期待されたのは『ラッシュライフ』型の作品――エンタメ小説家の失敗学35 by平山瑞穂
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第6章 オチのない物語にしてはならない Ⅴ
映画との比較だけでなく……
自作を紹介するたびにこうして同じ文章をくりかえすのはせつないものがあるのだが、この本(『バタフライ』。文庫化の際に『午前四時の殺意』に改題)もまた、売れなかった。
ネット上の感想では、「展開が地味で期待外れだった」といった意味合いのものが目立った。おそらくそうした人々の一定量は、このタイトルから、映画『バタフライ・エフェクト』のような物語を期待したのだろうと思う。しかしそのわりに、それほど大きなできごとが目くるめく展開で起きるわけでもないので、落胆したのだろう。
中には、「こんなのは本当の“バタフライ・エフェクト”じゃない」などとくさしているものもあった(そもそも、自然界の現象ではなく、人と人との関わりに関してこの語を使用するのは比喩にすぎないのだから、「本当の」もなにもないと思うのだが)。
しかし、彼らがこの作品の展開を「地味」と評するのは、映画『バタフライ・エフェクト』との比較だけが原因ではなさそうだ。
レビューの文面を瞥見することを通じて、彼らがどういう物語を求めていたのかは、あらかた想像がつく。「もっと掘り下げてほしかった」「登場人物全員が幸せになるのを見届けたかった」「尻切れトンボ」「最後をもっとうまくつなげてほしかった」――代表的な感想の核心部分は、おおむねそういったところにある。
おそらくだが、彼らが期待していたのは、一見、無関係と思われる人々が、巧妙に張りめぐらされた伏線によって互いに思いもかけぬところで結びつき、意想外の結果を呼び起こして、最後には複雑なパズルのピースが余すところなくしかるべき位置に収まるように、作中で描かれていたあらゆる問題がいちどきにきれいに、かつ鮮やかに解決する、そんな物語だったのだろう。
『バタフライ』は、そういう物語ではなかった。部分的にそういう要素もなくはないが、解決しないまま放り出している問題もあったし、すべてのピースがきっちりと回収されるわけでもなかった。
実は、初稿を脱稿した際、担当編集者から、もう少しそういう方向に作品の形を寄せられないかという打診は受けていた。それはあくまで編集長からの意見という触れ込みではあったが、担当編集者自身、「編集者としては、正直、そう直したい衝動に駆られます」と漏らしていた。しかし僕は、「そういうのは、自分が書きたい作品ではありません」と言ってそれを拒んだ。担当編集者も、書き手としての僕の資質はよくわかってくれていたので、それ以上の無理強いはしなかった。
自分なりの必然性
僕の言い分としてはこうだ。
パズルのピースがすべて揃うようなタイプの作品なら、すでにほかの作家がいくつも書いている。パッと思いつく中で言うなら、たとえば伊坂幸太郎の『ラッシュライフ』などは、その好例のひとつだろう。多くの登場人物が、それぞれの思惑を胸に、各人バラバラに行動しているのだが、それらの動きが、「それがそこにそうつながるか!」と思わせるような劇的な形で互いに影響しあい、すべてが丸く収まる痛快なラストになだれ込んでいく。
ただ、そうした天の配剤のような、めくるめく偶然に次ぐ偶然の妙などというものは、現実にはほとんど起こりえない。それは一種のファンタジーだ。もちろん、ジャンルの如何を問わず、小説というのは、フィクションであるかぎりにおいて、ファンタジーであることを免れないところがあるし、そういう作品を否定する気は僕にもない。現実には起こりえない劇的で爽快な展開を描きえているからこそ、そうした作品は支持されるのだろう。
しかし、『バタフライ』を書くに際して、僕の関心は最初からそこには向けられていなかった。そういう作品は、そういう展開を組むのが得意な作家が書けばいいのであって、僕が取り組むべき課題ではないと思っていた。僕が描きたかったのは、あくまで、「大きな事件が起きる流れの中に、自分自身が無自覚なまま関与している可能性」だったのだ。
夜、なにかの片手間に見たTVニュースで報じられている事件を、多くの人は人ごとだと思って聞き流すだろう。でも、もしもあなた自身が、自分でも気づかぬうちに、そこに一枚噛んでいたとしたら? 日中、コンビニの従業員の要領の悪い対応にいらついて、つい、きつい調子でなにか言ってしまったこと、あるいは、通りですれちがった見知らぬだれかが落としたハンカチを拾ってあげたことが、その後、別のなにかに派生的に影響を及ぼすことで波紋が広がり、それが最終的には、報道されているその事件に逢着していたのだとしたら――?
その恐ろしさこそが、『バタフライ』を通じて僕が表現したかったことなのである。それを表現するためには、作中で描かれる事象は、「現実世界に十分に起こりうること」である必要があった。奇跡のような巡り合わせに依存するような形にしたら、作品本来の趣旨から逸れてしまう。また、同じ理由で、ことさらに派手な展開にすることも避けたかった。現実世界に、そうそう派手な展開など起こりえないからだ。
『バタフライ』という物語を、現在、本になっているような形にした背景には、僕なりの必然性があったのだ。
しかし僕のその信念は、一般読者には通用しなかった。ネットでレビューを見るかぎり、僕自身の狙いどおりに受け取ってくれている人は少数派で、多くは先に述べたような理由で不平や不満を漏らしていた。映画『バタフライ・エフェクト』シリーズしかり、『ラッシュライフ』型の小説作品しかり、似た要素はあっても事実上、別の理念に基づいて作られた作品群の系列という「雛形」と勝手に比較され、「その水準に達していないから、この作品はおもしろくない」というジャッジを下されてしまったのである。
もっとも、この『バタフライ』にせよ、先に挙げた『桃の向こう』にせよ、オビなどには、それぞれの作品を書くに際して僕が最も大事にしていた核心部分がわかるような文言は、ひとつも書かれていない(前者のヘッドコピーは「飛べ! あなたはもう一人じゃない」、後者は「おまえも、あいつとつきあってたの?」)。その意味では、読者の期待との間に齟齬が生じてしまうのも避けられないことのような気がするし、版元の売り方にも問題があったのではないかと指摘できなくもない。
ただ、版元としても、「そうでもしなければ興味を持ってもらえないかもしれない」という判断があったからこそそうしたのだろうし、そもそも僕が描きたかった核心部分そのものが、普遍性からあまりにも遠かったということにすぎないのかもしれない。
いずれにしても、これだけは言える――「すべてに説明がなされ、あらゆる問題が放置されずに解決する」という形を取る小説でないと、一般読者の支持を得ることはむずかしい。それに背馳する面のある自らの理念や美学をあえて具現化する形で書いた作品を発表する際には、それなりの覚悟が必要だということだ。(続く)