見出し画像

「心理学」は「科学」といえるのか?|高橋昌一郎【第6回】

■膨大な情報に流されて自己を見失っていませんか?
■デマやフェイクニュースに騙されていませんか?
■自分の頭で論理的・科学的に考えていますか?
★現代の日本社会では、あらゆる分野の専門家がコンパクトに仕上げた「新書」こそが、最も厳選されたコンテンツといえます。
★「新書」の最大の魅力は、読者の視野を多種多彩な世界に広げることにあります。
★本連載では、哲学者・高橋昌一郎が、「知的刺激」に満ちた必読の新刊「新書」を選び抜いて紹介します。

リトル・アルバート実験

想像してみてほしい。ちょうど今、読者はマラソンを走り終えたばかりで、汗だくになって喉が渇ききっている。目の前に給水員がいて、真黄色のレモンをナイフで2つにカットして渡してくれた。読者は、搾り果汁の湧き出ている切り口にかじり付いた。そのあまりの酸っぱさに、読者は身体中で震え上がった!

さて、いかがだろうか。読者の口の中には唾液が広がったのではないだろうか?

1904年にノーベル生理学・医学賞を受賞したロシアの生理学者イワン・パブロフは、イヌに餌を与える際にベルの音を聞かせ続けた。するとイヌは、ベルの音を聞いただけで、餌がなくとも唾液を分泌するようになった。これが「条件付け」である。読者も過去に味わった「酸味」の経験に条件付けられているため、「レモン」を思い浮かべるだけで「条件反射」により唾液が分泌されたわけである。

パブロフの実証的研究方法を高く評価したジョンズ・ホプキンス大学の心理学者ジョン・ワトソンは、「心理学」はヒトやイヌの「刺激」に対する「反応」を客観的に計測し研究する「行動科学」でなければならないと考えた。ワトソンは、ヒトの「心的過程」とは、外界からの「刺激」に対する「反応」を生じさせる物理的状態だと定義している。ここでいう「刺激」と「反応」は、たとえば「レモン」という言葉に対する「唾液」分泌の増加量や、特定の映像を見た場合の脈拍の変化のように、データを測定して物理的に数値化できる。ワトソンは、これらの変化から「心的過程」を「科学的」に理論化しようとした。

1919年、ワトソンは、乳児の「恐怖心」がどのように変化するかを解明するために、「リトル・アルバート実験」を行った。被験者となる生後11カ月のアルバートは、最初、モルモットやウサギなどの小動物を見せても無反応だった。そこで彼の目の前にモルモットを置き、彼が興味を持って手を伸ばしてモルモットを撫でた瞬間、後ろに立っているワトソンがスチール棒を叩いて「バン」と大きな音を立てる。アルバートは驚いて息をのみ、唇を震わせて泣き始める。しばらくして彼が泣き止むと、再び目の前にモルモットを置いて同じことを繰り返す……。

その後、アルバートは、モルモットを見ただけで音がなくとも泣き出すようになった。つまり、モルモットを見れば泣くという条件付けができたわけだが、さらに実験を続けたところ、ウサギやイヌ、毛皮のコートや毛糸の玉を見ただけでも泣き出すようになった。この変化は、アルバートの脳内でモルモットに対する「恐怖心」の対象が広がったためだと考えられる。ワトソンは、この実験に基づき、ヒトの感情は一定の刺激と反応の結合を拡張させると主張した。

さて、「小動物恐怖症」を植え付けられて、毛玉を見るとすぐに泣き出すようになったアルバートを見て驚いた両親は、彼を連れて行方不明になった。当時は、このような「児童虐待」に相当する実験が平気で行われていたわけである(この実験に関する詳細な解説は、拙著『感性の限界』(講談社現代新書)をご参照いただきたい)。

本書で最も驚かされたのは、リトル・アルバート実験をはじめとする20世紀の30の代表的な心理実験を紹介する著者・大芦治氏が、ワトソン流の実験心理学が「20世紀の終焉とともに衰退の兆し」を見せていると非常に悲観的な印象を述べている点である。たとえばリトル・アルバート実験は、ワトソンが主張するように、ヒトの「恐怖心」の拡張を証明したと断定できるのか。そもそも「普遍法則」を導くのが科学だとすると、「心理学」は「科学」といえるのか?


本書のハイライト

正直に申し上げれば、心理学の将来に対してあまり明るい展望が持てないでいる。もちろん、若手の心理学者の中には、神経科学や人工知能の研究者と対等に渡り合える力量をもった者も増えており、彼らに期待もしている。また、とくにわが国では、この20年ほど臨床心理士、公認心理師の資格化が進められる中で、各地の大学に心理学部、心理学科などが新設され、多くの心理学の研究者や実務家を育てる仕組みが作られたことは喜ばしいことでもある。しかし、そのような景気の良い話の裏側に何か落とし穴があるのではないかと、考えてしまうのである。

(p. 256)

あわせて読みたい

『新書100冊』も好評発売中

前回はこちら

著者プロフィール

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)
國學院大學教授。情報文化研究所所長・Japan Skeptics副会長。専門は論理学・科学哲学。幅広い学問分野を知的探求!
著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『実践・哲学ディベート』(NHK出版新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。

この記事が参加している募集

光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!