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「そろそろ受賞レースに打って出ていく時期です」――エンタメ小説家の失敗学26 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第5章 「編集者受け」を盲信してはならない Ⅲ

「そろそろ受賞レースに打って出ていく時期です」

 さて、基本的には同じ問題に属する、そしてある意味で衝撃を受けたケースをここでもうひとつ紹介したいのだが、それを語るためには、当該の作品をめぐって僕が犯したもうひとつの失敗についても、触れないわけにはいかなくなる。話がやや込み入ってしまって心苦しいのだが、順を追ってひとつずつ説明していくので、ご了承願いたい。

 ことの発端は、二〇〇七年の春先に遡る。第3章で触れた『冥王星パーティ』が刊行されてまもないくらいの時期に、新潮社の担当であるGさんから、こんな提案を受けた。

『冥王星パーティ』改題

「平山さん、そろそろ受賞レースに打って出ていく時期です。直木賞を頂点として、吉川英治文学新人賞、山本周五郎賞などいろいろありますが、やはりなんらかの権威ある賞を受賞しないと、注目を集めて売れつづけるのは厳しいのが現実です。これからは、それを意識した作品作りをしていくのがいいと思います」

 挙げられた文学賞はいずれも、エンタメ文芸の領域において、公募型ではなく、すでに発表されている作品の中から、これぞというものが候補として選ばれ、最終的には選考委員による審査を経て授けられる賞である。そもそも候補に選ばれなければ、受賞のしようがない。その選考に引っかかりやすい条件を備えた作品を意識的に書いていくべきだというのが、Gさんの提案の肝だった。

 Gさんは直木賞を例に取りながら、候補に挙がる作品には一定の傾向があり、うちひとつは、なんらかの現代的な社会の様相などを主要なモチーフとして取り上げたものだと指摘した。僕が受賞を狙うなら、そうした方向性の作品が向いているのではないかというのだ(Gさんのこの指摘は、至当だったと思う。その後の僕が書く小説は、意外にも、現実にべったりと寄り添った、社会性の高い題材を取り上げたものが多かった)。

 そのときGさんが例に挙げた過去の直木賞受賞作のひとつは、篠田節子の『女たちのジハード』(第117回、一九九七年上半期)だった。男性優位社会の中で、それぞれの理想を目指して、各々のやり方で奮闘していく女性たちの姿を描いた群像劇だ。

 Gさんの言うような意味合いでそれに系列が近い受賞作としては、ほかにたとえば、昨年、惜しくも亡くなった山本文緒の『プラナリア』(第124回、二〇〇〇年下半期)などが挙げられるだろうか。これは、さまざまな事情から「無職」になってしまった人々の、屈折した心模様を生々しく描き出した短編集であり、現代社会をめぐるある意味で先駆的なスケッチでもあった。

 第1章で述べたように、僕はデビューしてから大慌てでエンタメ系の「売れている作品」を読み漁ることになり、この時点ではなおその「修養」過程にあったため、そのあたりの作品にはまだ手が回りきっていなかったのだが、取り急ぎ、『女たちのジハード』はすぐに取り寄せて読んでみた。なるほど、と思った。この作家の、登場人物たちに対してある意味で容赦ない冷徹な書きぶりには、どこか僕自身とも通じるものが感じられ、「こんな感じの作品なら自分にも書けるかもしれない」と思った。

「三〇歳に達しても大人になりきれない大人たち」

 そして僕なりに、「現代社会のありさま」を鋭くえぐったものとなりうる小説の構想として考え出したのは、「三〇歳に達しても大人になりきれない大人たち」にスポットライトを当てるというものだった。

 二〇歳でとうに成人しているはずなのに、社会人になり、ときにはすでに既婚者となっていてさえ、まるで中高生のような戸惑い多き日々を過ごし、「青春真っ盛り」のように見える大人たち――。それは僕自身が、当時の勤務先などでざらに見かける風景だった。

 昔なら、三〇歳といえば、男でも女でもすでに「中年」の域に差しかかっていたものだが、現代の同じ年齢層の人々に、その気配はみじんも感じられない。晩婚化・少子化が進む中、彼らはいつまでも「男の子/女の子」でありつづけようとし、大人になることをどこかで拒みつつ、無限に繰り延べされた青春を生きているように見える。それは、きわめて「現代的な」社会のありようとして僕の目には映っていた。

 彼らのそうした傾向を、僕は「ネオテニー」という生物学用語に託した。ネオテニーとは、「幼形成熟」とも訳されるが、性的には完全に成熟した個体でありながら、生殖器官以外の部分に、幼生・幼体の特徴が残存する現象のことを指している。南米のある種のサンショウウオの幼生としてのアホロートル(別名アクソロトル、いわゆるウーパールーパー)がよく知られているが、それにあやかって、現代人に見られる、「肉体的には成熟していながら、精神構造に幼さが残る現象」を、比喩的にそう呼ぶことにしたのである。

 当初、この小説には、『ネオテニーたちの夜明け』というタイトルが仮につけられていた。そして僕はこの作品を、(『女たちのジハード』のように)群像劇として描くことに決めた。主人公は、ウェブに配信する動画の制作等を請け負っている「株式会社Vサプライ」という企業に勤める、三〇歳前後の男女三人の社員である。

 いい歳をして「大人になりきれていない」という点では、正直、僕自身も人のことを言えた義理ではなかったのだが、当時勤務していた会社には、そういう傾向が目に余る人も少なからず見られた。今だから言うが、三人の主人公にはそれぞれ、会社内にモデルとなる人物が実在していた。物語の構成については、章ごとに視点が切り替わり、三人それぞれの視点から、会社内外でのできごとが語られるという形を取ることにした。

 ただし、当時の僕はまさにその勤務先と兼業であり、しかもすでに他社から受注してしまっていたいくつもの仕事をこなしている最中だったため、すぐにはこの作品に取りかかれなかった。翌二〇〇八年の夏ごろになってようやく手が空いたのはよかったのだが、まさにそのタイミングで、先述のように、Gさんが編集長に昇進し、僕の担当を外れることになってしまった。

 作家として地歩を築いていく中で、僕はGさんの、いちいち時宜にかなった適切な助言の数々をかなり頼りにしていたので、この知らせには相当なダメージを受けたのだが、Gさんはちゃんと、僕と波長の合う後任者を選んでくれていた。やはり女性で、当時、三〇代に入ったばかりだったNさんである。こうして僕は、Nさんのディレクションのもとに、『ネオテニーたちの夜明け』の本稿に着手したのだった。(続く)


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