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3:ブルーハーツがすべてを変えて、「ビートパンク」がなにもかも押し流す——『教養としてのパンク・ロック』第35回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第5章:日本は「ある種の」パンク・ロック天国だった

3:ブルーハーツがすべてを変えて、「ビートパンク」がなにもかも押し流す

「ラバーソール」とブルーハーツ

 80年代末のその当時、たとえば渋谷センター街をものの数分も歩けば、楽器を肩に担いだバンド・キッズか、あるいは「ラバーソール」の靴を履いた男女の何人かを目撃することができる、と言われていた(事実そのとおりだった)。「インディーズ」バンドやその追っかけファンが愛用した厚底のゴム底靴――日本でのみ「ラバーソール」と通称される――の出どころは、もちろん直近ではヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンの一連の「仕掛け」からだった。「テディ・ボーイズのスタイルをパンクに取り込む」という例のやつだ。これによって、それまではテッズの愛用品だったジョージ・コックス社製のゴム底シューズ「ブローセル・クリーパー」が、ピストルズ・スタイルの一部となった。そこから流れに流れて、コピー商品が山のように作られて、「イカ天」バンドたちも履くようになった。

 日本のパンク・ロックがこうなった理由を、世相以外に挙げるとしたら、ひとえにそれはザ・ブルーハーツのせいだった。パンク・ロックが、まるで日本の小劇団か日本の学校の文化祭みたいな「自己参加型」の発表会的なものへと大きく変質していった契機は前述の「インディーズ」ブームからだったのだが、少なくとも途中からは、まぎれもなく「ブルーハーツの成功を模倣しようとした」という内容の、一大ブームへと変質したからだ。もちろん模倣者のうちに成功例はほとんどなかったし、あったとしても、ブルーハーツとは比ぶべくもなかったのだが。

 85年に結成、87年にメジャー・デビューしたブルーハーツは、ヒット・シングルをいくつも出した。この成功の大きさは、90年代以降のアメリカにおけるグリーン・デイやオフスプリングらのブレイクを「先取りした」とすら言えるものだった、かもしれない。80年代の後半当時、ここまで巨大なポピュラリティを獲得し得たパンク・ロック発祥のポップ・ソングは、世界的に見てもきわめて稀な存在だった。

 なにしろブルーハーツの音楽は「標準的な日本のロック・ファン」以外の層にも、きわめて幅広く受けたのだ。「人にやさしく」「TRAIN-TRAIN」「情熱の薔薇」などは、小学生までもが歌詞を誦じたし、メンバーの似姿は少年ジャンプの人気連載漫画キャラクターにまでなった。「やさしさパンク」とも呼ばれた。そして代表曲筆頭の「リンダリンダ」は、地方都市の女子高生がバンドを組むというストーリーの映画『リンダ リンダ リンダ』(05年)を生み、そこからインスピレーションを得た米ロサンゼルスの少女四人組バンド、ザ・リンダ・リンダズ(2018年結成)にまでつながっていった(彼女たちも、もちろんブルーハーツの「リンダリンダ」をカヴァーして、日本語詞のまま歌った)。ここまでのポピュラリティを得るに至ったブルーハーツの音楽性は、当時、おもに巷間「ビートパンク」などと呼ばれていた。

 ビートパンク

 ビートパンクとは、もちろん和製英語ですらない、カタカナ語だ(なぜならばBeat Punkと書いてみても、英語としては一切なんの意味も成さないからだ)。この語の出どころというと、「めんたいロック」と総称された、ルースターズ、ザ・モッズ、ザ・ロッカーズ、シーナ&ザ・ロケッツなど福岡をベースとしていた「ビート・バンド」の存在からの転用からだと見なされている。しかしこっちの場合のビートとは、ほぼマージー・ビート期のBritish Beat Bandsと同じ使いかただから、なにも間違ってはいないのだが……しかし「ビートパンク」ともなると、なにを言っているのかまったくわからない。ただ「言わんとしていること」を汲み取ることは、できなくもない。

 ブルーハーツの「ヒット曲」に特有のスタイルをある種の「ジャンル」とみなした言葉が「ビートパンク」で、具体的には、以下の要素を兼ね備えた「わかりやすい」ポップ・パンクを指す。(1)ジ・アンダートーンズやバズコックスが得意としたような、キャッチーなポップ・パンク・ソングを、おもにミディアム・テンポで展開した上に、(2)くっきりと聞き取りやすく「まるで童謡のように平易な日本語の歌詞」が乗る――というのが、それだ。

 とくに後者、七五調を基本とする日本語詞の一音節に音符ひとつを当て込む、というスタイルは、70年代初頭、はっぴいえんど時代の松本隆が発明した「黄金律」に立脚している(七と五を、それぞれ「八」になるように長音符や休符などと組み合わせ、8ビートに「合致させる」という手法だ)。はっぴいえんどのこの達成は、その後の日本語ロックの基礎となった。RCサクセションの忌野清志郎も、この達成の上に自らの世界を構築した。そして、ちょうどこの忌野のスタイルによってバイパスされたような形で、「黄金律」をパンク・ロック構造のなかへと引き込んだのが、ブルーハーツのソングライターである、甲本ヒロトと真島昌利の2人だった。ここに名を挙げた四者は、いずれ劣らぬ、戦後の日本語ポピュラー・ソング史に巨大な足跡を残した天才たちだった、と断ずることができる。つまり80年代当時は、その「天才の最新形態」がまさに最前線で、大車輪で稼働しているタイミングだった、というわけだ。

子供騙しの市場

 ゆえに誰もかれもが「ブルーハーツみたいになりたくて」真似をした。しかし誰も「真似をしている」とは認識したくなかったせいで捏造されたジャンル名のようなものが、つまりは「ビートパンク」の正体だった。そしてすなわち、これこそがインディーズおよびバンド・ブーム・バブルを最終的に膨らませられるだけ膨らませたものの正体でもあった。

 実体などない、虚妄にも近い「ジャンル」に若者は群がっていったのだ。そして雑誌やTVに囃し立てられては、自治体が「路上演奏してもいいよ」と差し出してくれた場所などを舞台に、我も我もと参加しては、演奏したり、演奏者を応援したりする。つまりそこには「マーケット」が生まれた。参加者が往々にして買い手も兼ねる奇妙なその市場は、もちろん「日本ならでは」の各種の規制や利権構造の上に、まさに砂上の楼閣として築き上げられた、かりそめのものでしかなかった。かげろうのようにはかなく、誰も見たこともないほど奇矯にしてにぎやかな「子供騙しの市場」でしかなかった。

 だからこのバンド・ブームは、すぐに終わった。「イカ天」の終了と同時ぐらいのタイミングだったか。日本らしく、見事にあとくされなく、「なにごともなかったかのように」パンク・ロックに似たバンドのブームは、その一切合切が消えてなくなってしまう。

日本には存在しづらいポストパンク

 そしてその後も、日本におけるパンク・ロックの、ムーヴメント規模での蘇生は、とくになかった。驚くべきことに、ポストパンクの興隆も、ほぼまったくと言っていいほど、なかった。とくに後者が「ない」というのは、国際的に見てもかなりめずらしいのだが。

 つまり勃興期、東京ロッカーズの時代に次から次に登場してきたあとは、日本には「ポストパンクらしいポストパンク・アーティスト」が、ほとんどいないのだ。バンド・ブームのあとの90年代前半から中盤に巷を賑わせた、いわゆる「渋谷系」も、洋楽ロックの素養が豊かであるとの触れ込みだったわりには、しかしパンク・ロック的な精神性はからきしだった。ゆえに渋谷系が「ポストパンク化する」ことは事実上不可能であり、実際なかった。だから英米欧ではとくにゼロ年代以降に顕著な「ポストパンク・リヴァイヴァル」現象は、僕が知るかぎり、日本において特記すべき事例はない。英米欧では、これまでに2~3回は大きな波があったのだが。2010年代以降は、ほぼ定着したジャンルにまでなっている観すらあるのだが。

 と、そんなわけで、90年代以降の日本にパンク・ロックの遺伝子はほとんど残ってはいない。ごく一部の例外を除いては。

「ゴス」から「ヴィジュアル系」へ

 ではその「残っている」一部を、順に記していこう。まず言うまでもなく「ハードコア」勢が、残り続けている。メンバーの変遷や活動休止を挟みながらも、命あるかぎり、炎を燃やし続けているアーティストは数多い。そこからHi-STANDARD(ハイスタンダード)ら90年代以降の(よりスポーツ・パンクに近い)新世代ハードコアや「メロコア」ことメロディック・ハードコアのバンド群へとつながっていく。スカコア、ラウド・ロックなどのハードコアからの派生種も人気ジャンルとして定着する。オーセンティックなパンク・スタイルのバンドとしては、スタークラブやザ・モッズの活動も継続している。ブルーハーツは95年に解散したが、甲本と真島は、バンドを「乗り換え」ながら永遠に終わらないロックな夏休み的活動を継続中だ(現在はザ・クロマニヨンズだ)。

 それからこちらはパンクの遠縁として、日本における「ゴス」バンドは、独特の進化を遂げて「ヴィジュアル系」と呼ばれるジャンルへと発展していった。V系と略称される、あのジャンルだ。また日本では当初「ゴス」ではなく、ポジティヴ・パンク(略称ポジパン)と呼称されていた同ジャンルは、AUTO-MOD(オートモッド)、マダムエドワルダ、SADIE SADS(サディ・サッズ)、アレルギー、あぶらだこなどが初期のシーンを引っ張っていた。この遠い延長線上にX-JAPANも登場する。そして今日V系は、パンクとも、ポストパンクともほとんど関係しないジャンルと化してはいるものの、ある意味で日本を代表する特産品的なロックのサブジャンルとして、国際的にも人気が高い。

 ちなみに、なぜか日本人がとても強く好んだ「ポジティヴ・パンク(Positive Punk)」なる呼称は、英ライターのリチャード・ノースが考案したもので、83年2月19日号の『NME』にて初めて活字化されたものだ。のちに「ゴス」と呼ばれるムーヴメントに目を付けて、それをカテゴライズするつもりで彼が造語したのだが――かの地ではこの呼称は根付かなかった(記事としては受けて、ほかの媒体も追随したのだが)。なにしろ元来真っ暗なゴスなのに、どこがどうポジティヴなのか?というところが滅法わかりにくく、そこが敗因となって呼称のほうは定着しなかったか、と僕は思う。

 ノースが説いた意味的には、ピストルズのように社会批判をしたり、音楽的にも政治的にも、なにやら革命的な空手形を切らないからこそ「ポジティヴなのだ」ということだったのだが……しかし実際的には、記事の裏テーマは明らかに、当時猛威を振るっていたOi!系統からハードコア、クラスに代表されるアナーコ勢に対して「違うんだ!」と述べることであったのだと僕は見る。「それではないのだ」と。もっと個人主義的で、耽美的で、「自らの深淵にひそむ真実」に目覚めては「タブーを恐れずに、自由に装う」ゴス勢を誉め称えるという意味でつい「ポジティヴ」と言ってしまった――のが、どうやら出発点だったようだ。

 そんな具合に、ものの見事に「考え落ち」だったこの呼称が、日本では「ゴス」の異名となるのだが、そうなった理由を想像するに、おそらくはこれまた「雑誌のせい」だったのではないか。日本の雑誌が最初に同ムーヴメントを紹介した際に参照したのがこの『NME』記事であり、そして「それがそのまま」定着してしまったのではないか。三つ子の魂なんとやらで、しみ込んでしまったのだ。だからリチャード・ノース当人が知ってか知らずか、彼の筆は、日本のポップ音楽界に決して消えぬ大きな足跡を残している。

【今週の5曲】

THE BLUE HEARTS - Linda Linda

正調「リンダ リンダ」を公式映像で。87年5月にリリースされたメジャー・デビュー・シングルはこの曲(のシングル Ver.だった)。目を剥き痙攣する甲本ヒロトが、巷間「やさしさパンク」と呼ばれるものの使徒となった。音量が小さいのでご注意を。

The Linda Lindas - Linda Linda (Blue Hearts cover) & John Waters Intro - Live at Mosswood Meltdown

その「リンダ リンダ」に影響を受けたザ・リンダ・リンダズによる「リンダ リンダ」カヴァーがこちら。昨年7月、加州はオークランドでのライヴから。若さ溢れる演奏の前説を、(なんと)映画監督のジョン・ウォーターズが本当に嬉しそうに述べているところ、お見逃しなく。「リンダ・リンダズは地獄みたいにクールだぜ!」――そして「ド~ブネ~ズミ・みたいに~」と(もちろん日本語詞で)歌が始まる……

The Undertones - My Perfect Cousin (Official Video)

たとえばこんなポップ・パンク曲が、ブルーハーツ・スタイルの基礎アイデアと近いと僕は読む。北アイルランド出身の純真パンク筆頭、アンダートーンズが80年に発表したミッド・テンポの名曲。

Hi-STANDARD - Stay Gold [OFFICIAL MUSIC VIDEO]

90年代後半、日本のパンクだけではなく、インディー・ロックの広大な領域をも背負って飛翔したのがハイスタンダードだった。彼らの活躍は、その後のメロコア、ラウド・ロックの方向性を決定づけた。3rdアルバム収録の人気曲がこちら。

Sadie Sads - Angora (1984)

日本のいわゆる「ポジパン」勢のなかで、今日最も海外において支持され続けているのがサディ・サッズ。この動画では「日本のデスロック(Deathrock)」と紹介されている。たしかに、ゴスよりもデスなテクスチャーが「踊ろう~」などとあやしげに聴き手を誘う様はユニーク。84年リリースのシングルより、「アンゴラ」と「Id」を2曲連続で。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

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