど、そのロシア女性のハルキ礼讃はとどまることを知りませんでした。そしてほとほと閉口したのは、彼女の口から私の顔に遠慮会釈なく飛んでくる飛沫でしたが、その熱い語りを聞かないわけにはいきませんでした。今となっては楽しい思い出です。
アメリカのパーティでは社長室に
アメリカの出版社のパーティで印象に残っているのは、ニューヨークのビルで開催されたパーティです。世界中から来た編集者たちがビールやワインを飲みながら歓談するのですが、そこで私はその会社の編集者である女性といろいろ話をしていました。
アメリカの出版社の内部ってどんな感じか興味があると私が話すと、彼女はいとも簡単に言いました。「ついていらっしゃい。私が案内してあげるわ」。
本当かなと思う間もなく、彼女は私の前を歩き始めていました。パーティ会場を出ると、会議室や編集室などをなんのためらいもなく案内してくれるのです。こちらが驚いているのが逆に不思議そうでした。最後にはなんと社長室に入っていきました。
「ここが社長の部屋よ。置いてある物には触らないでね」そう言って彼女は肩をすくめました。さすがに立派な部屋でしたが、社長室に他国の編集者を案内してしまうアメリカ流の出版社の開けた在り方に、ある種の羨望の念すら覚えました。
出版文化の違いはよく承知しているつもりでしたが、それでもこのフランクな感じは忘れがたいものでした。社長室の様子はいまでも鮮明に思い出すことができます。
まずはジッドの話から――スキャンダラスなほどに誠実な作家
さて、ちょっと唐突ですが、アンドレ・ジッドの話から始めます。
最近、ジッドはあまり人気がない印象がありますが、彼が20世紀のフランス文学を代表する作家の一人であることは間違いありません。先日、紀伊國屋書店のオンラインイベントで、ジッドの『法王庁の抜け穴』を新訳した三ツ堀広一郎さんと対談したのですが、そこでそんな話になりました。
『狭き門』や『田園交響楽』のような作品は、ひと時代前の青春文学のイメージが強いのかもしれませんが、アンドレ・ジッドはそんなに簡単な作家ではないと思います。
バルザックやゾラの19世紀文学から、20世紀文学へと歩みを進めた作品を知るうえで、『法王庁の抜け穴』はお勧めの一冊です。また、古典新訳文庫で『狭き門』を新訳した中条省平さんが書いた解説とあとがきもお読みいただきたいと思います。
ジッドはスキャンダラスなくらい自己に誠実な作家だったと思います。ここでいう誠実さとは、作家はたとえそれがどんなに反社会的であっても、常に真実を語る危険な存在であるべきであるという意味においてです。
1937年に書かれた『ソヴィエト旅行記修正』で、ジッドはこう書いています。すでに20世紀の歴史になってしまったとはいえ、この時代はまだソ連に対する幻想を世界中の知識人たちが持っていました。それをヒトラーのドイツと比較して、それ以下だとする言説が、どれほどの憤激をもたらしたかは容易に想像がつくでしょう。
実際にはスターリンの大粛清が始まり、強制収容所がソ連のあちこちに作られて、凄惨な事態が起きていた時代ではありましたが、まだまだ知の宗教とでも言うべきスターリニズムが世界中で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)していた時代です。
それに対して、これほど激烈な批判をしたことは、ジッドがいかに本来の意味で誠実な作家的勇気を持っていたかという証左でもあります。これは男性の同性愛について書かれた『コリドン』という書物でも同じです。
親子2代の編集者の物語
アメリカとイギリスの編集者の話が、いきなりジッドで始まったことに面食らった方も多いかもしれませんが、これには理由があります。
前回、ガリマール書店をご紹介した文章のなかで、アンドレ・シフリンというアメリカの編集者を紹介すると予告したのをご記憶でしょうか。そして彼の父親こそ、かのプレイヤード叢書を創刊した有能な編集者であることにも触れました。叢書はやがてガリマール書店に吸収されましたが、今日まで続く有名な古典叢書となります。
アンドレ・シフリンの父親のジャック・シフリンは、ジッドとの間で交わされた膨大な書簡を含めて、友人としても編集者としても、ジッドと多岐にわたる関係がありました。もちろん、この親子2代の編集者の物語は、いわゆる世襲によるものなどではありません。20世紀、そして21世紀の出版を考える上で非常に重要なエピソードに彩られた存在なのです。
息子が書いた書物『出版と政治の戦後史――アンドレ・シフリン自伝』によれば、ジッドの『ソヴィエト旅行記』の旅に、父親のジャック・シフリンは同行しているのです。
父ジャック・シフリンは、1892年にロシアのアゼルバイジャンの首都バクーの裕福な家庭に生まれたユダヤ人でした。もちろん、ロシア語はできますし、フランス語にも堪能でした。
古典新訳文庫の『ソヴィエト旅行記』の訳者あとがきでも、息子が書いたこの自伝について、訳者の國分俊宏さんが言及しています。『ソヴィエト旅行記』自体もとても読みやすい新訳ですので、是非この機会にお読みいただきたいと思います。
アンドレ・シフリンの自伝は、ひとりの社会民主主義者の記録として、あるいは、出版人の記録としても、非常に重要なものだと思います。後で触れますが、アンドレ・シフリンにはもう一冊『理想なき出版』という著作があります。
ジッドは『ソヴィエト紀行』でなぜ真実を書き得たのか?
しかし、自伝の紹介を優先しましょう。というのも、先ほどの『ソヴィエト旅行記』の件を含めて、父親のジャック・シフリンとジッドとの関係について――例えば、プレイヤード叢書をガリマールから刊行することをガストン・ガリマールに了解させるのにジッドは2年もかけていますし、またナチスに席巻されたフランスから、同じくジッドに助けられての一家のアメリカへの亡命、さらにそこでの父の出版活動など、大変興味深いエピソードが満載だからです。
私は以下の一節を読んだ時にほとんど驚愕しました。なぜ、ジッドがソヴィエト連邦に対して正確な像を持ちえたのか。もちろん、作家の本能が一番でしょう。しかし父親のジャック・シフレンの存在もとても大きかったことが分かります。少し長いのですが全体を引用しましょう。
ジッドの『ソヴィエト旅行記』には父ジャック・シフリンの大きな助けがあったことがよく分かります。多くの作家、知識人がソヴィエト礼讃の訪問記を書くなかで、ジッドが真実を書くことができたのは、編集者であった父ジャック・シフリンのおかげでもあったことは銘記すべきことだと思います。
亡命先のアメリカで
そしてまた、アメリカにはナチに追われてヨーロッパからやってきた出版人もたくさんいたことが分かります。
前回ご紹介した『ナチス通りの出版社』のなかで、フィッシャー社について触れました。この会社に果敢に挑戦したのが、トーマス・マンの兄であるハインリヒ・マンの全集を出してヒットさせた、新興のクルト・ヴォルフ社でした。そのあまりに大胆不敵な宣伝戦略についても紹介しましたが、なんと、そのクルト・ヴォルフも、アメリカに亡命してニューヨークでパンセオン・ブックスという出版社を始めていたのです。
食べていくのに必死だった父ジャック・シフリンは、このパンセオン・ブックスに就職することで、やっとひと息つくことができました。そして亡命してきた知識人たち、たとえばハンナ・アーレントなどと親しく付き合っていたのです。
しかしながら、息子のアンドレ・シフリンは、だんだん自分をアメリカ人だと感じるようになります。アメリカに来て7年経った13歳の時には、1948年の大統領選にもコミットします。もともと体の丈夫ではなかった父は、健康状態が極度に悪化していきますが、息子にフランスを再発見させ、現在のフランスを確認する先兵とするために、2カ月の旅に出します。
しかし息子のアンドレ・シフリンは、パリに着いてもアメリカ人の目で観察している自分に気づきます。そして晩年を迎えていた縁浅からぬジッドを訪ねていくのですが、そのくだりは印象的です。
本書には、その後アメリカに戻ったアンドレ・シフリンが、父の死後、極貧のなかでイェール大学に進学し、やがて奨学金を得てケンブリッジに留学して、アメリカのマッカーシーによる赤狩りなど、戦後の政治的激動を体験しながら編集者の道を歩き始める過程が描かれています。
彼はソヴィエト旅行に同行した父から話を聞いていたため、共産主義にはコミットしませんでしたが、社会民主主義者として行動します。そして1961年に父が勤めたパンセオン・ブックスがランダムハウスに吸収合併された後、1962年の初め、26歳の時に、偶然の事情から同社に勤めることになります。
しかし、70年代以降のメディア・コングロマリットと化したアメリカの出版界に対しては違和を表明するのです。
アメリカ出版界の激変
私自身もブックフェアに行くたびに、かつては独立系であった出版社が、現在は大きなグループに属していることを知って驚いた記憶があります。日本ではこのようなドラスティックな出版社の買収などはほとんどないといってもいいのですが、アメリカの出版界ではそれが日常化しており、それをアンドレ・シフリンは批判します。利益のためだけに本を作るのではないということを繰り返し主張するのです。
例えばランダムハウスという有名な大手出版社が、なんとエレクトロニクスの巨大企業のRCAに身売りしてしまうということが起きるのです。
やがてRCAにも見放されたランダムハウスは、S・I・ニューハウスという人物と、そのメディア・コングロマリットであるコンデナストに買収されます。居場所をなくしたシフリンが、最後は自分の出版社「ザ・ニュープレス」を設立するまでの過程も本書には書かれています。
『理想なき出版』の主張
そして自伝に先立って書かれた『理想なき出版』という本は、こうした問題について批判的検討を加えた本なのです。2000年に刊行され、日本で翻訳が出たのが2002年のことでした。
じつは私の著書『いま、息をしている言葉で。』にも、この本に触れた部分があります。『理想なき出版』が刊行された後に、著者のアンドレ・シフリン自身が来日して、シンポジウムが開かれたのです。たくさんの出版関係者が集まった会場は熱気に包まれていたことをよく覚えています。
アンドレ・シフリンの発言は、今まで書いてきたことでも分かるように、大変理想主義的でしたが、日本人の登壇者のなかで私が忘れられないコメントをした人物がいました。アンドレ・シフリンの言うような、まさに良書のみを刊行し続けている、文字通り良心的な出版社の幹部だったと記憶しています。
彼が開口一番、こんなことを言ったのでひどく驚いたのです。もう20年も前のことですが、確かにこう言ったのです。「私は良書という言葉が大嫌いなのです」。
それはアンドレ・シフリンの理想主義的な発言に対する反発のようにも聞こえましたが、私にはあまりにも意外なコメントでしたので、今日まで記憶しているのでしょう。
しかしながら、確かにアメリカにおけるメディア・コングロマリットの力は、私たちの想像以上のものであることが、『理想なき出版』を読むと分かります。この本が出た段階で、アメリカの書籍の総売り上げの8割が、5大メディア・コングロマリットに支配され、1999年には上位出版社20社が、売上高の93パーセントを占めていたといいます。
これを読めば分かるように、これまでに紹介してきたロシアのスイチンやフランスのエッツェルやガストン・ガリマール、そしてドイツの出版人たちと本質的には変わらぬ主張です。理想主義的ではあるけれど、アンドレ・シフリンも一人のビジネスパーソンとしての自覚はもちろん持っているのです。
少数派になった家族経営の小さな出版社
ただ、アメリカにおける出版事情の急変ぶりが、彼をして「出版とは何か」ということをテーマに筆をとらせたことは間違いありません。確かに本書で描かれたアメリカの出版界の激変ぶりには、正直驚きを禁じ得ません。
この文章を読み返していると、イタリアのボローニャで児童書のブックフェアに参加した時のことを思い出します。
60代と思しき男性が私に美しい絵本の説明をしている横に、若い女性が同席していました。それはイギリスの出版社のブースだったのですが、その男性はにこりと笑うと、その女性はわが娘なのだと言うのです。
「我が社は家族でやっているのだよ。もう一人娘がいるから紹介しよう」。そう言って、ブースの奥に声をかけて、もう一人の娘さんを紹介してくれました。まさに家族経営なのだと思いましたが、イギリスにはまだそういう出版社が残っているんだなと、『理想なき出版』を読んだ後のことでしたので、うれしく思ったのをよく覚えています。
しかしながら、そういう出版社は当然ながら少数派となり、アメリカのみならずイギリス、そしてフランスでも、巨大資本が出版の世界を席巻していくということが20世紀の後半に起きたことだとシフリンは指摘します。
書籍にしか求めることができない役割
こういう状況のなかでも、シフリンはフランスに出かけて、紹介すべき書き手を見つける努力を続けます。ミッシェル・フーコーの『狂気の歴史』を刊行し、マルグリット・デュラスの『愛人』はアメリカでは大ベストセラーになったと言います。
しかし新自由主義的な流れがさらに強力に出版社を締め付けるエピソードが数多く語られた後で、シフリンを含めた社員全員が、パンセオンを集団辞職する事態になってしまいます。1990年のことです。
財団や大学関係者によるさまざまな援助があり、シフリンは新しい出版社「ザ・ニュープレス」を立ち上げることになりますが、本書の最後に書かれた文章こそ、父と子2代が引き継いだ編集の理想をよく語っていると思います。
アメリカの有能で個性的な編集者たち
この本を読んだ後で、先に引用中に出てきた『ランダム・ハウス物語――出版人ベネット・サーフ自伝』を読むと感慨深いものがあります。
ベネット・サーフは「編集者」の章でこんなことを書いています。
さすがにランダムハウスを率いた名編集者ですから、これはしごく真っ当な編集者論であることは間違いありません。
もう一冊ご紹介しましょう。『名編集者パーキンズ』です。文庫本で上下巻1,000ページになろうかという大著ですが、非常に読みやすい翻訳で、一気に読むことができます。
ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、トマス・ウルフなどの作家の数々のエピソードが紹介されています。個人的にはヘミングウェイのエピソードを非常に興味深く読みました。
さらにもう一冊お勧めの本があります。翻訳家の常盤新平さんが書いた『アメリカの編集者たち』がそれです。この本にもたくさんの個性的な編集者が登場します。
これまで紹介した本は、基本的には書籍編集者の自伝や評伝だったのですが、この本では雑誌編集者にまでフィールドを広げています。
もちろん、先に紹介したランダムハウスのベネット・サーフも登場しますが、『エスクァイア』誌の創刊編集者、『リーダーズ・ダイジェスト』誌の創刊者、『コスモポリタン』誌編集長、『PLAYBOY』誌の創刊者などなど、雑誌畑の編集者がたくさん登場する、とても面白い読み物になっています。
イギリスの型破りな編集者、トム・マシュラー
それでは次は、イギリスの編集者に関する本を紹介しましょう。『パブリッシャー――出版に恋をした男』です。
出版に恋だ? 題名を読んだだけで腰が引けた方もいるかもしれません。しかし筆者のトム・マシュラーという人物は、イギリスの有名な文学賞であるブッカー賞の創設者ですし、出版を手掛けた作家のうち11人がノーベル文学賞を受賞しています。
ちょっと型破りな人物であることは、冒頭の「はじめに――『移動祝祭日』」を読むとすぐ理解できます。
トム・マシュラーがジョナサン・ケイプ社という出版社で働き始めてすぐに、ヘミングウェイが自殺しました。その1カ月ほど後に、ヘミングウェイの最後の夫人であったマリーが来社します。
彼女に気に入られたマシュラーは、アイダホの家に行ってヘミングウェイが自殺した時に書いていた原稿の整理を手伝ってほしいと頼まれます。実際に原稿を検討する作業は二人の判断に委ねられていたことになります。
マリーは自宅でウイスキーを毎晩ボトル1本開けていました。悲しみを癒すために必ず酔っぱらっていたのです。そのマリーについて、マシュラーはこんなことを書いています。
私は最初にこの本を読んだ時には、ここで読むのをやめようかとさえ思いました。こんなことを書くのは、自惚(うぬぼ)れの強い自己顕示欲の塊のような人物だと思ったからです。しかし我慢して読んでいくと、この個性が編集者としての彼の生き方に繋がっていることに徐々に気付いたのです。
ウィーンから亡命しイギリスへ
マシュラーは1933年にベルリンで生まれました。父親は書籍の巡回販売員でしたが、ウイーンに移り住んですぐに、ヒトラーがオーストリアに侵攻します。そして彼の父親を逮捕するために二人の将校がやってきます。幸運なことに父親は不在でした。
父親の犯した三つの罪は、ユダヤ人であること、社会主義者であること、出版に携わっていることでした。一家はなんとかイギリスに亡命します。
それからの人生も波乱に満ちていますが、やはり父親の影響なのでしょう。マシュラーは小さな出版社で働き始め、やがてペンギンブックスへ、1960年にはジョナサン・ケイプ社に移り、32歳で常務取締役になり、3年後には社長になりました。
この本の面白さは、トム・マシュラーという編集者がどう作家と付き合っていたかにあります。錚々たる作家たちと、この自惚れの強いマシュラーとのエピソードは、とても興味深いものです。こんなことを書いて大丈夫なのかと心配になるほどあけすけに、作家との交際を書いているのです。
錚々たる作家たちとの赤裸々なエピソード
イアン・マキューアンは、日本でも大変人気のある作家です。1998年に刊行された『アムステルダム』でブッカー賞を受賞しましたが、最も成功したのは『贖罪』であったといいます。
マシュラーは、イアンと、後に離婚したイアンの妻を自宅に招いた時のエピソードを紹介しています。マキューアン夫妻は夕食の時間が過ぎても現れません。イアンだけが予定より1時間以上遅れて到着しました。来る途中、夫婦喧嘩になって、車が信号待ちの時に妻はいきなり飛び降りていったことを明かしました。
結局、二人は離婚するわけですが、その後イアンは別の女性と結婚して幸福に暮らしていると書いています。作家でも妻と喧嘩くらいはするでしょうし、こんなことを書いて怒らないのだろうかと心配にもなります。
『スローターハウス5』で日本でも人気のあるカート・ヴォネガットが、離婚した後に夢中になった女性の写真家のこともリアルに描いてあります。魅力的だが猛烈に気の強い、というより「厚かましい」と言った方が正確だとさえマシュラーは書いています。
ある日、彼女がヴォネガットと一緒にオフィスにやってきます。そして、ある作家の写真を撮りたいので、電話番号を教えて欲しいと言うのですが、マシュラーは、その作家が写真を撮られることを嫌っており、誰にも電話番号を教えないでくれと頼まれていることを告げます。
すると彼女は突然部屋を出ていきます。そして階下の販売促進部へ行くと、マシュラーに頼まれたのだが、その作家の電話番号を教えて欲しいと言って、見事に電話番号を手に入れるのです。
結局、撮影は実現しませんでしたが、マシュラー自身がヴォネガットは想像力豊かで、鷹揚で、魅力的な男だと評する作家ですが、その妻の破天荒ぶりを赤裸々に書いてしまうのは、なかなか凄いことだと思います。
ジョン・レノンから持ち掛けられた企画
さらにはジョン・レノンの項では、ジョンの『絵本ジョン・レノンセンス』を刊行した経緯が書かれています。この本は大変な売れ行きを記録しました。続けて出した『らりるれレノン ジョン・レノン・ナンセンス作品集』も同じくらい売れたのですが、その後ジョンから、本を書いた友人がいるので紹介したいという申し出があります。
その本の出版をマシュラーは断りました。著者の名はヨーコ・オノ。ジョンがヨーコ・オノのように冷ややかでユーモアも解さないような女性に恋をしているのを見るのが悲しかったと書いています。
それもあってか、ジョンの死後、ダコタアパートに弔問に行ったマシュラーは、45分も待たされ、あげく敢えて自己紹介するように求められたのです。彼女と心を通わせるのは無理だと悟って早々に引き上げたことが書かれています。
ちなみにジョン・レノンのこの2冊は邦訳されています。
『パブリッシャー――出版に恋をした男』は、このような、エピソードというかゴシップともいえるような話題が満載の本です。訳者あとがきでは「150人を超す」と紹介されていますが、たくさんの作家について、この著者ならではの面白いエピソードが語られていきます。
また、自身が手掛けた料理本、写真集、画集、自叙伝、児童書についても章が設けられています。
「わたしの作家」とノーベル賞――中南米の作家たちも手掛ける
その中でもガルシア・マルケスとのやり取りは、とても興味深いものです。ロンドンに来ていたマルケスと会うのですが、意外なやり取りの様子が語られています。
そしてガルシア・マルケスがノーベル賞を受賞した時のスウェーデン国王主催のパーティにも出席します。マシュラーは、マルケスが自分のことを、自分の作品を残らず出版した唯一の出版人として紹介してくれた喜びを語っています。
その他にもたくさんのラテン・アメリカ文学の作家を手掛けていますが、ノーベル賞の受賞者としては、1967年のミゲル・アンヘル・アストゥリアス、1971年のパブロ・ネルーダ、1990年のオクタビオ・パスがいます。ですから以下のような自慢話にもなるのです。
こう言いつつ、ノーベル賞にはこんなコメントをしているのです。
ブッカー賞創設の経緯――賞金は誰が出す?
「イングランドの読書人はノーベル賞に関心がない」――これは意外な印象がありますが、本当にそうなのでしょうか。
逆に彼が創設したブッカー賞についての解説を見てみましょう。
初めてブッカー賞が発表されたのは1969年のことでしたが、そもそもは50年代の初めに講演で文学賞をテーマに話したことから始まったということです。それまでは、もっとも重要な文学賞はフランスのゴンクール賞でした。受賞作は50万部も売れる可能性があったといいます。
講演の際に会場から、文学賞を創設した場合の賞金をどうするのかという質問があり、マシュラーが考えたのが、ブッカー・ブラザーズという金持ちの会社をスポンサーにすることだったのです。
この会社は他の企業と共に西インド諸島でサトウキビの栽培をしていました。マシュラーはさっそくこの会社に話を持ちかけて、見事に賞金の提供を受けることに成功します。
さすがにこういうところは、したたかなビジネスパーソンです。それにしてもブッカー賞の名前がそういう会社名から取られていたとは、私にはとても意外なことでした。そしてマシュラー自身のこのコメントにも感慨深いものがあります。
買収、巨大化――出版社をものみ込む新自由主義
さて、ここからは、前半でご紹介した『理想なき出版』の話に連なっていきます。
ジョナサン・ケイプ社は1980年には驚異的な収益があったと言います。しかしそれから急速に財政的に厳しくなっていきました。マシュラー自らも銀行から借り入れをすることになります。
その時に連絡してきたのが、例のアンドレ・シフリンたちが集団で辞職したランダムハウス・グループを所有する大金持ちのアメリカ人、ニューハウスでした。アメリカと同じことがイギリスでも起きていたのです。
1987年、マシュラーはニューハウスと会って話をするのですが、何とかジョナサン・ケイプ社を自分の指揮下に置く条件でニューハウスとの契約を結びます。ですが、今まで通り経営にあたって下さいと言われていたにもかかわらず、盟友は別の人間にとって代わられ、辞職してしまうのです。
それから10年後には、なんとランダムハウスもろとも、ドイツのベルテルスマンに売られることになりました。
こういう話を読んでいると、あまりにも理想主義的であるという印象のあったアンドレ・シフリンの記述が、にわかに現実味を帯びてきます。出版が過剰に新自由主義的な市場優先主義に走ることの弊害がよく理解できます。
『パブリッシャー――出版に恋をした男』の訳者あとがきを読むと、マシュラー自身は、この本が刊行された2006年時点では、まだケイプ社の正式な一員だったそうです。
イタリアの革命的出版社、フェルトリネッリ
最後に、マシュラーが書いているフランクフルト・ブックフェアについて触れておきましょう。
フランスならガリマール書店、ドイツならズーアカンプ社と、出版社名を挙げていますが、いつも最初に立ち寄るのは、イタリアのフェルトリネッリ社のブースと決めていたと書いています。運が良ければ社主のジャンジャコモと奥さんのインゲの姿があったことを懐かしそうに書いています。
ボリス・パステルナークの名作『ドクトル・ジバゴ』を手掛けた出版人として世界的に知られるジャンジャコモの評伝は、なんと息子のカルロの手で書かれています。邦訳もあります。『フェルトリネッリ――イタリアの革命的出版社』がそれです。
これは、じつによく調べられた評伝です。あまり知られることのないイタリアの出版事情について知ることのできる好著ですのでお勧めです。
パステルナークについては『パステルナーク自伝』が刊行されていますので、こちらもお勧めです。もっと興味が湧いた方は、『人と思想 145 パステルナーク』を読んでみてください。
ボローニャの児童書のブックフェアに参加した時に、街で「フェルトリネッリ書店」を見つけて「ああ、これが」と思ったことを覚えています。
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さて、今回で「世界の編集者の読書論」を終わりにして、次回からは「世界の読書論」をご紹介していきたいと思います。乞うご期待。
第4回の読書ガイド
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【著者プロフィール】
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