「心理学」は「科学」といえるのか?|高橋昌一郎【第6回】
リトル・アルバート実験
想像してみてほしい。ちょうど今、読者はマラソンを走り終えたばかりで、汗だくになって喉が渇ききっている。目の前に給水員がいて、真黄色のレモンをナイフで2つにカットして渡してくれた。読者は、搾り果汁の湧き出ている切り口に齧り付いた。そのあまりの酸っぱさに、読者は身体中で震え上がった!
さて、いかがだろうか。読者の口の中には唾液が広がったのではないだろうか?
1904年にノーベル生理学・医学賞を受賞したロシアの生理学者イワン・パブロフは、イヌに餌を与える際にベルの音を聞かせ続けた。するとイヌは、ベルの音を聞いただけで、餌がなくとも唾液を分泌するようになった。これが「条件付け」である。読者も過去に味わった「酸味」の経験に条件付けられているため、「レモン」を思い浮かべるだけで「条件反射」により唾液が分泌されたわけである。
パブロフの実証的研究方法を高く評価したジョンズ・ホプキンス大学の心理学者ジョン・ワトソンは、「心理学」はヒトやイヌの「刺激」に対する「反応」を客観的に計測し研究する「行動科学」でなければならないと考えた。ワトソンは、ヒトの「心的過程」とは、外界からの「刺激」に対する「反応」を生じさせる物理的状態だと定義している。ここでいう「刺激」と「反応」は、たとえば「レモン」という言葉に対する「唾液」分泌の増加量や、特定の映像を見た場合の脈拍の変化のように、データを測定して物理的に数値化できる。ワトソンは、これらの変化から「心的過程」を「科学的」に理論化しようとした。
1919年、ワトソンは、乳児の「恐怖心」がどのように変化するかを解明するために、「リトル・アルバート実験」を行った。被験者となる生後11カ月のアルバートは、最初、モルモットやウサギなどの小動物を見せても無反応だった。そこで彼の目の前にモルモットを置き、彼が興味を持って手を伸ばしてモルモットを撫でた瞬間、後ろに立っているワトソンがスチール棒を叩いて「バン」と大きな音を立てる。アルバートは驚いて息をのみ、唇を震わせて泣き始める。しばらくして彼が泣き止むと、再び目の前にモルモットを置いて同じことを繰り返す……。
その後、アルバートは、モルモットを見ただけで音がなくとも泣き出すようになった。つまり、モルモットを見れば泣くという条件付けができたわけだが、さらに実験を続けたところ、ウサギやイヌ、毛皮のコートや毛糸の玉を見ただけでも泣き出すようになった。この変化は、アルバートの脳内でモルモットに対する「恐怖心」の対象が広がったためだと考えられる。ワトソンは、この実験に基づき、ヒトの感情は一定の刺激と反応の結合を拡張させると主張した。
さて、「小動物恐怖症」を植え付けられて、毛玉を見るとすぐに泣き出すようになったアルバートを見て驚いた両親は、彼を連れて行方不明になった。当時は、このような「児童虐待」に相当する実験が平気で行われていたわけである(この実験に関する詳細な解説は、拙著『感性の限界』(講談社現代新書)をご参照いただきたい)。
本書で最も驚かされたのは、リトル・アルバート実験をはじめとする20世紀の30の代表的な心理実験を紹介する著者・大芦治氏が、ワトソン流の実験心理学が「20世紀の終焉とともに衰退の兆し」を見せていると非常に悲観的な印象を述べている点である。たとえばリトル・アルバート実験は、ワトソンが主張するように、ヒトの「恐怖心」の拡張を証明したと断定できるのか。そもそも「普遍法則」を導くのが科学だとすると、「心理学」は「科学」といえるのか?