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なぜ売れたのかわからない。いまだに――エンタメ小説家の失敗学17 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第3章 作品の設計を怠ってはならない Ⅴ

なぜ売れたのかわからない

 発売当初は、目立った動きもなかった。だから僕も、「いつものことだ」と受け流していた。それが、半年ほども過ぎた頃を境に、いきなり火がついたように売れはじめた。最初、四〇〇〇部の重版の連絡を受けたときには、かつがれているのではないかと思ってしまったほどだ。それほどまでに、「重版」というのは僕にとってなじみのない事態だったのだ。

『冥王星パーティ』改題『あの日の僕らにさよなら』

 どうも、どこか有力な書店で、書店員さんが激推しするPOPかなにかが立てられたことが最初のきっかけになったらしいのだが、正確なところはわからない。ともかく、そのブームは瞬く間に他の書店にも飛び火し、その後僕は半年以上にわたって、毎月のように、時には月に二度も、「またしても重版です!」との連絡を担当から受けつづけることになった。そしてトータルの刷り部数は、最終的に、一二万六〇〇〇部にまで達した。

 もちろんそれは、涙が出るほど嬉しいことでもあったのだが、同時に僕は、その間ずっと、実に複雑な思いを抱えてもいた。

 初めて「爆発的なヒット」と呼べる事態を巻き起こしたのが、なぜこの作品だったのか。すでに一六作も発表している中で、この作品が特に優れているとは、僕にはまったく思えなかった。先に述べたとおり、僕にとってこの小説は「初期の旧作」にすぎず、単純に出来のよさでランクづけするなら、自分では下から数えたほうが早いほどの位置づけに置いていた。その後、経験値を積んでから書いた諸作品のほうが、よっぽど洗練されていて、作品としての価値も高いように思えてならなかったのだ。

 そういう目で見返してただちに気づいたのは、その時点での僕から見て、この作品の瑕疵と思われる点の多くが、例の三〇〇枚削減をめぐる苛酷な改稿作業の傷跡にほかならないということだった。

 それは、腕や足を根元から切断したり、内臓のいくつかを取り払ったりするのにも等しい、「大手術」とも言うべき規模の大きい改稿だった。僕はそうした切断面の前後を丹念に鞣し、大改造が行なわれたことが目立たないようにして、一本の筋が通った物語全体の中に自然に溶け込ませるべく精一杯努めはしたが、少し時間を措いてから読み返すと、「ああ、ここに段差がある」「ここのつながりが不自然だ」と気になってしまう箇所がいくつも見られるようになっていた。

 それが、原稿のもとの姿も知っている張本人だからこそ感じ取れるものだということはわかっている。なにしろ僕は、「ここで消された人物がいる」「この場面とこの場面の間に、三〇枚にも及ぶ重要な場面があった」といったことを逐一記憶しているのだ。そんな経緯など与り知らない一般読者が、問題の箇所について、僕と同じ精度で同じ違和感を覚えるわけではないはずだ。

 それでも、作品の随所に見られるそうした「手術の痕跡」のために、この小説は全体として、どこか不恰好な、据わりの悪いものになってしまっている気がしてしかたがないのだ。同じテーマであったとしても、今ならここはもっとこう書くのに、もっとこうすれば、ずっと洗練されたたたずまいになったはずなのに、といちいち歯がゆく感じてしまうのである。

 この作品が飛ぶように売れて初めて僕は、まるで学生の頃に若書きした欠点だらけの習作が今になって衆目に晒されてでもいるかのようないたたまれなさを感じた。

 結果として売れたのだからそれでいいではないか。そうした欠点があったかもしれないにしても、売れたということは、高く評価されたということなのではないか――人はそう言うかもしれない。しかし僕は、そういう見方に対して常に一定の猜疑心を抱いている。

 売れるということと、高く評価されるということは別だ。「売れる」とは、必ずしも作品のよしあしやそれに対する評価とダイレクトに結びつくものではなく、それ自体として、ときにはオートマティズム的に生じうる現象なのだ。なにかのきっかけでひとたびセールスに火がついた本は、まさに「売れているから」というだけの理由で、しばらくはほぼ自動的に売れつづけるのである。

 この本がなぜ売れたのかは、いまだにわからない。タイトルを改めたことがよかったのか、タイミングが絶妙だったのか、それとも最初に書店で立てられたPOPがよほど秀逸だったのか、いずれにしても、いくつかの条件がたまたま幸運なシナジーを呼び起こした結果だったのだろう。(続く)


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